陶芸室の名誉教授
夏休みの大学というのは、世界の終わりみたいに静かだ。
翌日。俺は宣言どおり、瑞芸のキャンパスに来ていた。
正門から工芸棟までの並木道に、人影はほとんどない。蝉の声だけが誰に聞かせるでもなく降り続けている。30連敗の男が歩くには、ちょうどいい寂しさだった。
工芸棟の1階、陶芸作業室。
事務室で窯の予約を済ませたあと、卒業制作の構想を練り直すつもりだった。テーマは「器」。我ながら捻りがない。就活で「個性が見えない」と言われ続けた男の卒制が「器」。教授陣の渋い顔が今から目に浮かぶ。
ドアを開けた瞬間、俺は足を止めた。
……誰かいる。
作業室の奥、窓際の轆轤の前に、見知らぬ老人が座っていた。
白髪を短く刈り込み、藍色の作務衣を着ている。年は70か、80か。背筋だけが妙に若い。
その手元で、粘土の塊が回っている。
俺は思わず息を呑んだ。
老人の指が触れると、土はまるで自分から形になりたがっているように、するすると立ち上がっていく。うねり、すぼまり、開く。4年間土を触ってきた俺でも見たことのない、土と指の会話だった。
「……そこで突っ立っておらんで、入ったらどうかね?」
轆轤から目を離さずに、老人が言った。
「あ、すみません。お邪魔します」
「ここの学生か?」
「はい。4年の橘です。陶芸専攻で……あの、失礼ですが、先生は?」
「ふむ」
質問には答えず、老人は轆轤を止めた。
台の上には、丸っこい壺がひとつ、生まれたばかりの姿で鎮座していた。
「ここの学生か、と訊いたら『はい』と答えた。近ごろの若いのは『一応』とか『まあ』とか、返事に濁り水を混ぜよる。おぬしの返事には濁りがなかった。……ふむ、気に入った」
「は、はあ」
何がなんだか分からないが、褒められているらしい。30連敗の身には、老人の気まぐれすら沁みる。
あとで陶芸室の助手さんに訊いたところによると、この老人、うちの学部の名誉教授……らしい。らしい、というのは、誰も名前を知らないからだ。年に数回、誰もいない時期にふらりと現れては、轆轤を回して帰っていくのだという。
「橘といったな。弓を引くだろう?」
「……え?」
心臓が跳ねた。弓の話なんて一言もしていない。
「立ち方で分かる。左肩が的を覚えておる」
老人は事もなげに言って、足元の風呂敷包みをほどき始めた。
「ちょうどいい。おぬしにやろうと思っておったものがある」
「え、いや、初対面ですよね?」
「初対面かどうかを決めるのは、出会った回数ではないよ」
禅問答か。
包みの中から現れたのは、サッカーボールほどの大きさの、丸い壺だった。
思わず見入った。
正面には鶴。裏に回れば亀。上半分には藍色の夜空が、下半分には橙の太陽が描かれ、闇から光へ、上から下へと色が流れ落ちていく。地の模様は、細い線を編んだ籠目格子。
そして壺の口の周りには、見たこともない文字がぐるりと1周、描かれていた。ひらがなでも漢字でもない。強いて言えば、記号と文字の中間のような。
陶芸専攻の目でつい口縁を覗き込む。窯印がない。それに、この文字は本焼きのあとで上絵として描き足されている。誰が、何のために。
「これ……なんて書いてあるんですか?」
「神代文字というやつだ。読めるかね?」
「読めません」
「即答よの」
老人は初めて皺の奥で笑った。
「『うしろの正面だあれ』」
「……かごめかごめ、ですか?」
籠目、籠目。籠の中の鳥は、いついつ出やる。夜明けの晩に、鶴と亀が滑った……。
鶴と亀。夜と、夜明けの太陽。籠目模様。
この壺、あの童歌をまるごと焼き固めたような意匠だ。
「うしろの正面、というのはな」
老人は壺を俺の胸に押しつけながら言った。
「振り返った、その真後ろ。一番近くにいるのに、一番見えておらんもののことだ」
「はあ……」
「まあ、持っておれ。卒業制作の参考にでもするといい。土は正直だぞ。触っておれば、そのうち分かる」
何が分かるのか、さっぱり分からない。
だが断る理由も見つからず、気づけば俺はずしりと重い壺を抱えて頭を下げていた。
「あの、お名前だけでも」
顔を上げたとき、老人はもう轆轤に向き直っていた。
回る土を見つめる横顔は、こちらの質問など最初から聞こえていないようだった。
……帰りの電車の中。
膝の上の壺は、夏の陽を吸い込んだように、ほんのりと温かかった。焼き物というのは、こんなに人肌に近いものだったろうか。
網棚の広告も、車窓の景色も、なぜだか全部よそよそしく見えて、俺はただ、腕の中の鶴と亀を眺めていた。
「あら、立派な壺ねえ」
家に帰ると、母さんが目を丸くした。
「大学の名誉教授って人にもらった。卒制の参考にしろって」
「もらった? こんなにいいものを?」
母さんは壺を受け取って、ためつすがめつ眺め、口の周りの文字に指を這わせた。
「何て書いてあるのかしら。読めないけど、きれいな字ねえ。お花でも挿したら映えそう」
「挿さない。卒制の参考だから」
初対面かどうかを決めるのは、出会った回数ではない……昼間の老人の言葉が、なぜか頭をよぎった。母さんは「大事にしなさいよ」と笑って壺を俺に返した。
その夜。
机の上に壺を置き、卒業制作のスケッチブックを開いたが、鉛筆はまるで進まなかった。
30連敗。卒業まであと半年ちょっと。器のテーマも決まらない。俺の将来は、この白紙のページと同じだ。
「……寝よ」
電気を消して、布団に入る。
どれくらい経ったころだろうか。
うとうとと、眠りに落ちかけた俺の耳に、それは聞こえた。
……ころん
小さな、けれど確かな音。
何かが壺の中で転がった音だった。
跳ね起きて電気をつける。
壺は机の上で昼間と同じ顔をして鎮座している。鶴は鶴のまま、亀は亀のまま。
恐る恐る中を覗き込んでも、底には何もない。空っぽだ。
「……気のせい、だよな」
空耳だ。就活疲れだ。そういうことにして、俺は再び布団に潜り込んだ。
壺の底が、部屋の電気だけでは説明のつかない、淡い光をたたえていることに、俺は気づいた。
覗き込んだまま、動けなかった。うしろの正面だあれ。一番近くにいるのに、一番見えていないもの。老人の言葉が、耳の奥で回る。
『……あ、届いた?』
壺の底から幼い女の子の声がした。




