第85話 クロニクル2、シャイニングサン
昭和11年8月(1936/8)。北朝鮮の某所で建設を進めていた重水炉が完成した。この時点でイエローケーキの集積はすでに1500トンに達していた。そして重水炉と同時に竣工した核燃料工場でウランペレットの製造が始まった。
ウランペレットの製造は、まずイエローケーキを化学処理して二酸化ウランの粉末を作る。この粉末を型にはめて高温で焼き固め、9ミリほどのセラミック状ペレットに成形する。このペレットがプルトニウム製造の核となる。
重水炉の構造だが、このウランペレットを内径9.1ミリ、長さ三メートルほどのアルミニウム製被覆管の中に封入し、冷却水が循環する二重構造のパイプ内に挿入する。重水タンクにはこのパイプを通すための竪穴が設けられている。冷却水を高速で循環させながらタンクに重水を満たしていくと、ペレット中のウラン235が核分裂を起こして放たれた高速中性子が、重水で減速されて連鎖反応が始まり、核の火が灯る。こうして重水炉でのプルトニウム239の生成が開始される。プルトニウム239が中性子を余分に吸収して不安定なプルトニウム240へと変質する前、約一カ月で燃料棒を引き出し、プルトニウム239を化学抽出する。
発電用の重水炉なら、燃料棒の材質をジルコニウム合金とするとか、冷却水を高温高圧で循環させる仕組みが必要でハードルがぐっと上がるが、この重水炉はプルトニウム製造が目的なのでハードルはかなり低くなっている。
イエローケーキ30トンで1キロのプルトニウムを製造できるとすると、1500トンのイエローケーキから50キロのプルトニウムが製造できる。計画では6.2キログラムのプルトニウムを使用した初期型原子爆弾を製造する予定であるため、この段階で8発の原子爆弾が製造できる計算になる。このうち1発は起爆実験に使用するため、実戦使用可能なのは7発になる。爆縮レンズの設計には、それ相応の「基礎データ」が必要であったが、そういった数字は山田幸太郎が持ち込んだ資料の中に掲載されていた。ただ、爆縮レンズ用の爆薬などについての資料はなかったが、そのあたりは試行錯誤で何とでもなる。
すでに、東シベリアの原野を手に入れている日本にとって核実験場に困ることはない。
9月1日(1936/9)。北浦和駅が開業。
11月3日(1936/11)。アメリカ合衆国大統領選挙で民主党のフランクリン・ルーズベルトがニューディール政策への圧倒的支持を背景に労働者や黒人層を含む広範な支持基盤(ニューディール連合)を確立し、共和党のアルフレッド・ランドンに対して史実通り圧倒的大差で再選を果たしている。
選挙人数:523票対 8票
得票率:60.8%(ルーズベルト)対 36.5%(ランドン)
獲得州:46州対 2州
11月7日(1936/11)。 東京・永田町に国会議事堂落成。
史実では11月25日に日独防共協定が締結されたが、日本により圧倒されたソ連=ロシアにはすでに共産党は解体されており、共産主義を輸出する力どころか、輸出した共産主義を維持する力などない。従ってそういった交渉は当然発生していない。さらに、持てる国日本が持たざる国ドイツと対外政策が一致する点も存在していない。
12月末(1936/12)。ワシントン条約およびロンドン条約は失効し、15年続いた海軍休日が終わりを告げ、日本は「無条約時代(再軍備の加速)」へと突入したが、すでに日本を含め各国ともフリーハンドだったので実質的意味合いは何もない。
昭和12年1月1日(1937/1)。日本政府の支援の下、イルクーツクにユダヤ人による自治政府が樹立され、国名をイスラエルとした。日本、満州、モンゴルの3カ国がイスラエルを即座に承認している。のちにタイ王国も承認したが、欧米各国は一国も承認していない。
6月(1937/6)。日本政府および満州政府は『七族協和』の名のもとに日本郵船の「照國丸」、「靖國丸」などの大型客船を借り上げて、ユダヤ人避難民をアントワープから大連までの移送を始めた。
このことはNHKの海外向け短波放送で世界に向けて発信されており、世界中のユダヤ人コミュニティから寄付が集まり、正規料金の半額の運賃が実現した。船内には満州国外務省の職員が詰めており、簡単な手続きで満州国ビザを発給した。「照國丸」の乗客名簿の中にアンネ・フランク(当時8歳になったばかり)の4人家族の名があった。
『アントワープからダイレンまでの一カ月ちょっとのふなたびはすっごくたのしかった。船にのるまではともだちとわかれてさみしかったしニッポンの船だから少ししんぱいしたんだけど、すっごく大きくてきれいな船だった。マルゴット姉さんもアントワープからはなれる時はふあんそうにしてたんだけど、船にのっていろんなおともだちができて、おはなししているうちに、すっごくたのしそうにしてた。
ダイレンからアジアごうというきしゃにのったら、いろんな人がいた。わたしたちといっしょにアントワープからダイレンまでやってきた人たちもいたし、なにをいってるのかぜんぜんわからないことばをはなしている人もたくさんいた。でもそんな人たちでもあかるいかおをしてた。
マンチュクオのしゅとのシンキョウできしゃをおりて、そこで父さんが家を見つけてそこにすむことになったの。父さんはその家の1かいをつかってざっかやをはじめて、わたしとマルゴット姉さんはユダヤ人がっこうにかようようになったんだけど、こんなせかいのはてにユダヤ人がっこうがあったことにすっごくびっくりした。でも、すっごくうれしかった。それでもさいしょの日、どきどきしながら母さんにつれられて姉さんといっしょにがっこうにいって、それからかよいはじめたら、すぐにみんなとともだちになれたの。……。キティーへ』
8月(1937/8)、プルトニウム239が初期型のプルトニウム型原子爆弾3発分に相当する19キログラムまで積み上がる。
10月(1937/10)。日本陸軍、東シベリアにて仁科芳雄ほか関係者が見守る中、核実験実施。想定されていた威力を発揮。実験は成功。
10月29日(1937/10)。史実より2カ月早く空母蒼龍竣工。
11月(1937/11)史実では11月4日戦艦大和が起工されたが、構想段階での簡単な青写真までで立ち消えになっている。そのかわり空母翔鶴が起工され、続いて12月12日空母瑞鶴が起工された。
12月11日(1937/12)。アメリカン・プレジデント・ラインが運航した約2.2万トンの豪華客船プレジデント・フーバーが台湾沖を航行中、共同漁業(現・日本水産/ニッスイ)所属の第十二沖田丸200トンと接触。沖田丸は転覆。プレジデント・フーバーは停船することなく航過。
これにより、日本国内世論が沸騰し一気に日米間の政治問題化した。日本政府はアメリカが主張する「民族自決」を逆手に取り、アメリカ政府に対して、「自国の傀儡を立てて王権を奪い、武力でハワイを併合したアメリカのどこに自由と民主主義があるのか?」と問いただし、賠償金の他「ハワイの自治権拡大」と「日本海軍によるハワイ周辺の警備権」を要求。アメリカは一企業の問題として拒否。緊張が高まっていく。
昭和13年2月(1938/2)。クェゼリン航空基地整備開始。
3月(1938/3)。日米間の緊張の高まりを受けてアメリカ太平洋艦隊司令部がサンディエゴからハワイの真珠湾に進出。ハワイへの進出は史実だと1941年2月1日なので、3年も前倒したことになる。
3月13日(1938/3)。ドイツによるオーストリア併合。
3月末(1938/3)。 鉄道省内に「鉄道幹線調査会」が発足。
4月(1938/4)。理研航空機所沢飛行場にて『富嶽』初飛行。陸軍は同月九八式重爆撃機として制式化し理研航空機および中島飛行機に対して量産命令を出した。カムチャッカ半島南端部で港湾施設整備開始。
九八式重爆撃機:「富嶽」
理研・中島18気筒エンジン二一型×6
最大爆弾搭載量24トン
最大速度:時速650キロメートル(爆弾を4トン搭載した状態で高度10000メートルの場合)
巡航速度:時速540キロメートル(高度:9000メートル)
実用上昇限度:12000メートル
航続距離:6000~19000キロメートル(装備の重量によって変化。爆弾を4トンに減らし、爆弾槽に予備燃料を搭載した場合の作戦行動半径は8500キロメートル)
乗員:12人
武装
12.7ミリ機銃6挺(胴体前方上方旋回2挺・胴体後下方旋回2挺・尾部旋回2挺)
同じく4月。理研にてプルトニウム239製の中空の球内に、起爆寸前にガス状の重水素を注入する方式の爆縮レンズを開発。重水素を詰めない単純な球体の場合、10~20パーセントしか『燃えない』が、中央に重水素を置くことで中心部で核融合反応が起こり中性子が増倍する(ブースト効果)。これにより、プルトニウム239の『燃え残り』が劇的に減少し、7割から8割のプルトニウムが燃えることになる。結果的に爆縮レンズの精度的余裕と原爆の小型化が可能になる。さらに、ピットの外周を高密度のウラン238で覆うこと(タンパー:中性子反射と慣性による連鎖反応封じ込め)でさらなる強化を行った。理研ではこの原爆を性能強化型原子爆弾と呼んだ。
4月(1938/4)。吉林市東南24キロの第二松花江上で1933年9月に起工した豊満ダムが完成。
6月(1938/6)。整備が完了したクェゼリン航空基地に連山爆撃連隊が進出。クェゼリン-ハワイ間の直線距離は3930キロメートルに過ぎない。
すでに日本の超重爆の行動半径が4500キロメートルと推定していたアメリカ政府内に極度の緊張が走った。
ホワイトハウス内、大統領執務室。
「先日から運用が始まったわが国のB17爆撃機でさえ、行動半径は1400キロにすぎませんが、日本の爆撃機の行動半径は信じられないことに4500キロを超えるものと考えられます。その爆撃機がわざわざハワイから4000キロの位置まで進出したということは、明らかにハワイを狙ったものです。放置しておけば、ハワイの存立が危うくなります」
「それでは、われわれはどうすべきなのかね?」とルーズベルト大統領が不機嫌そうに尋ねた。
「可及的速やかにわが国の意思を示すべきと考えます」
「つまり、日本と戦うということかね?」
「放置すれば、ハワイを失いかねません。ハワイを失えば、フィリピン、グアムも失陥します」
「しかし、イスラエルをシベリアに建国した日本と戦うとなると、国内ユダヤ資本が嫌がるのではないか?」
「連邦捜査局(FBI)を使って、彼らのアラを探し出せば何とでもなります。大統領閣下、ご決断を」
「勝てるのかね?」
「勝たねばなりません。現在わが国と日本との工業力の差は圧倒的ですが、時間は日本の味方です。ソ連を屈服させた日本をこのまま放置すれば、閣下はわが国の崇高なる使命を諦めた大統領と歴史に名を刻まれます」
クェゼリン航空基地に続きカムチャッカ航空基地が稼働し、防空航空隊および航空偵察隊が展開している。またウラジオストックからイルクーツクまでの東シベリア鉄道の標準軌化が完了し、同時に北満州鉄道との接続も完了している。東シベリア鉄道の標準軌化に従事していた旧ソ連軍の兵士たちは解放されているが、3割ほどがロシアに向かわず、現地にとどまるか満州で職を見つけて定住の道を選んだ。
9月(1938/9)。米空母レキシントン、サラトガからなる戦闘艦隊(後の任務部隊)がハワイオアフ島真珠湾から、日本軍が航空基地を含む海軍基地を置くクェゼリン環礁に向けて出撃した。
アメリカ艦隊の動きは、出撃前から暗号文の解読により日本側は把握しており、真珠湾出撃時から配置についていた日本側の複数の潜水艦によって察知されている。
潜水艦からの情報を得てクェゼリン基地から発進した九三式司令部偵察機のレーダー捜索によってその後のアメリカ艦隊の動向は正確に掴まれていた。
アメリカ側では正体不明の電波信号らしきものを不審に思ってはいたが、発信源が特定できず、単調であったため何かのノイズであろうと結論付けて、進撃は続けられた。
9月12日。現地時間午前6時。クェゼリン環礁まで450キロまで接近した両空母からバラバラに飛び立った複葉のグラマンF3F戦闘機45機、ノースロップBT-1爆撃機55機からなる戦爆連合100機がクェゼリン空襲に向かう。運がいいのか悪いのか、うち3機が途中トラブルで母艦に引き返している。
レキシントン、サラトガとも第1波を送り出した後、飛行甲板上に戦闘機、爆撃機の順に艦載機を並べて第2波の発艦準備を進めていたが、第一次攻撃隊のうちトラブルで引き返した3機が相次いで戻ってきた。
着艦スペースがないため、着水指示を出したものの、海面は荒れており、3機は躊躇して着水せず、そのまま空母上空を旋回していた。そのうち1機が飛行を断念したのか着水を試みたものの、大波に当たって見事に大破し、そのまま水没してしまった。これを目の当たりにした2機はそのまま艦隊上空で旋回を続けた。
万全の態勢でアメリカ軍機の襲来を待ち構えていたクェゼリン基地から飛び立った九三式艦上戦闘機36機、九五式双発戦闘機12機により、午前7時の段階でクェゼリンに到達前にほとんどのアメリカ軍の艦載機は撃ち落とされることになる。
『上だ、上からだ! うわぁぁぁ……』
『奴らは何なんだ!』
『速すぎる』
『後ろに付かれた。誰か……!』
『双発機のくせに……』
『俺たちは七面鳥なのか!?』
『作戦は継続不能だ。撤退する。各機、戦場から離脱せよ!』
こういった声が出せた者はまだいい方で、何も気づかないまま、上空からの逆落としの機銃射撃の最初の一撃で3分の1のアメリカ軍機が撃墜されている。特に九五式双発戦闘機の機首に集合させた8挺の7.7ミリ機銃弾を文字通り浴びたアメリカ軍機は機体そのものが粉砕され、ちぎれ飛んでいる。
もちろん攻撃隊からの悲鳴は戦闘艦隊にも届いており、艦橋でこの声を聞いた者たちは一様に押し黙っていた。
戦闘艦隊の旗艦レキシントンに座乗中の司令官アーネスト・J・キング中将もこの第1波攻撃隊からの悲鳴を聞いていたが、今となってはなす術は何もない。一秒でも早く戦闘艦隊はこの水域から撤退すべきだが、逃げ帰る友軍機を迎える必要があるため、このままクェゼリンに向けて予定航路を進むしかなかった。
第2波として出撃準備が整った飛行甲板上の飛行隊長たちから発艦命令はまだなのか? と艦橋に問い合わせが何度もあったが、空母運用に不慣れなキングはどうするべきか迷っていた。ただ、この当時空母運用に長けた司令官などアメリカ海軍に存在しないので、キングが特別無能であったわけではない。
『サラトガ、戦闘機隊の発艦を始めました』
艦橋見張り員からの報告が入ったことで、キングはサラトガ艦長への叱責は後にして、あと追いにはなるが、レキシントンにも発艦命令を出した。レキシントンの飛行甲板上に並んだ航空機の3分の2ほどが発艦したあたりで、前方から第一波の航空機が接近してきた。なぜか高度は高いし、呼びかけにも応答しない。さらに思っていたより機数が多い。その航空機群から一部が先行し、南西に向かって飛び立っていった第2波の航空隊に躍りかかっていき見る見るうちに航空隊は機数を減らしていった。
そういった中、今となっては日本軍機と判明した編隊に対して、艦隊各艦から5インチ(127ミリ)25口径砲対空砲と、新鋭の5インチ38口径両用砲から砲弾が発射されたが、数がまばらなうえ、日本軍機のはるか下方で砲弾がさく裂して何の効果も上がらない。そのうち、日本軍機は戦闘艦隊上空まで達し、そこで胡麻粒のような爆弾の雨を降らせて悠然と航過していった。胡麻粒はやがて豆粒になり、そのまま戦闘艦隊を覆うように降り注ぎ、そして辺りは真っ白な閃光と衝撃波に包まれた。
海面に落下した熱圧弾の高温アルミ粉は周囲の水から強引に酸素を奪い燃焼した。高温での水の分解だけでなくこの反応でも大量の水素ガスが発生し、それが熱圧爆弾の弾殻を形成するフェノール樹脂を火種として二次爆発を引き起こし、さらなる破壊をもたらした。最終的には大量に発生した塩酸を含む塩素化合物のミストが艦を侵食し、生存者の皮膚を侵し呼吸を困難にした。




