第10話 大正15年4~6月
会社は年度末はそれなりに忙しかったが、何とか乗り切り、月が替わって新しい年度が始まった。
浦和のわが家だが、北浦和公園にもっと近い、60平米で2LDKの物件に引っ越した。
これで自宅から穴までの直線距離で50メートル、移動距離で70メートルほどになった。新しい物件には荷物置き場として1部屋確保したので、理研に運ぶまで荷物で窮屈な思いをすることもなくなった。
会社の方だが、新年度に入ったものの、うちの部署には新人が配属されなかったので、俺が面倒を見ている堀口が一番下っ端のままだ。そのくせ本人は大きな顔をしている。
4月1日。理研と星製薬との合弁会社である『星未来薬品株式会社』が設立された。理研からは役員が2名派遣されたそうだが、基本的に星製薬が舵を握る形だ。理研との関係強化がいろいろな面で波紋を呼び、星製薬に対する当局の追及の手は文字通り『霧消』したそうだ。大河内所長によると、軍部による介入があったのだろうということだった。戦後、とやかく言われることが多い日本軍も、悪いところばかりじゃないってことだ。ただ、星製薬の社長、星一氏に対する台湾での裁判は継続中とのことだった。
理研への物資運搬は順調で、4月の間に追加の電源装置やパソコンなどを持ち込んだことでだいぶ安定してきた。
実験結果のばらつきが一気になくなったことで、これまでの実験結果のばらつきの原因がやはり不安定な電源だったことが証明された。これだけでも、研究開発速度は爆増ものだろう。
理研の嘱託職員である俺の給料だが、2カ月間だけ、しかも週半日くらいしか働いていないのに4月から月給150円、5割増となった。部下がいるわけでもないので、奢ることもない。向こうでお金を使うのは運賃とたまに外食するくらいなので貯まる一方だ。何か有意義な使い方を考えないと無駄になる。
抗生物質抽出について、ブーストしたほうがいいだろうと思った俺は、抗生物質抽出に関して必要な機材を堀口に見繕ってもらった。
小型インキュベーター(微生物の培養装置)
冷却機能付きの高速遠心機(オートクレーブ(熱で殺菌)機能付き)
デジタル顕微鏡(卓上型のエントリーモデル)
0.0001グラムの精密質量計と「基準分銅セット」
マイクロピペット(0.1μL〜10mL)
消耗品として、
ディスポーザブル(使い捨て)チップ & チューブ
高性能フィルターユニット(高性能のろ紙のようなもの)。
「山田先輩、こんなものですが、一体先輩はどこに向かって進んでるんですか? まさか、自分でペニシリンを作って自分に使おうとか思っていません?」
「それはないんだが、ペニシリンって手元にあれば安心だろ?」
「確かにそうかもしれませんが、いや、そういう話ではなく」
「堀口が性病にかかったら、俺が秘密で治してやるからその時は言ってくれ」
「それって、セクハラですよ!」
「堀口にだけは言われたくはないぞ」
それでもお礼に堀口を寿司屋に連れていった。
「こういうことなら、なんでもわたしに相談してください」と言われてしまった。大トロってなんであんなに高いんだ。そしてなんで堀口は大トロばかり食べるんだ? 確かに好きなものをいくら頼んでいいと言ったが、限度があるだろ! わざとじゃないよな?
堀口が挙げてくれた装置類を2セット注文し、小物はそれなりの数量注文しておいた。冷却機能付きの高速遠心機(オートクレーブ(熱で殺菌)機能付き)については、メーカーから「海外へ持ち出さない」「軍事目的で使用しない」といった誓約書を求められた。少し勉強になったよ。
ものがものだったので、揃えるのに時間がかかったが、4月末からのゴールデンウイーク中に理研に持ち込むことができた。
装置や小物の使い方などについては、説明書を参照してくれと丸投げしておいた。
とにかくこれで抗生物質の抽出は加速するはずだ。あとは、スーパーアオカビとスーパー放線菌が見つかれば第一段階終了。それらを培養してエキスを抽出して純度を高めれば第2段階終了。簡単な治験を経て工業化だ。来年の早いうちに実用化できそうだ。
そのころ、別の問題としてナイロンの合成について理研では行き詰っていた。ということで、生物科学とは全く関係ないが、化学実験には違いないので堀口に相談してみた。
「ちょっと、調べてみます」
ということで、翌日堀口が会社にメモを持ってきた。
オイル封入式旋回真空ポンプ
窒素ガス調整器
デジタル温度制御ユニット
ヘキサメチレンジアミンとアジピン酸
がメモに書かれていた。
ヘキサメチレンジアミンとアジピン酸がナイロンの原料であることは知っていたが、今それを作っているところ。
それで「何でこれが必要なんだ?」と堀口に聞いたら、
「本物を使って、ナイロンを合成することで、正解を肌で知ることができるんです」
と答えた。確かに。
「それはそうと、先輩は、抗生物質をやめて、今度はストッキングでも作ろうとしてるんですか?」と聞かれてしまった。
「ストッキングが出来たら、堀口にやるから期待しててくれ」と答えておいた。
「わたしはストッキングなんて履いたことないです。わたしはパンスト。パンスト出来たら下さい。というか、先輩はストッキングとガーターフェチなんですか?」
「違うから」
「じゃあ、パンストフェチ?」
「もっと違うから」
「もっとって言うことは……」
「もういいよ」
堀口のメモを元にそれぞれの意味を考えて発注しておいた。5月下旬には理研に持ち込めるだろう。これでナイロンを合成するという大きなヤマを越えられるはずだ。次の山はそのナイロンを糸にする工程だが、理研で躓けば、何か考えよう。
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南満州鉄道調査部では、従来から満鉄が所有する路線周辺部、具体的には旅順から長春に至る範囲で石油を含めた資源調査を鋭意行っていたが、ソ連や張作霖率いる奉天軍との関係で、チチハル方面への調査は行っていなかった。
満鉄の安広総裁はチチハル方面への石油探査を進めるため、関東軍司令官の白川義則大将と面会し、便宜を図ってもらうよう要請した。
白川は快諾し、守備隊による調査隊の護衛を約束した。史実では関東軍司令官は白川大将から武藤信義大将(注1)に7月末に交代しすることになる。
ハルビンとチチハル間の鉄道である中東鉄道(のち北満鉄道)は、1924年の奉ソ協定により、所有権はソ連だが、ソ連と中国(張作霖政権)で共同経営する形をとっている。そのソ連では1924年にレーニンが死去した後、スターリンが権力を固めつつあった。しかし、トロツキーら政敵との争いはまだ続いており、極東に大軍を送る余裕はなかった。また、ソ連側からみて中東鉄道経営は赤字続きの不良債権でもあった。中東鉄道を買収するには、今が絶好の機会でもあった。
関東軍では、主要勢力である張作霖側と秘密裏に折衝し、黒竜江省での地質調査に対する黙認を取り付けた。対価は張作霖配下の奉天軍への軍事顧問の派遣と武器の優先融通である。張作霖側も、資源が見つかることなど期待していなかったこともあり、資源発見後の取り分など協議することなく、すんなり話がまとまっている。
そして白川大将の言葉通り、関東軍の警備部隊に護衛された満鉄の調査隊が、ハルビンとチチハルの中間地帯で調査を開始し、有望な兆候を掴み、さらに試掘のための調査を実施した。
その結果、有望と思われる箇所が数カ所あることが判明し、現在は最も有望と思われる箇所に資材を持ちこみ、試掘準備を進めているところだ。
作業員が30名ほどの現場には、関東軍から1個小隊の守備隊が派遣され、周囲を土嚢と有刺鉄線で囲み防衛に当たっている。
準備作業が順調に進めば来月6月初頭には試掘が始まり、3カ月から4カ月で1000メートルの大深度まで掘り抜くことができると考えていた。そして、そこから3カ月でさらに300から500メートル掘れると見込んでいた。
つまり、運が良ければ年末までに石油を掘り当てられるということだ。
そうなった場合、関東軍では防衛部隊を編成すると同時に、満鉄側は道路などの石油開発基盤、現代で言うインフラを整えていく予定になっている。
大規模な石油開発を行うとすれば、張作霖の軍閥政権が邪魔になるわけだが、史実より早い段階での満州事変の勃発と満州国の建国があるかもしれない。もちろん、この段階で関東軍も満鉄もそういったことは夢想だにしていなかったが、理研の首脳部、大河内所長は山田幸太郎が持ち込んだ年表を見て満州事変の概要は掴んでいたため、その可能性は頭の中にあった。ただ、満州には石油だけでなく多くの地下資源が眠っているのも確かだ。満州全体の経営は日本にとって必要なことだと彼は認識していた。幸太郎がもたらした資源地図によると満州にはウラン鉱床もあった。欧米に負けないためには彼らに先駆けて原爆を製造する必要があるとも大河内は考えていた。
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山田幸太郎が持ち込んだ抗生物質抽出用の器材のうちワンセットは北里研究所に送られた。理研側の説明を聞き、デモを見た北里柴三郎以下の北里研究所のスタッフたちは最初戸惑っていたが、アオカビからの成分抽出と精製が行き詰っていたこともあり、すぐにその価値を理解して狂喜した。その結果、幸太郎はさらに2セット抗生物質抽出用の器材を揃えてくれるよう依頼を受けた、器材が幸太郎の部屋に届き次第、次の『出勤日』に理研に持ち込み、理研から北里研究所に送られた。このころには、荷物の運搬のあるなしにかかわらず、トラックが浦和高等学校正門横で待機してくれる形になっていた。
抗生物質とは別に星製薬で進められていたサルファ剤だが、小型のラインが出来上がり、最初の製品が陸軍病院に持ち込まれた。そしてその効果が軍医たちに認められ絶賛された。そして陸軍での予算措置はまだだったが、量産依頼が星製薬に出され、星製薬は破綻を免れ回復の波に乗れた。
軍部の仲介もあり、銀行からの融資を取り付けた星製薬では、サルファ剤の量産体制の構築を始めた。薬剤の製品名はスルフゾールと決まった。
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6月に入り、星未来薬品ではスルフゾールの本格製造を始め、陸軍に対して製品の納入を開始した。陸軍への規定数の納入が一段落すれば、海軍への納入と市販へと続く予定である。
サルファ剤自身の特許は俺の世界では微妙だったようだが、特許局への理研の権威と陸軍の圧が功を奏して、通常1年近く出願から登録に要する時間が、異例の半年程度で済みそうだということだった。5月に出願したそうなので、今年中に特許がとれそうだ。
この特許だが、スルファニルアミドについて、思いつく限りの製法を網羅したそうだ。特許回避のためにそれ以外の製法をどこかの製薬会社が編み出したとしても、そのころには星印のサルファ剤が日本の標準になっている。
さらに星製薬では、その勢いに乗って世界特許出願(ロンドン、ベルリン、ワシントン)に向けて書類作りを急いでいる。そうなれば今度は、世界の標準だ。
北里研究所では、アオカビの付いた食品などの提供を求める新聞広告を打った。持ち込み手数料は1件につき50銭、上限1000件としたところ、瞬く間にアオカビの山が出来上がったそうだ。これに伴って、例の電源装置と小型インキュベーターを各4台『輸入』している。テスト用の黄色ブドウ球菌の培養とアオカビの培養用だ。これらがフル回転することになる。
理研では堀口が見繕って俺が持ち込んだナイロンお試しセットが大ヒットして、高純度のヘキサメチレンジアミンの生産に目途が立ったことで、ナイロンそのものの合成も可能になった。現在は工作部でハンドブックを元に紡糸工程用の器材の製作に取り組んでいるとのことだった。
その紡糸工程用の器材だが具体的には、
溶融ナイロンを一定の圧力で押し出すギアポンプ
0.2mm程度の均一な穴を、特殊鋼に何十個も開けたノズル(口金)。
固まった糸を4〜5倍に引き伸ばして強度を出すための、回転速度が微妙に異なるローラー群(延伸機構)。
などの製造に取り掛かっている。
それで俺は 0.2mm径の超硬ドリルビットを10本ほど『輸入』しておいた。これでノズル製作の山は越えるはずだ。
手の空いた合成チームは、紡糸過程で必要になる仕上げ剤と安定剤の開発に取り掛かった。
ナイロン繊維が出来上がれば、産業用ベルトなんかも強靭なものが作れるし、軍用ならパラシュートも作れる。
また、繊維にしないでもナイロンには防水、絶縁、複合させて素材強化などいろんな用途がある。
6月下旬になり、満州で石油の試掘が始まったと大河内所長から知らされた。11月までには1000メートル以上掘り進むということなので、年内石油が見つかるかもしれない。いや、俺は何かにつけて運がいい方なので、おそらく石油は見つかる。今までちまちま歴史に干渉してきたわけだが、油田が見つかれば大きく歴史が変わる。
例えば、石油があれば、無理に南方に進出する必要がなくなる。さらに、欧米による石油締め付けも跳ね返せる。第二次世界大戦が起きないかもしれない。起きたとしても、日本はドイツとは無関係に満州の権益を守るため対ソ戦を始めるかもしれない。
俺の責任といえば俺の責任だが、俺に令和と大正間の100年をつなげる穴を見せたのは神さま。それも日本の神さまなんだから仕方ないだろ。
注1:武藤信義大将
武藤信義は二等卒(二等兵相当)から元帥までの全階級を制覇した日本軍事史上でただ一人の人物です。ちなみに、ウィリアム・ロバートソンという人物はイギリス軍において、武藤信義と同様の経歴を持つ唯一の人物で、全階級を制覇した軍人は世界で二人だけのようです。
上空1,200kmからの神罰。核の「針」が、不落の要塞を一瞬で穿つ。
ハードSF『神々の針』(全4話、12000字)https://ncode.syosetu.com/n2369mo/ よろしく。




