第83話 昭和10年9~12月
9月26日(1935/9/26)。ハルハ川を越えて越境したモンゴル軍を満州軍の一部が追った。それまで満州国の守備隊の反応がないことで油断していたモンゴル軍は算を乱して逃走していった。
翌27日日本時間=満州時間午前8時。満州国はモンゴル人民共和国に対して『両国間の国境問題を永久的に解決すると同時に共産モンゴルからモンゴル人民を解放するため』宣戦を布告した。両国とも相手国内に公館を持っていなかった関係で、この宣戦布告は満州電々(MTT)による短波放送を用いている。
同時刻、満州国義勇航空隊はモンゴル国内の飛行場に対して航空撃滅戦を展開した。これにより、モンゴル国内の航空戦力が壊滅したうえ、飛行場も使用不能となった。満州国義勇航空隊は引き続き、満州軍の予定進撃路上のモンゴル軍を文字通り焼滅させていくことになる。
その中で、ハイラル基地を飛び立った加藤建夫大尉率いる戦闘機中隊があった。
「こちら加藤。これより、敵タムスク飛行場への襲撃を行う。中隊各機は周囲を警戒しつつ突入態勢に入れ」
『『了解』』
タムスク航空基地では何の警戒もしていなかったのか、飛行場脇に数機のポリカルポフI-15が並べられているだけで、あとは偵察・軽爆撃機であるポリカルポフR-5がのんきに西に向けて飛び立とうとしているところだった。
「各機、任意に襲撃せよ。突入!」
加藤戦闘機中隊は機銃掃射により駐機中のポリカルポフI-15を破壊したのち、飛び上がったばかりのポリカルポフR-5に対して3点射を数回浴びせただけで撃墜した。
九二式双発戦闘機の初の撃墜だったが、あまりのあっけなさに搭乗員すら驚いた。
戦闘機中隊は引き続き格納庫と飛行場周辺のその他施設に対して銃撃を加え、飛行場上空で旋回し後続の2個戦爆中隊の到着を待った。
戦爆中隊が熱圧弾をばらまいて飛行場施設を焼き払い帰途に就いたあと、加藤戦闘機中隊はその後についてハイラル基地に帰投した。午後からは、バイン・トゥメン飛行場に対して襲撃を行っている。
帰投後の戦果報告での加藤。
「軽爆がばら撒いたネ式爆弾ですが、最初の1発が地上で爆発したあと、その衝撃でまだ空中にあったネ式が誘爆していました。察するに、ネ式に信管は不要ではないでしょうか?」
「なるほど。黄色火薬なら地面に落ちた衝撃で自爆しそうだし、その爆発が周囲を巻き込み誘爆させる。たとえ不発があったとしても、10発も近くで爆発すればいずれ誘爆するか。分かった。上に報告しておこう。信管不要となれば相当安く作れるからな」
加藤大尉の報告と同じような報告が相次いだ。
後日。陸軍航空本部技術部が昇格独立した陸軍航空技術研究所において信管なしのネ式50キロ爆弾を使い、高度500メートルからの投下試験を行った。その結果、単発の場合、90パーセント起爆した。また、5発まとめて投下した場合、誘爆を含め全弾起爆したことから、信管を最初から取り付けないネ式爆弾を、ネ式2号爆弾として陸軍が採用し、海軍もこれに続いた。信管がないことは、爆撃機側に爆撃装置が不要ということであり、輸送機でもこのネ式2号爆弾を投下できることを意味する。
9月28日。ハルハ川の上流(源流部)に近い阿爾山に潜んでいた満州軍3個機動師団がハルハ川を渡河して北上し、モンゴル国内への進撃を開始した。渡河地点では、日本軍工兵隊の土木機械(均土車・自走油圧円匙など)が活躍している。
その日本軍の工兵隊は満州軍部隊の進撃を追う形で土木機械を使い道路整備を進めていき、満州軍の進撃路に沿って、物資の集積所を設けていった。土木機械の操縦席は本来むき出しだが、今回の作戦のため、簡易的な囲いが作られ、暖房用のヒーターも備わっている。
進撃を続ける満州軍の後方を本土から増派され3個機動師団が続き、満州軍への補給物資が円滑に届くよう経路の安全を保障することになる。この3個機動師団は西義一大将を司令官に据え第一軍として編成されている。また、第一軍の司令部には当地を知る関東軍の参謀が多数配置されている。
兵員輸送車には3.7ミリの窒化処理済み鋼板が張られ、その内側に竹織布で強化されたニトリルゴム添加の10ミリ厚の強化フェノール樹脂板が張られている。窒化処理しているといっても3.7ミリ鋼板では防弾効果は薄いが、銃弾の頭を潰すことで後ろの強化フェノール樹脂でからめとるという思想である。もちろん防弾効果が高いとはいえない。
そのかわり内張の強化フェノール樹脂により断熱効果が各段に高まっている。車外の気温は5度を下回っていたが、車内は10度ほどの温度を保っている。窒化処理済み鋼板の外見はくすんだ白なので、これから冬季に向かっていくうえで、迷彩の意味合いもある。
エンジンの排熱は、荷台の下を通すことができるように改造されており、いわゆる床暖房の他に車内の空気を燃焼に使わず排気も外部に直結した強制給排気式の灯油ファンヒーターが2台ほど車内に据え付けられているが現在は運転されていない。
車内には人数分の八九式歩兵銃と八九式重擲弾筒が2挺、それに予備の実包と擲弾。飲料水用200リットル樹脂タンクが1つ。各人の背嚢の他に軽油のドラム缶が1本と、灯油が入った一斗缶が2缶置かれている。
兵員輸送車内の日本軍古参兵たちはナイロン綿製の防寒衣を着こんでいるが、ボタンを留めている者はいない。彼らは防寒用耳あてのついた九四式戦闘帽を膝に置き、煙草の煙で曇った車内で雑談していた。
「戦闘がない! 何もない! 陛下から賜ったせっかくの銃剣が使えない!」
「そうぼやくな。そのうち使う時が来る」
「来るかな?」
「来ないかもな。俺たちの仕事は、こうやってトラックに乗って、たまに道端に転がった死体の片づけだけだし、このままずーっと、生きてる敵兵に遭わないかもな。空を飛んでるのは友軍機だけだし」
「だよなー。戦争したいわけでも苦労したいわけでもないが、これでいいのか?」
「あったかい飯まで食えるし、訓練よりよほど楽だしな」
「だな。それで俺たちはどこまで行くんだ?」
「そりゃー、露助の首都があるモスクワだろ」
「ほんとにそんなところまで行くのか!? モスクワっていったら、地の果てじゃないか!」
「俺たちはトラックに乗ってるだけなんだから、行くも行かないも、どうでもいいだろ? その時になったら八九式歩兵銃を構えて、上に言われた方に向けてぶっ放すだけだ」
「確かに。あとは、擲弾筒ぶっ放してお終いだしな」
「違いない。ただ、俺たちが行くころ、敵が残っているかな?」
「さあ、結局、まだあったかい炭の始末だけかもな」
「ありえるな」
陸軍の兵隊たちがのんきに兵員輸送車に揺られているころ。
大湊から出港して三陸沖で警戒任務《****》中の第4艦隊の艦艇が、おりからの台風の影響による大波のため損傷を受けた。起工が1927年4月12日で、低水素溶接導入前の駆逐艦初雪の艦首側の主砲付近で切断された。史実では 駆逐艦夕霧も艦体が切断されたが、今回は初雪のみにとどまった。低水素溶接導入以降である1929年4月1日に起工した夕霧は切断を免れており、低水素溶接の導入が明暗を分けたと言えるだろう。
なお、10月3日、史実通りイタリアがエチオピアに軍事侵攻を開始している。戦車、航空機、毒ガスといった近代兵器を用いたイタリアに対し、エチオピアは劣勢を強いられることになるだろう。
10月14日(1935/10/14)。三宅坂の参謀本部内。作戦課長の石原莞爾の執務室。
石原の執務机の真上の天井は煙草のヤニで茶色く変色しており、机の上の灰皿は吸い殻でいっぱいである。石原は吸い終わった煙草を器用にその吸い殻の山の上に積み上げていく。
石原は作戦課の部屋に顔を出すこともせず、煙草の煙でかすんだ部屋の中で煙草をくゆらせながら、対ソ1号作戦の進捗状況の報告を待っていた。
大きく煙草を吸ったところで、石原が待っていた報告が入った。
「石原課長。満州軍がウランバートルの包囲を完了したとのことです」
「ご苦労」
課員を送り返した石原は独りごちた。
「予定通り作戦が進むのはありがたいが、あまりに予定通り過ぎる。何か見落としがないか気になるほどだ」
そしてまた煙草を口にくわえた。
それほど間を置かず、扉がノックされ、先ほどとは別の課員が入室した。
「石原課長。第一軍はウランバートルを過ぎ、ソ連国境に向け北上中とのことです」
「ご苦労」
これで、対ソ1号作戦は完遂した。第一軍が所定の位置に着けば、陛下からの『宣戦の詔勅』だ。
ここで、石原は煙草を吸いこみ、天井に向かってゆっくりと吐きだした。
モンゴル人民共和国の首都であるウランバートルが満州軍によって包囲された結果、外蒙古各地で反共蜂起が勃発し、地方に駐屯中のモンゴル軍および警察部隊は鎮圧のため出動したが、各地で無残な敗走を重ねた。
満州軍が包囲するウランバートルを予定通り素通りした日本陸軍第一軍は、10月18日、ソ連との国境まで進出を果たし、そこで一旦停止し陣容を整えた。第一軍の上空には後方から飛来した満州国義勇航空隊の戦闘機が舞っており、ハイラルから飛来した偵察機は第一軍の上空を航過してソ連領内へ越境し、偵察活動を続けていた。もちろんソ連軍も国境付近に集結中で各所で築城作業を行っていたが、戦車はもとより重砲などはまだ移動中のようで、歩兵主体の陣容であることが偵察結果から見てとれた。
1905年の日露間における奉天会戦以来の会戦の機運が高まったかに見えた。
10月20日(1935/10/20)午前7時。ソ連の圧政からの東シベリアの民族解放と七族協和(日・満・漢・蒙・朝・猶・露(白系ロシア))を掲げ、ソ連に対する宣戦の詔勅が陛下より渙発された。対ソ2号作戦開始の号令である。同時刻、日本国政府および満州国政府はソ連に対して、この年6月から開始されたNHKの海外向け短波放送により宣戦布告を行った。その後、太田為吉駐ソ連全権大使がクレムリンを訪れ、放送時刻を明記した最後通牒を手交している。
現地時間午前6時。払暁の中、国境沿いに集結中のソ連軍に対して、ハイラルの航空基地から梯団となって飛来した戦爆連合から熱圧爆弾が投下された。これにより第一軍の前面に展開していた5個師団相当のソ連軍は一瞬のうちに壊滅し、軍として崩壊してしまった。後続部隊も日本軍機からの空爆によって順に焼滅していった。この時には、満州国義勇航空隊は解体しており、機体には真新しい日の丸が描かれ、搭乗員、整備員たちその他要員は全員現役復帰している。
ハイラル以外の満州国内の航空基地からも日本軍機が飛び立ち、ソ連軍飛行場を空襲後、シベリア鉄道の要所を空爆、破壊してまわった。特に、牡丹江の航空基地から飛び立った戦爆連合はソ連特別赤旗極東軍の司令部のあるハバロフスクの他、ウラジオストクの軍事施設、海軍施設、在泊中の潜水艦を中心とした艦船などに対して空爆を行った。この際、港湾施設に対する空爆は行わず、艦船に対して通常爆弾による攻撃を行っている。
海面上では、大湊で待機中だった長門を旗艦とする第1艦隊がウラジオストク沖まで進出し、海上封鎖している。ウラジオストック軍港から脱出を試みた潜水艦は音響探知機を備える第1艦隊の駆逐艦によってことごとく撃沈されている。
同日。ウランバートルより白旗を掲げた使節団が現れ、包囲軍司令部において降伏を申し出た。満州軍は直ちにウランバートルに入城。翌日、反共親日政権モンゴル国が成立した。日本と満州国は即座にこれを承認。東亜の地図は、わずか一日で劇的な変貌を遂げたのである。
張学良将軍率いる満州国軍は占領軍司令部をウランバートル内のホテルに置き、モンゴル国内の警備のため、部隊を各所に派遣した。また、満州から食料その他の支援物資がトラックによって続々とモンゴル内に運び込まれていった。張学良は1週間ほどウランバートルにとどまり、補修を終えたウランバートル飛行場から数名の幕僚を伴って空路新京に凱旋帰国している。
新京飛行場には一般市民も詰めかけて、満州国の国旗を振り、張学良を迎えた。
張学良は、溥儀の待つ仮宮殿に移動し、戦勝を報告した。後日張学良はこの戦功をもって大将に昇進している。
第一軍は当日と翌日の二日間をかけて前方に広がる焼け野が原の戦場整頓を行った後、イルクーツクに向けて北進を開始した(1935/10/22)。
第一軍がイルクーツクに向けて進撃する中、10月25日。牡丹江から飛来した九三式双発軽爆撃機から、ウラジオストク市民に対して脱出勧告ビラが投下された。そして、NHKの海外放送でもウラジオストク市民に対して脱出勧告を繰り返し放送した。脱出勧告ビラの投下から3日後、10月28日日本時間午前6時(現地時間午前8時(注1))ウラジオストク市街地周辺部に対して熱圧爆弾による空爆が始まった。
文字通り焦土と化した市街地周辺の状況から、ウラジオストク駐屯部隊司令部は抗戦を断念。なお、ウラジオストックの太平洋艦隊司令部(注2)はこの時点で壊滅しており、ソ連海軍の指揮系統は不在だった。
翌日、10月29日。ウラジオストク駐屯部隊はスターリンの徹底抗戦命令を無視して市庁舎に白旗を掲げ降伏。同日、第1艦隊の各艦に同乗していた陸戦隊500名により市庁舎その他を占領。
続いて、歩兵2個大隊相当を乗せ室蘭港から出航した陸軍の揚陸艦神州丸がウラジオストク港手前まで進み、搭載艇によるピストン輸送で陸兵と資材を上陸させた。
上陸した陸軍の兵士たちはソ連軍兵士たちの武装解除を進め、工兵たちは揚陸された建機と資材を用いて港湾設備の修復作業を開始した。港湾設備の仮修復が終われば輸送船が岸壁に接岸して、本格的な港湾設備の修復が行われる予定だ。満州と鉄道を結ぶため広軌から標準軌に軌道への切り替えが必要だが、とりあえず西方への物資の補給のため、広軌のまま鉄道の補修を本土から派遣される鉄道工兵連隊が行っていくことになる。
史実通り12月2日付で山本五十六は 海軍航空本部長に就任し、海軍の航空主兵を推進していく。
すでにシベリアの路面は凍結しており、第一軍の進撃というより移動は順調だったが、途中工兵による架橋などを行うことでそれなりに時間がかかっている。それでも、12月20日。第一軍はイルクーツク中央を流れるアンガラ川の南側からイルクーツクを半包囲した。すでにバイカル湖も凍結が始まっている。今回も空からの宣伝ビラによる市民の脱出勧告のほか、NHKの海外放送によるイルクーツク市民に対する脱出勧告放送が繰り返し行われた。
イルクーツクも含まれるザバイカル軍管区の司令部が存在するチタは日本軍機による爆撃で市内は半壊しており、司令部機能も喪失している。そのため、スターリンはザバイカル軍管区の臨時司令部をイルクーツクで立ち上げ、司令部要員をイルクーツクに空路送った。間が悪いことに、モスクワから移動中の司令官と司令部要員を乗せた輸送機が日本軍機によって撃墜されている。モスクワの期待を背負ったゲオルギー・ジューコフ師団長(注3)はシベリアの空で38歳の生涯を閉じた。当時のソ連の将星は異常に若い。
イルクーツクに残された戦力は1個師団相当のイルクーツク駐屯部隊と、これまでの『戦闘』で運良く生き残り、敗走したソ連軍兵士たちだけだった。本来シベリアの兵站基地としての機能を持っていたイルクーツクだが、集積されていた物資は焼け落ちて、重砲類は全滅し、残存するのは野砲が数門と軽戦車が数両という状態だった。もちろん、砲弾も銃弾もわずかに残っているだけだった。
ジューコフが無事イルクーツクに降り立っていたとしても、状況は何も変わっていなかっただろう。
12月23日。イルクーツク市街地に対して、南方から北に向かって熱圧爆弾による小規模な空爆が断続的に行われ、3日後の12月26日、イルクーツクは白旗を掲げ陥落した。市内に入城した日本軍はイルクーツクの市庁舎に日章旗を掲げ、臨時の司令部とした。日本軍は市内の武装解除を進め、後続の工兵隊がイルクーツク飛行場の整備を開始し、物資を満載した補給トラックがイルクーツクに大量の物資を運び入れ始めた。
同日、NHKは日本内外にイルクーツク陥落を伝え、日本国内各所でちょうちん行列が行われ戦勝を祝った。もちろん誰かが仕掛けたのだろうが、こういうところは日本人である。
これで、対ソ戦第2段階が完遂された。残るは対ソ戦の仕上げ、第3段階作戦のみである。
欧米諸国は日本軍による電撃戦の勝因をソ連軍の構造的弱さが原因と分析し、日本軍機の優秀さについては懐疑的であった。なぜなら、うわさされる日本軍機の性能は彼らの航空機のおそらく2世代先を進んでいたからである。つまり、有色人種の作った航空機がわれわれの航空機をはるかに凌駕していることなどあり得ない。と一笑に付されたわけだ。
史実での中国大陸に零戦が登場した時と同じである。
心情的にはそうなんだろうが、心の底では恐れているんじゃないか?
注1:現地時間午前8時
1930年、ソ連は電力節約などの目的で、全土の時計を標準時より1時間進める「布告時間(Decree Time)」を導入している。そのため、ウラジオストク(UTC+10)の数字上の時刻は日本時間(UTC+9)+2時間。
注2:太平洋艦隊司令部
1932年、ソ連は極東の軍事力強化を決定し、4月13日に「極東海軍」を創設。1935年1月、極東海軍が拡張・改称され、正式に「太平洋艦隊」となる。司令部は一貫してウラジオストクに置かれていた。
注3:
当時のソ連軍(赤軍)には「将官・佐官・尉官」という区分や呼称そのものが存在せず、そういった呼称が復活したのは1940年になります。この歴史ではどうなるか不明です。




