第13話 大正15年7月、3
約束の土曜日(2027/7/17)。7時20分に公園の例の場所に行ったら、堀口はまだ来ていなかった。穴の前はせみ時雨の中、朝から暑くなっているのだが、今のところ汗ばむほどではない。
俺が立っているところを、犬を連れて散歩している人が通りかかるのだが、犬が穴を気にしているようなしていないような? もし、犬に穴が見えたら、迷い犬が穴を越えて100年前の日本と行き来する可能性がある。100年前の日本は狂犬病清浄国じゃないからちょっとまずいかもしれない。
次に通りかかったのは犬連れのおばさんだが、おばさんの犬は穴に対して全く反応していなかった。俺の思い過ごしだろう。
そうこうしてたら、リクルートスーツを着た堀口が小走りになってやって来た。
「おはよう。まだ時間前なんだから急がなくてもよかったぞ」
「おはようございます。先輩の顔が見えたのに、ゆったり歩いてたらちょっと変じゃないですか」
「それもそうだな。それじゃあ、荷物を運ぶから俺のうちに案内しよう。すぐそこだから」
堀口を連れて俺のうちに案内した。
昨日の夜、届いた荷物は玄関の上り口の近くに置いたままで、そのうち二箱だけ2輪キャリーカートに載せている。
「ここが先輩のアパートか。けっこうきれいに使ってるんですね」
「引っ越してそれほど経っていないしな」
「この荷物を運ぶんですよね?」
「堀口はそこの箱を抱えて持ってきてくれ。俺はキャリーカートの方を運ぶから」
2階の俺の部屋から出て、エレベーターに乗って下に下り、並んで穴の前まで移動した。堀口には穴の前でキャリーカートからカートンを外してもらい、俺は堀口が抱えてきたカートンを抱いて穴をくぐって、その先で待っていた理研のトラックの運転手に荷台に積んでもらうようカートンを渡した。
「今日は全部で6箱あります。それと、今日は助手を連れて来たんで、トラックに二人乗ります」と運転手に伝えておいた。
うちに帰って残りの荷物を同じようにして運び、6個のカートン全てを理研のトラックに載せ終えた。
3人で並んでシートには座れなかったので、俺が荷台に乗って堀口を助手席に座らせた。
荷台は結構狭かった。それで、浦和駅まで運んでもらい、そこで俺は降りて省線で駒込まで行くことにした。俺の方が確実に早く着くので、その方が何かとやりやすいのもある。
「堀口。俺は汽車で行くから、お前はこのままトラックで行ってくれ」
「先輩がいないと嫌ですよ。それならわたしも一緒に汽車で行きます」
「仕方ない。運転手さん。そういうことだから、荷物だけを運んでください。本館の玄関前で待ってますから」
「分かりました」
そういうことで浦和駅の窓口で二人分の切符を買った。浦和から駒込までの運賃は4月から1銭値下げされているので、今では15銭。二人で30銭だ。
改札で切符にハサミを入れてもらい、二人でホームに立っていたら、大宮方向から汽車がやって来た。
「先輩、SLですよ、SL」
「汽車なんだからSLだろ」
「そうなんですけど」
「赤羽で乗り換えるけど、そこからは電車だ」
「100年前でも電車があったんですね」
「あったんだな。まあ、都会の中でもくもく煤煙を吐き出すのは何かと不評だろうしな」
「なんだか、夢がありませんねー」
「現実だから」
「それはそうですけどね」
やって来た汽車に乗り込み、空いていた4人席に向かい合って座った。
今は夏なので当然客車の窓は開いている。区間内にトンネルがないといっても、どうしても煤煙が入ってくるので俺は前向きの席に座った。汽車を降りたら忘れずに鼻をかまないとな。
赤羽駅で汽車から降りたところでティッシュで鼻をかみ、ホームを変えて電車に乗り換えて、池袋駅でさらに乗り換えて駒込駅に到着した。堀口のリクルートスーツはこの時代の連中から見てもかなりカッコいいらしく注目を集めてしまったもののそれだけだった。これがもし戦時中だったら誰かから呼び止められていたかもしれない。自由な大正時代でよかった。俺の仕事は昭和時代前半を悲惨な戦争で殺伐とさせないことだけどな。
駒込駅から理研まで二人並んで歩いていき、正門のところで守衛に会釈しただけで本館まで歩いていった。玄関の天井に電球が付いているのだが、今は灯っていなかった。
「ソケットは碍子製みたいだけど、形は似てますよね」
「そのまま使えそうではあるな」
玄関を過ぎて堀口を所長に紹介するため、所長室の前まで堀口を連れていった。
「山田です」
『入ってくれたまえ』
「おはようございます」「おはようございます」
「おはよう。それで、こちらは?」
「わたしの助手をしてもらう、堀口といいます」「堀口です」
「ここの所長をしている大河内です。向うでは助手がいたほうがいいからな。ということは堀口さんもここの嘱託扱いにした方がいいだろう。ちょっと待ってくれるかね」
そう言って大河内所長が電話で秘書の幸田さんを呼び出した。
「……、幸田君。そういうわけだから、堀口さんの手続きを頼む」
「了解です。それで堀口さん、名前を漢字で教えていただけますか?」
そこで堀口が自分の名前を口頭で説明した。
「分かりました。来週いらっしゃるとき社員証などをお渡しします」
「よろしくお願いします」
「それで、今日は荷物だけ後からやってきます。で、その荷物ですが電球です。ハンドブックにも載っていたかもしれませんがLED電球といって、60ワットの明るさで、10ワットも電力を使わないうえに、80ボルトくらいまで電圧が下がっても明るさが変わりません」
「まさに未来の照明なわけだ」
「電球を取り付けるソケットがもし合わないようなら、こちらで自作してもらうことになりますがよろしいですか?」
「さすがにその程度の工作は問題ないから安心してくれていいよ」
「それで、今日は96個入りの箱を6箱用意しましたので576個になります。足りないようなら、追加で持ってきます」
「ここの電球の数は知らないが、600個近くあればさすがに足りるだろう」
「予備も必要でしょうから、状況を見て追加しておきます」
「それで頼むよ。そういえば、星製薬の星社長が起訴されていたことは知っていただろう?」
「起訴されていたことは知っていましたが、詳しくは知りませんでした」
「未来の君たちではそうかもしれないな。それでその判決が14日に台湾の台北地方法院で出たんだが、懲役1年6ヶ月の実刑判決だった」
「それは、大変じゃないですか」
「そうなんだが、即日上告して、刑の執行は停止されたそうだ」
「それはよかったです」
「第二審の判決は今年中にも出るだろう」
「無罪になればいいですね」
ウィキによると『その後無罪判決』とあったはずだから大丈夫だろう。
「それでは失礼します」「失礼します」
二人で所長室を出て、
「トラックが到着するまでまだしばらくかかるから、俺の部屋で少し時間を潰そうか」
「先輩、ここに部屋まで持ってるんですか? それじゃあ重役じゃないですか」
「重役ってことはないが、他にいる場所もないし、ほとんど使ってはいないんだけどな」
「分かったような分からないような。だけど、エアコンないのに建物の中が涼しいですね」
「やっぱり東京は温暖化してるのかもな」
「東京が暑いのは、50パーセントはエアコンのせいじゃないですか?」
「割合は分からないが、かなりそれに近そうだよな。試しに都内でエアコンを全面禁止したら気温が5度くらい下がるんじゃないか?」
「そんなことして熱中症で死人が出たら責任問題になりますよ」
「今は、というか、21世紀はいいのか悪いのか、そういう意味でがんじがらめだよな」
「ですね」
理研の本館内にある俺の部屋に堀口を案内し、一つしかない椅子に座らせた。
「部屋は広くて天井も高いし、机はすごく立派ですけど、椅子は座り心地悪いですね」
「俺もそう思っている。とはいえ、わざわざ21世紀から持ってくるほどでもないからな」
「それはそうですけど。部屋の中に机と椅子しかないって、斬新ですよね?」
「懲罰人事で、一人っきりの地下室で朝から晩まで座らせるってなかったか?」
「聞いたことがあったような。でも、そんなことしたら、21世紀なら会社が訴えられますよ」
「それはそうだ」
「それで荷物が到着したら、どうするんです?」
「トラックから降ろして、玄関の中に置いておけば、ここの人が適当に使ってくれるだろう」
「そんなのでいいんですか?」
「一度総務かどこかに持っていくと思うが、そこはここの人に任せておけばいいはずだ。それと、この部屋の電灯のソケットは玄関のと違ってエボナイトかベークライトのようだけど、見た感じソケットは似てるだろ? おそらくすぐに使えるんじゃないか?」
「LED電球って実は半導体ですよね」
「そうだろ。たしかLEDのLEは何だか分からないが、DってダイオードのDだったはずだ。ダイオードって言うからには発光しやすい微量元素を混ぜた2種類の半導体を重ねてるんじゃなかったか?」
「こういうのって、この時代の研究者から見たら魔法に見えませんか?」
「確かにな。熱くないのに光ってるし。興味を持つ人はたくさん出るだろうな」
「いいんですか?」
「いいに決まってるだろ? 興味と好奇心が発明の母だ」
「発明の母って失敗じゃなかったですか?」
「じゃあ、興味と好奇心は発明の祖母だ」
「もういいです。そろそろ玄関でトラックを待ちません?」
「そうだな」
玄関まで出ていき、そこで二人してトラックを待っていたら15分ほどしたら、トラックが玄関前に横付けした。
「ご苦労さま」
そう言って荷台に乗り込んで、荷台から運転手さんと堀口にLED電球の入ったカートンを渡し、最後に2輪キャリーカートを持って荷台から飛び降りた。
トラックが走り去ったところで、ちょうど幸田さんがやって来たので、その場でカートンを一つ開けて、LED電球を取り出して幸田さんに見せた。
「この口金ですが、ここのソケットに合いそうですか?」
「この口金なら、そのまま使えそうですね。もし合わなくても、ソケットくらいはうちの工作部ですぐに加工できますから」
「それはよかった。それじゃあ、あとはよろしくお願いします」
「お任せください」
「堀口。一応今日の仕事は終わった」
「これだけ?」
「そう」
「まあ、LED電球だってこの時代ではオーバーテクノロジーですから」
「まあな。それじゃあ、駒込駅前にカフェーがあるから、そこで現状の説明をしてやろう」
「はい」
理研を出て、駒込駅前のカフェーに入った。
カフェーの中はもちろんエアコンは効いていなかったが、天井の扇風機が回っていて気持ちだけ涼しかった。
空いていた二人席に座り、女給さんがやってきたところで俺はサイダーを頼んだ。堀口はクリームソーダを頼んだ。サイダーは15銭でクリームソーダが25銭、合わせて40銭だから50銭払えばいいか。
すぐにサイダーとクリームソーダがやって来た。見た目は21世紀の喫茶店とほとんど変わらない。どちらもストローが付いていたが、紙ストローだった。プラスチックがない時代だから、エコってことはないだろう。そもそも21世紀の紙ストローがエコじゃないし。
「それで、何をするにも金だから、現状、理研の収益基盤を高めることを目指して、抗菌薬としてサルファ剤の商業化を進めている。これは星製薬が主体になっている」
「さっきの話にも出てた星製薬ですよね。そこの社長ってSF作家の星新一さんのお父さん。そうですよね?」
「その通りだ。けっこう大きな製薬会社で俺も驚いたんだけどな。それで、星製薬はかなり経営が厳しい状態だったんだが、陸軍病院にサルファ剤をプレゼンしたことが功を奏して会社は持ち直したところだ。サルファ剤は陸軍への納入が優先されるはずだが、近いうちに市販されと思う。それで星製薬は安泰だろうし、理研にもキックバックがあるんじゃないか?」
「先輩の知識ですよね?」
「俺の知識ってわけじゃなくって、そういう薬があるって教えただけだよ」
「それでもすごいです」
「ありがとうな。それで、次はペニシリンだ。これは、北里研究所に話を持っていっている」
「北里研究所って北里柴三郎?」
「よく知ってるな」
「いちおうそれ系の学科を出てますし、さすがにその程度は」
「堀口が教えてくれた機器を北里研究所にも置いたから、これも順調だ。強力なペニシリン株が見つかればそれほど時間をかけずに実用化できるはずだ」
「すごいです」
「あとは、ストレプトマイシンだ。俺もストレプトマイシンについては名前くらいしか知らなかったんだが、結核ってこの時代の日本人の国民病だったらしいな」
「わたしはそれは聞いたことがあります」
「大したものじゃないか。あとは、ナイロンだ。これは堀口にも話しているけれど、糸ができたけれどあと一歩のところだ。確実になったら、東京で特許を取って、ロンドン、ベルリン、ワシントンの特許を取る予定だ。それで世界からパテント料が流れ込んでくる」
「でも、ナイロンを売り出してしまうと、日本の絹が売れなくなるんじゃないですか?」
「放っておいてもいずれアメリカでナイロンが生まれて絹が駆逐される。それくらいなら国内でナイロン工場を作って雇用を増やしたほうがいいだろ?」
「確かにそうですね。先輩って政治家に向いているかも?」
「それはないから。その他には、いま満州で石油を試掘している。満鉄って知ってるか?」
「聞いたことがあるような?」
「日露戦争の結果、ロシアが持っていた満州の鉄道のうち南側の鉄道路線とその周辺の開発利権を日本が手に入れたことで、それらの管理経営するため南満州鉄道会社が設立されたんだ。それを略して満鉄。で、その満鉄主導で石油を試掘している。ただ、試掘している場所が、満州でも北側だから、関東軍が満州軍閥の張作霖と交渉して干渉しない約束を取り付けたらしい。関東軍って知ってるだろ?」
「知ってます。満州を守るための軍隊で、そのうち暴走して満州事変とか日中戦争を引き起こした」
「その関東軍だ。暴走と言われているが、実際は政府が主導してたと思うけどな。軍といっても官僚機構だ。上のハンコがなければ何もできない。それはそれとして、今は関東軍の部隊がその試掘現場を守っているそうだ」
「何から守ってるんですか?」
「馬賊といって、武装盗賊団が跋扈してるんだそうだ」
「怖いですね」
「だから、軍隊が満州に派遣されてるんだよ」
「それはそうと、山田先輩と満州の石油がどう関係してるんですか?」
「満州で石油が出る場所を教えたんだよ」
「なんかズルいような」
「まあな。史実だと、満州で石油を探したものの見つからず、結局南方に手を伸ばしてアメリカに開戦理由を与えたわけだから、大油田を日本が抑えていれば、そういった歴史とは別の歴史が始まるはずだ」
「先輩の話を聞いていると、歴史を動かしているって感じがしますね」
「そのつもりなんだけど、まだ具体的な成果はないんだ」
「十分な成果じゃないですか?」
「そうかもしれないが、そうじゃないかもしれない。なにせ歴史に干渉してるわけだからな」
「そういう不安があるのは何となく分かりますが、それを言ってたら限がありませんよ」
「そうだな」
二人とも飲み物を飲み終わったところで女給さんを呼んで「釣りは要らない」と言って50銭硬貨を渡して店を出た。
「お釣りはよかったんですか?」
「ここはチップ社会なんだよ。女給さんも給料がないかほとんどないんだ。だからチップがないと食べていけないんだ」
「知りませんでした」
「俺はパソコンで事前に調べていたから、無粋な客にならずに済んだんだけどな」
「そうなんだ」
「そうなんだよ。それじゃあ帰ろうか。浦和まで帰ったら昼時だから、うなぎでもどうだ?」
「大賛成です。それって、この時代のお店ですよね?」
「そのつもりだ」
「つまり、日本産の天然うなぎ?」
「店の人に聞いてはいないが、そうなんじゃないか?」
「やった!」




