第9話 箸休め。
その週の土曜日。(2027/3/27)
ノートパソコン10台とプリンター、それに予備の用紙とトナー、パソコン関連の本を10組。それらを苦労して理化学研究所に運んだ。理化学研究所に到着したところ、先方も待ち構えていたようで、てきぱきと荷下ろしを終えることができた。迎えに出てきてくれていた幸田さんによると使い方などのデモの必要はないということだった。
その日大河内所長は不在だったので、そのまま俺は理研を後にした。午後からは、冷蔵庫の中の物の補充のためスーパーに行き、ワイシャツなどをクリーニングに出した。
翌日の日曜日。(2027/3/28)
午前中に電源装置10台が届いた。とてもではないが玄関口に入りきらなかったので、部屋の中まで運送屋さんに入ってもらって、それを部屋の中に置いてもらった。あまりに邪魔なので積み上げようと思ったのだが、箱に『上積み厳禁』と書いてあったのでやめておいた。それで何とか脇に寄せて、一息ついたらもう11時だった。
堀口との約束は、14時に上野駅の南口ということだったので、そろそろ支度をして駅前で何か軽いものを食べよう。
ということで、駅前のハンバーガーショップでセットメニューを頼んで完食し、京浜東北線に揺られて、途中乗り換えることなく上野に到着して、南口に向かった。
時刻は午後1時50分。約束の時間の10分前だ。まずまずの出来だ。
南口のすぐ横に立ってボーっと人の流れを見ていたら、自動車道を挟んだ向こう側から、青になった横断歩道を小走りになって駆けてくる堀口を見つけたので、大きく手を振ったところ、周囲の視線を集めてしまった。視線を集めるために手を振ったのだから仕方ない。
その堀口だが、ちょっと高級そうに見えるベージュの薄手のコートを着ていた。俺の格好は上はジャンパー、下は厚手のチノパン。足元は履き慣れた=くたびれたともいうスニーカーだ。どうせ相手は堀口だと思って軽い格好したんだが、ちょっとマズかったか?
「お待たせしました!」
「俺もさっき来たところだから、それほど待ってない」
「そのセリフ。定番ですよね!」
「そうかもな。実際にずっと待っていても、そこでずっと待っていた、と言っても意味ないものな」
「なんだか醒めてますね」
「今は昼だしな」
「もういいです」
「上野公園に行くんだろ?」
「そのつもりです」
「じゃあ、行こうか」
堀口と並んで、信号が青になるのを待って、上野公園側に移動して、ぐるっと回って正門?から公園の中に入っていった。サクラはほぼ満開。考えてもいなかったが、いいときにやって来たものだ。
「満開だな」
「綺麗ですね」
「そうだな。それでどうする?」
「一回りしたら、どこかで食事しませんか?」
「そうだな」
ハンバーガーセットを食べてきたから腹が空いているわけではなかったが、せっかくの花見日和なので昼間からビールを飲むのも悪くない。
公園内の通路になった部分を残してビニールシートを敷いた花見席には人が溢れ、出来上がった酔っ払いたちで大騒ぎしているグループだらけだった。
その喧騒の中、桜の花でできたアーチの下を堀口と並んで歩いていった。
特に話すこともなく、そのまままっすぐ歩いていき、博物館の手前辺りで公園から出た。
それから上野駅に沿って坂を下っていったところ、かの有名な焼き肉屋が目に入った。
「ここに入ろうか?」
「ここってもの凄く高いんじゃなかったですか?」
「実は俺も初めてだけど、前々から食べてみたかったんだ」
「わたし、払えるかな?」
「心配するな。今日は俺がおごってやるよ」
「大丈夫なんですか? 主任といってもわたしとそんなにお給料変わらないんじゃ?」
「一応先輩だし」
「じゃあお言葉に甘えます」
「甘えてくれ」
そういうことで店の中に入り受付で二人と告げた。店の人が堀口のコートを預かってくれて、4人席に案内してくれた。
向かい合って座ったところで、店の人がおしぼりを置いてくれ『注文がお決まりになりましたらお呼びください』と言ってテーブルに置いてあった余分な二人分のエプロンを持っていった。
二人でおしぼりで手を拭いて、
「適当に頼むな。それで、堀口もビールでいいか?」
「はい」
メニューを見てだいたい決まったところで、店の人を呼び、まず瓶ビールを頼んでから酒のつまみとしてのセンマイ刺しを頼み、肉をそれなりの量頼んだ。
すぐにビールとセンマイ刺しがやって来たので、堀口のグラスに注いでやり、堀口が瓶を取って俺のグラスにビールを注いでくれた。
「それじゃあ、なんだかわからないけれど、乾杯!」
「カンパイ!」
二人でグラスを合わせてから、ビールを飲んだ。グラスが小さかったせいか一気に飲み干してしまった。堀口も半分くらい飲んだようだ。
それで、堀口のグラスにビールを注いでやり、手酌で自分のグラスにビールを注いだ。
「あっ。山田先輩、気づかなくってすみません」
「気にしなくていいから」
「じゃあ、気にしません。ところでこれって何です?」
「センマイと言って、四つある牛の胃のどれからしいな」
「ミノも胃ですよね?」
「そうだな。それも何番目の胃なのかは知らないけどな。で、センマイ刺しだけど、からし酢味噌で食べると最高なんだ。さらしクジラもおいしいけど、売ってないし、出してくれる店も少ないからなー。とにかく食べてみろよ」
堀口は割り箸を割って、センマイ刺しを少し摘んでからし酢味噌をつけてから口に運んだ。
「どうだ?」
「これ自体には味はあまりないみたいだけど、タレによく合ってるし、独特の歯触りが癖になりそうですね」
そうだろう、そうだろう。
「じゃあ俺も」
ということで俺も割りばしを割って、センマイ刺しを摘んだ。
旨いじゃないか!
そうこうしていたら、ビールがなくなってしまった。
店員さんを呼ぼうとしたら、肉の第一陣がやって来て、ガスに火を入れてくれた。
店員さんの帰り際にビールを2本頼んでおいた。
それで、横に置いていた前掛けを二人で身に着けて、肉を網の上に載せていった。最初はカルビ×2とロース×1の割合だ。
「立派な肉ですね」
「そうだな。そこらの焼き肉屋とはちょっと違うようだな。とにかく焼けた順にどんどん食べていってくれよ。頼み忘れたけど、サンチュもあったほうがいいな」
ということで、店員さんがビールを持ってきてくれたところでサンチュを頼んだ。
手酌でグラスにビールを注いでごくりと飲む。
そして、空になった堀口のグラスにビールを注いでやる。
「見た目通りおいしい。焼肉はカルビですよね!」
「俺もその説に完全に同意する。とはいえ、定番のミノとタン、それにシロ(小腸)は外せないけどな」
「先輩とわたしって焼き肉に関しては同じですね」
「堀口も同じか」
「そうみたいです。そういえば、男女が二人で焼き肉屋に入るって、そういう関係だって言いますよ」
「それは都市伝説だ。現に堀口と俺は無関係だろ?」
「今の返し、説得力あり過ぎですね。そういえば、今日の午前中、荷物が届くとか言ってましたが、オンラインで何か買ったんですか?」
「趣味の物をな」
「へー。先輩の趣味って何なんですか?」
「それを聞くか。そうだなー。ちょっと恥ずかしいんだが近代史かな。大正から昭和にかけての日本史ってところ」
「なんだか、アカデミックですね。それで具体的には何を買ったんです?」
「あの時代、電力事情が悪くって、100ボルトのはずの電圧が80ボルトとか120ボルトとか平気で変動してたんだそうだ」
「へー。でもそれが買ったものとどう関係するんですか? コンセントから引いた電圧が変動する機械でも買ったんですか?」
「いや、その逆で、電圧が一定になる無停電電源装置を買ったんだ」
「つまり、先輩の住んでいるところは電圧が不安定だったり停電したりするってことですか? 先輩って埼玉でしたよね? 埼玉怖い!」
「埼玉怖くないし、そもそも俺のところじゃないんだが、知り合いにそういうところがあって、知り合い用に俺が用意したんだよ」
「なんだかよく分かりませんね」
「まあ、とにかく焼けた端から食べなよ」
「そうですね」
「話は変わるが、堀口はたしか理系だったよな?」
「恥ずかしながら」
「恥ずかしがるなよ。それで何学科だったんだ?」
「一応理学部の生物化学学科でした」
これは俺の計画の役に立つんじゃないか? ちょっと突っ込んだ話を聞いてみるか。
「今の仕事とは全く関係ないが、どうしてまたうちの会社を選んだんだ?」
「成績が悪くて先に進めず、それっぽい所にはわたしの成績では無理そうで、遊んでいるわけにもいかず、とりあえず今の会社に就職しました」
「うちでは相当な変わり種ではある」
「自覚しています」
とはいえ俺にとっては好都合。
「堀口は、将来のことはどう考えてるんだ? うちの会社で頑張って上を目指していくとか、適当なところでいい相手を見つけて永久就職とか」
「上を目指すことだけはありませんが、永久就職もなんだか実感がありません」
「ふーん。この会社にこだわってもいないんだろ?」
「それは言えます。先輩はどうなんですか?」
「俺も上を目指す気はないんだよ。ただ、生活できればいいって感じだ」
「そうなんだ。先輩はてっきり上を目指すかと思っていました」
「そう見える?」
「見えないかも?」
「とにかく、あと15年くらいは趣味に生きていくつもりなんだ」
「15年? 嫌に具体的なうえに中途半端ですね」
「俺にもいろいろあってな。それで話は戻るが、生物化学ということは、例えばアオカビからペニシリンを抽出したとか?」
「それはやったことはありませんが、特定のタンパク質からのカラム精製というのをやりました。手法的にはペニシリンの抽出とほとんど同じだったはずです」
「ほう。ちゃんと勉強してるじゃないか」
「実験そのものは失敗しましたが、レポートをそれっぽく書いてなんとか単位は取れました」
「学部生の段階だと理解できていることが大事だからな」
「ですよね」
「今でもそういった実験に必要な器具って思い出せる?」
「完全に思い出せるかと言われれば難しいですが、パソコンでそれなりに検索しながらなら問題なく思い出せると思います」
すごいじゃないか!
「それがどうしました?」
「俺の趣味の役に立ちそうだと思ってな」
「ペニシリンが役に立つんですか?」
「ペニシリンが役に立つんだよ」
「趣味がペニシリンって分かんないです」
「そのうちな」
「うーん。あっ! もしかして、山田先輩、性病!?」
「そんなわけないだろ! 堀口。お前、学生時代に痴女って呼ばれていなかったか?」
「そんなわけないじゃないですか」
「ほんとかよ?」
「さあ?」
第1陣のカルビとロースがなくなったところで網を代えてもらい、第2陣のミノとタンを焼きながら、堀口の利用方法を考えた。
少なくとも、ペニシリンとストレプトマイシンがらみの機器については堀口に相談すればいいものが手に入りそうだ。ただ、30キロ程度の重さというところがネックだが、今の世の中、小型化、ポータブル化が進んでいるから、持ち運び可能な大きさ、重さでも、それなりの器材が手に入るだろう。
その日、午後5時近くまで焼き肉屋にいて、もの凄く腹いっぱいになった。クッパも好きなんだが、お腹いっぱいで食べられなかった。
席を立って伝票を持って受付に行き、堀口がコートを返してもらっている間にカードで会計した。
店を出て上野駅方向に歩きながら、
「先輩のカード、金色だったですね!」
「まとまったものを買うとき、金色じゃないと枠があまりないだろ? だから金色に変えたんだよ」
「ひょっとして山田先輩って、どこかの御曹司?」
「違うから。しがないサラリーマンだから」
「不思議だなー。単純に見栄で金色にしたってことないですよね?」
「それもないから、必要があって金色にしただけだから」
地下道を通って上野駅に戻ったところで堀口と別れた。確かに俺の月給で金色のカードは分不相応ではある。




