第11話 大正15年7月、1
7月に入った。梅雨の関係で、6月の下旬から傘を差して理研に行くことが増えた。ビニール傘ではさすがに注目を浴びそうだったので無難に蝙蝠傘をさしたのだが、折り畳み傘ってそれなりに便利なので一つ買って理研に持っていって大河内所長に見せたところ、ずいぶん気に入られたので、贈呈した。
「これは便利だ! 機構を調べて量産だ!」とか言っていた。史実では1928年にドイツで発明されて1932年に特許が取られたらしいが、こっちは2年早い。これも理研の安定収入になる!
俺が発明したわけではないが、この世界では俺の功績となる。ありがとうございます。来年には月給200円も夢じゃない。
全国の精錬所から回収した『煙灰残滓』についても備蓄量が5トンを超えている。そして、煙灰残滓からのゲルマニウムの回収が軌道に乗り、ゲルマニウムの金属化に成功した。
次の段階はこのゲルマニウムから不純物を取り除くという長い道が始まる。
さらに理研では、石炭火力発電所の煙突内の煙灰の回収を始めようとしたが、サンプリングしたところ、濃度が低いため回収を断念している。
史実ではこの7月9日に蔣介石が「国民革命軍総司令」に就任して、広州で北伐宣言を行い、北伐が始まったはずだが、1926年の東京、駒込では何の影響もないようだ。新聞も見てないしラジオも聴いていないので、実際のところは不明だ。世界史の流れは今のところ変わってはいないようだから、27年に入れば南京事件とかが起き、日本人居留民に被害が出ると当たり前だが騒がしくなるのだろうし、日本政府も介入していくことになるのだろう。
これまでかなりいろいろなものを購入した結果、俺の資金も少し心細くなってきた。そういったところで、今度はロンドン駐在員に指示してカルティエのロンドン支店で購入したという宝飾品のセットを貰った。『タッティ・フルッティ』とかいうシリーズ物で、指輪、ネックレス、ブレスレット、ブローチの4点が領収書と一緒に革張りの宝石箱に入っていた。領収書に書かれた購入者名はもちろん理化学研究所だった。値段はあえて言うまい。さすがに個人で持ち出せるような金額ではなく、代金は電信での送金だったようだ。
これはオークションに出さないと売れないだろう。
それで、家に帰ってオークションへの出品方法を調べたところ、まずオークションハウスのサイトに行って無料査定の申請をすることが分かった。写真が必須のようだったので、翌日白い布手袋を用意して指紋が付かないようにスマホで写真を撮ってサイトに貼り付けてから、送信しておいた。
そうしたら早速翌日返信があり、オークションハウスの担当者がうちに来ることになった。
それで、やって来た担当者がうちの狭さに驚いていたが、宝石箱を見せたらまた驚いていた。
結局、その場で契約を交わした。「明日、セキュリティー会社の社員と再訪するのでその時現物を受け取りたい」とのことだった。その日は会社のある日だったので午後8時にきてくれるよう頼んでおいた。
翌日。
午後8時の5分前に昨日の担当者がセキュリティー会社の社員を2名伴ってやって来たので、受け取り証書と引き換えに宝石箱を渡しておいた。
そして、その二日後、オークションの日程と予想落札価格をメールで知らせてきた。予想落札価格は650万ドルだった。なぜかわからないが手数料は取られないようだった。いいけど。
電卓を叩いたら650万ドルはだいたい10億円だった。いいのだろうか? いいんだけど。とにかくまだ取らぬ狸ではあるが、これから15年間、資金には困らなそうだ。
それで、そのオークションだが3カ月後の10月初旬。落札金の振込口座を聞かれたが、ドル口座を持っていなかったので、オンラインですぐに作ってそれをメールで連絡したら、了解したと返信があった。
そういえば、1926年の暮れにローレックスが世界初の防水腕時計「オイスター」を発売するはずだ。日本での販売はおそらく来年の春になるだろう。忘れず購入しなければ。こっちは俺のお小遣いだ! これもいい値段で売れるはず。
梅雨が明け、7月の中旬になった。地球全体に温暖化が進んでいることについては懐疑的だが、東京の気温は明らかに100年前の方が低い。令和の東京の夏に慣れた体だと、向こうに行けば実際涼しいのだ。
ナイロンは順調に糸に加工された。まだ、工業化というには糸が均質ではないという話なのだが、紡糸関係の機械が落ち着けば、糸の太さも安定するだろう。
糸の太さが安定すれば、国内でナイロン関係の特許出願した後、ロンドン、ベルリン、ワシントンで特許出願だ(注1)。日本国内での特許を出願したら紡織会社へのサンプル出荷だ。事務方もどんどん忙しくなってくるが、それに伴って、理研の財務基盤が固まっていく。ナイロンについては、名称をリケン66とした。そして、理研では理研の発明品や研究成果を事業化・工業化するため現在設立準備中の会社で製品化するそうだ。
ナイロンの次の素材として、理研の化学チームは合成ゴムに挑戦することが決まった。最初はニトリルゴム。オイルシールやガスケットに必須な素材だ。オイルシールやガスケットの性能で油を使う機械の性能が決まるといってもいい。軍事で言えばエンジン全般、特に水冷エンジン。防弾ガソリンタンク、油圧シリンダー。などの性能が大幅に向上することは間違いない。もちろん現在満州の地下を掘り進んでいるボーリングにも必須だし、原油の生産井にも必須だ。
もっと大切なのは漏れのない真空ポンプだ。高真空中で鉄塊を溶解することでガスやその他の不純物の入らない鋼鉄が製造できる。これにより、「産業の米」と呼ばれるベアリングの性能が一気に上がるはずだ。高真空は他にもいろいろ使い出がある。そういった意味で「真空ポンプ」は産業の母と呼んでいいかもしれない。もちろん油圧ポンプも高性能なものができるし、油圧ホースも同様だ。そして、産業機械に欠かせない油圧シリンダーが実用化される。
こういった下地を作っていき、下地自身がワンランクアップする。そして一周回って、その下地で自分自身をワンランクアップする。プラスのスパイラルで産業機器のレベルが少しずつ上がっていく。
そういった中、俺の会社で。
自席で腰をひねっていたら「先輩、最近趣味の方はどうなってるんですか?」と隣の席の堀口にいきなり尋ねられた。就業時間中なのだが、堀口は自分の仕事はきっちりこなしている以上、俺からは何も言うことはない。
「順調だ」
「以前、いろいろ聞いてきたけど、ああいうのって本当に買ったんですか?」
「いちおう買ったぞ」
「うそ! それってすごくないですか? 相当高いものでしょう?」
「値段はそこそこだったが、ちゃんとしたものだったからいいんじゃないか」
「そこまで言うってことは、もう少しで性病克服。そしてストッキングができるってことですか?」
「性病ってまだ言ってるのか。まあいいけどな。培養環境が整ったから、今は生きのいいアオカビを探してるところだ。生きのいいアオカビが見つかったら、そこからペニシリンの抽出精製と続くはずだが、いちおう抽出、精製についてもおかげさまで目途は立っている。ナイロンについてはストッキングはまだだけど、糸はうまくできた」
「本当にナイロン作ったんですか!?」
「俺が作ったわけじゃないんだが、俺の知人がな」
「えっ! その人って、先輩の『おたく』仲間ってことですよね?」
「いや。俺はおたくでもないし、知り合いもおたくじゃない。立派に仕事をこなしている」
「山田先輩、実際のところ何をしてるんですか?」
「だから、趣味の世界。会社人のままじゃ面白くないだろ?」
「それは言えてますけど」
「だろ」
そして、その日の昼食時。社食で堀口と一緒になった。俺がやってくるのを待っていたようだったが、それなら最初から一緒に来ればよかったんじゃないか? 言わないけど。
「山田先輩、何かわたしに隠してますよね」
「この歳になれば、隠し事は誰でも持っているだろ? 堀口だって人に知られたくないことってそれなりにあるんじゃないか? 妙な性癖ありそうだし」
「今、性癖って言った!」
「じゃあ、なんて言うんだよ?」
「それはー。やっぱり性癖?」
「だろ」
「そういう話じゃなくって、先輩、副業で何かやってますよね?」
「うちの会社は副業認めてるけどな」
「そういう話じゃなくて。ゴールドカード持ってたし、もの凄く儲けてませんか?」
「儲けてはいないが、資金はある」
「それって、儲けてるってことと同じじゃないですか?」
「資金というのは、つまり会社と同じで、個人の物ではなく使う当てがある金ってことだ」
「使うのは先輩なんだから、個人のお金じゃないですか?」
「そう言えばそうだし、ある程度自由にも使えるから、俺の金でもあるけどな」
「わたしも、その話に混ぜてくれません?」
「なんだ。堀口は金に困ってるのか?」
「そういうわけじゃないんですが、なんだか面白そうだから」
「面白いことは面白いぞ。つまり、堀口はおたく仲間になりたいんだな?」
「あっ! 自分でおたくって言った!」
「そうじゃなくて、堀口がおたくって言ったんだろ!」
「そうでしたっけ?」
「それはどうでもいいが、そうだなー、堀口は口が堅いか?」
「自己評価だと口が堅いですが、そういうのって自己申告じゃ無意味なような」
「俺が言いたいのは、秘密を守れ、ということだ」
「つまり、秘密の共有者=仲間にしてくれる。ってことですか?」
「堀口には世話にもなってるし、俺も重い荷物運びで腰が痛いし?」
「荷物運びとわたしが何か関係あるんですか?」
「ああ。重い荷物を運んでいるから、手伝ってもらえるだろ?」
「荷物運びの手伝いくらいしますけど、それって、外為法で禁じられている器材の輸出!?」
「違うから。輸出なんかしてないから」
「びっくりしたー! それで、どういった秘密なんです」
「俺は今、理化学研究所の嘱託社員なんだ!」
「先輩、うちの会社、兼業は認めてますけど、よその会社に勤めちゃまずいんじゃないですか?」
「今の理化学研究所に勤めてたらそれはそれでまずいかもしれないが、俺が勤めているのは今から100年ちょっと前の大正時代の理化学研究所なんだ」
「つまり先輩は、わたしを仲間に入れたくないってことですね」
「そうじゃない。事実として俺は100年前の日本と行き来してるんだ」
「はいはい。分かりました。ごちそうさまでした」
そう言って堀口は昼食のトレイを持って席を立った。
嘘は言ってないんだが。
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こちらは大阪工廠。以前は大阪砲兵工廠と呼ばれていたが大正12年に陸軍造兵廠大阪工廠と改名されている。その大阪工廠でこの2月に試製一号戦車が完成して一連の試験を行っていたが、理研が発表したニトリルゴム製のガスケットなどのシーリング材を全ての油周りに使用した試製一号戦車改を作り上げて、各種の試験を行った。
エンジン:水冷V型8気筒ガソリンエンジン(140馬力->165馬力)
最高速度:20 Km/h->25 Km/h
エンジン馬力が2割近く上昇し、最高速度も時速25キロと5キロ上昇した。しかしエンジン出力と最高速度に車体、履帯が悲鳴を上げ、実戦では使い物にならないとの判定を受けた。ただ、開発陣は確かな手ごたえを得ていた。すなわち、馬力に負けない部材を使用すれば十分使えると。
注1:
日本は1899年(明治32年)にパリ条約(工業所有権の保護に関する条約)に加盟しており、日本で特許を出願してから12ヶ月以内にロンドンやワシントンの特許庁に出願すれば、日本での出願日を基準(優先日)として認めてもらえます。




