第12話 大正15年7月、2
仲間外れにされたと思って堀口が怒って行ってしまった。仕方がない。
それはそうと、俺はあの穴を見ることができるが、今のところ、俺以外にあの穴が見えていないようだ。そして、おそらく俺以外に穴を抜けることもできないだろう。
俺が穴に入っていくところを、今まで誰にも見られていなかったのか? と言えば、おそらく誰かは見ていたはずだし、穴から出てくるところも誰かが見ていたはずだ。俺が今まで誰にも何も言われてはいないから、多分、彼らは自分の目を疑い、錯覚か何かとして納得していたのだろう。さすがにそれは厳しいか。事実として誰にも見とがめられていない以上、穴同様超自然的何かの作用だと思うしかないだろう。
その日の仕事を終えて俺と同じように帰り支度を始めた堀口に、
「堀口。今日時間があるなら、俺の秘密を教えてやるよ。どうだ?」
「じゃあ、ここで教えてください」
「口で言っても信じていなかったから、ちゃんと見せてやる。ただ、俺のうちの近くまで来てもらうことになるが、大丈夫か?」
「先輩のうちに行くわけじゃないんでしょ? だったら何も起こらないから大丈夫です」
「うちに行くわけじゃないが、うちに行ったとしても何も起こらないぞ。駅からうちに帰る途中だ」
「確か山田先輩って浦和でしたよね?」
「浦和といっても最寄り駅は北浦和だけどな」
「どっちでもわたしにとっては埼玉ですから。それじゃあ行きましょうか」
わたしにとって埼玉ってどういう意味なんだ? まあいいけど。
そういうことで、会社の玄関ロビーで待ち合わせて、二人そろって会社を出た。
東京駅から京浜東北線で、上野で乗り換えることなく北浦和まで直通で移動することにした。途中席が空いたので堀口を座らせた。
「年寄りの先輩が座らなくていいんですか?」
「失礼なやつだな。俺は年上ではあるが年寄りじゃないから」
「そこは理解していますが、わたしより何年も早く年寄りになりますよね?」
「もういいよ」
電車は赤羽を過ぎて荒川に差し掛かった。
「荒川を越えたら、そこは埼玉だった」
「悪いかよ!?」
「いいえ」
「いらんことを話さなくていいから、黙って座ってろ!」
「へい」
北浦和駅を降りて、北浦和公園に向かって歩いていき、例の穴の前に止まった。穴はいつものように燦然と輝いている。
その穴を指差して、
「堀口、ここに何かあるか分かる?」
「公園の塀?と門?」
「それ以外には何も見えないだろ?」
「はい」
「それじゃあ、今度は俺をしっかり見ててくれ」
そう言って俺は穴の中に入って、10秒ほどして戻ってきた。
「先輩が塀の中に消えたんですが、今度は塀から湧いて出てきました。ええー、なんでー?」
「今俺は、100年前の浦和に行って帰ってきたところだ。この公園は100年前は国立の浦和高等学校だったんだが、何かの加減で俺だけが見える穴が塀に空いたんだよ。元からあった穴が見えるようになったのかもしれないけどな」
「先輩が消えたことは事実ですが、それが100年前に繋がっているって全然関係ないですよ」
「そう言われればその通りなんだが、証明のしようがないぞ」
「わたしを連れてってくれることってできませんか? 穴が本当にあるなら手をつなげばわたしも通れるとか?」
「試したことないけど、無理なんじゃないか?」
「先輩は、今服を着てるでしょ?」
「そりゃそうだろ。そうじゃなければ痴漢か変態じゃないか」
「そういう意味じゃなくって、もし身の回りの物が穴を通るときに弾かれるなら、服だって弾かれるでしょ? 逆に考えれば、身の回りの物は弾かれない」
「確かに。大きな荷物を抱えても一緒に移動できるから、堀口を荷物と思ってお姫様抱っこすればいいわけか。堀口くらいなら俺でもお姫様抱っこできそうだし」
「お姫様抱っこは最後の手段で、とりあえず手を繋いでみませんか」
「それもそうだな。それじゃあ、手を貸してくれ」
堀口が右手を出してきたので、その手を掴んだら、結構軟らかい。
「思った以上に、堀口の手って軟らかいんだな」
「先輩がわたしのことをどう思っていたのか知りませんが、そうじゃなくって、見えました。穴というか大きな鏡みたい。すごく明るいです!」
「じゃあ、手を放してみるぞ」
手を放したところ、
「手が離れたとたんに穴が消えました。つまり、先輩の能力?」
「能力といえば能力か。じゃあ、もう一度手をつないで、向こうに行ってみよう」
堀口の手を握って穴をくぐったら、すぐにあとから堀口が穴から出てきた。
「後ろを見てみろ。官立浦和高等学校だ」
「うわっ! 本当だ! 建物がいきなり生えた! 『浦和高等學校』って看板がかかってる!」
「これだけじゃ100年前とはいえないが、少なくとも戦前に見えるだろ?」
「見えます」
「こんなところに男女で立っていたら怪しまれるから、これくらいにして戻ろうか」
「はい」
再度手をつないでから穴をくぐって21世紀の日本に戻った。
「疑ってて済みませんでした」
「まあ、疑うのは当然だから。それじゃあ、飯でも食って帰るか」
「はい」
そういうことで堀口を連れて駅前のサのつくファミレスに入った。
「いらっしゃいませ! お二人様ですか?」
「はい」
店員に4人席に案内され、堀口と向かい合って座った。
「好きなものを頼んでくれ。俺のおごりだから」
「はい」
店員を呼んで最初に生ビールと枝豆を頼み、それから食べ物を注文した。すぐに生ビールと枝豆がやって来た。
「とりあえず、乾杯」
「カンパイ」
生ビールを飲みながら、
「先輩はあの穴を通って、こっちが休みで向こうが半ドンの土曜日に理研に通っているんですか?」
「そういうこと」
「今までの研究資材って、冗談じゃなくって本当に買って理研に運んでたんですか?」
「ああ。堀口に聞いて揃えたもの以外にも色々運んだぞ」
「21世紀の器材を理化学研究所に運んだってことは、すごいことが起こるんじゃないですか?」
「そのつもりで、器材だけじゃなくって、いろんなハンドブックなんかも送ったから、そうとう研究開発が進むはずだぞ」
「でも、そんなことすれば歴史が変わってしまうと思うけど、歴史変わってないですよね?」
「変わっていないと思う。それについて、俺なりに考えたんだが、俺が最初に100年前に戻った時点で、新しく世界が生まれたんだと思う。その世界は大まかにはこの世界の歴史をたどるんだろうが、俺が干渉したことで少しずつズレていく」
「そういうのって聞いたことがあるような。でも逆に、変わったかもしれないけど、わたしたちは変わった歴史の中で生まれて生きてきたから、根元が変わったとしても気づけないかもしれませんよ」
「そうはいうが、俺の記憶している技術的歴史とはもう完全に向こうはズレてるぞ」
「なるほど。そうなると、先輩の仮説が正しそうですね」
「とはいっても、実際のところ、真実はわからないし、俺のやったことはなんの意味もなかったから、歴史が変わっていないのかもしれないけどな」
「いやー、あれだけのものを持ち込んで何も起こらないわけないですよ」
「それもそうか」
「それはそうと、何でそんなことを始めたんですか? 理化学研究所じゃなくって、100年の差を活かして『交易』すれば儲かったんじゃないですか? って、もしかして先輩、交易もしてるからゴールドカード!?」
「そういう意味では交易かもな。ただ、こっちで資材を購入するには金が必要だろ?」
「それはそうですけど、何をしたんですか?」
「今のところ、100年前の金無垢のロレックスをこっちに持ってきて、ヴィンテージ・ロレックス専門店に買い取ってもらった」
「うわっ! エグイ!」
「まあな。具体的な金額は言わないが、ものすごく高く売れたってことだけ」
「いいなー」
「とはいえ、いろいろ物品を揃えたから、だいぶ残金が少なくなってきたんだ。来年には税金を払わないといけないしな。それを理研の所長に言ったら、新しく金目の物を用意してくれた」
「それって何ですか?」
「カルティエの『タッティ・フルッティ』とかいうシリーズ物の宝飾品だ。さすがに高そうだったからオークションハウスに写真を撮って連絡したところ、担当者がやってきてオークションに出すことが決まった。落札予想価格で650万ドルということだった」
「それって日本円だと、えーと……」
「今の為替でざっと10億だ。オークションはまだ先だけど、それだけあればかなりの物が買えるからな」
頼んでいた料理がテーブルの上に並べられていった。
「いただきまーす」
「話は戻りますが、何でそんなことを始めて、そして続けてるんですか?」
「大東亜戦争っていうか太平洋戦争で日本が負けただろ? あの悲惨な歴史を回避したかったんだ」
「だとしても、わたしたちとは異なる世界ができてしまったのなら、今のわたしたちには無関係ですよね」
「その通りなんだが、日本が負けない歴史があってもいいだろ?」
「山田先輩て、右翼?」
「右翼とかじゃなくって、日本が好きってだけだよ」
「そうなんだ」
「堀口がこうやって安全に生きていけるのも国があってこそだろ?」
「そう言われれば」
「人権、人権って左翼が騒いでるけど、人権だって国があってこそだろ?」
「確かに」
「難しいことはどうでもいいけど、とにかくやってて楽しいんだ」
「それなら理解できます。楽しいは正義です」
「そうなんだよ」
「先輩が秘密を教えてくれたってことは、わたし、先輩の仲間になったんですよね?」
「ああ、そのつもりだ」
「それで、わたしは何を手伝いましょうか?」
「とりあえず、荷物運びだな。今は大物はあまりないから出番がないなー」
「先輩、100年前の照明ってどうなってるんですか?」
「普通の電球だ。蛍光灯はまだない。もちろんLED電球もない。それで、理研でもよく電圧が下がって暗くなるんだ」
「LED電球を持っていくのはどうですか?」
「それはいいな。ちゃんとした作業環境で研究したほうがいいものな。電球なんかよりよっぽど消費電力が少ないし、そう簡単に切れないし。ただ、むこうの電球のソケットがそのまま使えるかどうかは確認しないとな」
「100年前でも理研ならソケットくらい作れるんじゃないですか?」
「それもそうか。LED電球なんかはすぐに手に入るから、今週の土曜までに用意して、理研に持っていくとしよう。その時手伝ってくれ。集合は7時半にさっきの場所。いったん俺のうちに戻って荷物を持っていくから」
「了解です」
「その日は、なるべく地味な格好でな。今の時代の普通はむこうじゃ奇抜だからな」
「分かりました」
堀口をトラックに乗せて理研に連れて行っていいものだろうか? 荷物を運んだら公園で「じゃあな」と言って別れるわけにもいかない以上、連れていくしかないか。今後、理研に二人で行くような用事ができるかもしれないから、俺の助手だといって大河内所長に紹介しておくか。
食事を終えて店を出て、堀口を駅まで送ってそこで別れた。
うちに帰ってパソコンでちょっと調べたところ、LED電球の場合、80ボルトくらいまで電圧が下がっても暗くならないようで、あの時代の照明としては100点満点ということが分かった。重さは1個60グラム程度だったので、とりあえず60W型相当の物を96個入りのカートンで6つ注文してみた。荷物の到着を金曜の夜に指定したので、今週の土曜に間に合う。それと4輪の折り畳み台車を注文しておいた。堀口を使って二人なら合計50キロくらいの物でも穴を通せるだろう。トラックに載せるときは、運転手のおじさんもいるし。ただ、帰り路で台車を持ち歩くのがネックだが、それは仕方ない。面倒なら理研からタクシーに乗ってもいいし。
それはそうと、堀口がこっちから向こうに行けて帰ってこられたわけだから、向こうの人間だってこっちに来ることができるはずだ。こっちに来て、いろいろなものを見聞きすれば確実に見識は広がるが、果たしてそれが本人のためになるか? もし、俺が100年後の世界に行ったとしてどうだろう? 過去100年間の科学的進歩とこれから先の100年間の科学的進歩は雲泥の差があるだろう。つまり、これからの100年の未来科学はそれほど驚異ではないだろうが、100年前の人間から見た100年後の世界は脅威に違いないはずだ。そのうち連れてくることがあるかもしれないが、それは今すぐじゃない。その方がいいだろう。
翌日。会社で堀口に、
「昨日帰ってからLED電球を注文しておいた。金曜の夜に俺のうちに届くようにしてるから、土曜日は予定通り7時半にあの場所に集合だ。穴を抜けたら近くに理研のトラックがとまっているからそれに荷物を積んで、理研に運ぶことになる。堀口は俺と一緒にトラックに同乗して理研まで行く。トラックといっても今のトラックと違ってすごく遅いから理研のある駒込まで2時間近くかかる。飲み物持参はありだが、トイレなんかは先に済ませておいてくれ。理研に着いたら荷物を下ろして、その足で所長室に行って、堀口のことを俺の助手だと言って紹介するから、そのつもりでな」
「偉い人に会うとなると緊張します」
「確かに緊張するかもしれないが、普通の人だから」
「分かりました」
「本当に地味な格好でいいんですか?」
「そうだなー。リクルートスーツが無難かもな」
「それだと重いものが持てないかも?」
「LED電球の箱は一つ10キロないはずだから大丈夫じゃないか?」
「それくらいならわたしでも運べます」
そして約束の土曜になった。




