第81話 昭和9年5~9月
今年のゴールデンウィークはおとなしくしておいた。理由は、現代でのゴールデンウィーク中の旅行は国内外問わず論外だし、100年前の旅行もちょっと面倒に思えるようになったから。特に和式のトイレってしゃがむのがつらいんだよ。歳食って体が硬くなったせいで。そのあたりを堀口に聞きそうになったのだが、危ういところで思いとどまった。
「先輩、和式トイレって、しゃがむのつらくないですか?」
いたよ。
「つらいかもしれんな」
「ですよね。足首が硬くなったせいか、しゃがむとのけぞっちゃうんですよ。こないだなんか、……」
「堀口。詳細な説明はせんでいいから」
「へーい」
お前もう三十路だろ!? とか言わなかった俺はエライ。
「わたしはそんなことないかな?」と鶴井。
鶴井はこの中で一番若いから、足首が柔らかいんだよ。なんであれ、もうよせ。
「分かったから」
「はい」
素直でよろしい。
トランジスターが極秘指定された関係で、民生品への利用ができなくなったため、理研では小型真空管の廉価化に力を入れ、国民ラジオ(注1)というべき小型かつ廉価なラジオを開発した。それを受けて理化学興業でラジオの組み立て工場を作ることになった。ラジオ用の真空管は東京電気(現・東芝)に委託製造してもらうことになっている。ちなみに東京電気の真空管の主要部品は理研製である。
真空管以外の部品は理研コンツェルン内で調達する予定だそうだ。各家庭にラジオが1台の時代がすぐそこだ。
よーく考えたら、昭和9年といえば史実では世界恐慌の真っただ中。日本は高橋財政で世界に先駆けて恐慌から回復中だった。しかし、今の100年前の日本はそもそも世界恐慌の波をほとんど受けることなくここまで来ていた。要因はもちろん、北満州での石油であり、石油を担保とした積極財政にある。その一端として、生糸生産農家の救済も兼ねて東北、北陸、中部地方で道路整備が進んでいる。俺のおかげと思ってくれてもいいんだよ。
5月に入り、路上の自転車は目に見えて増えているし、自動車の数も増えてきたような気がしないでもない。町中に活気があるのは確かだ。たまに昼食に立ち寄る店などでも店内は明るい雰囲気だし活気がある。
同月、理研により朝鮮の興南地区で建設中だった低品位アルミ精錬所が完成して稼働を始めた。新精錬所は理化学興業傘下とし、理研アルミと名付けられた。製品であるアルミ粉には鉄や銅の酸化物が含まれるため、ステアリン酸コーティングを施している。後付けではあるがこういったステアリン酸コーティングにより運搬時に発生する静電気の減少と集中を抑えることができ、安全性が高まっている。製品は主に満州の奉天造兵廠に送られ、熱圧ロケット弾頭、および熱圧爆弾の助剤とされる。これにより、それらの製品単価がさらに低下することとなる。
俺自身は熱圧爆弾の破壊力を見たわけではないが、大河内所長いわく『さながら太陽のようだった』。これって、戦術核相当ってことじゃないか?
荷物を下ろして、理研からの帰り道。いつものカフェーで小休止。
「先輩。大河内所長が熱圧爆弾のことを『さながら太陽のようだった』って言ってたでしょう?」
「そうだな」
「戦隊ものって先輩知ってます?」
「いや、まあ、一応。あれって男子たるものの嗜みだろ?」
「嗜みは知りませんが、戦隊ものの後ろでよく爆発させてるじゃないですか」
「そういった演出多いよな」
「だけど、あの爆発は土砂と煙だけで、さながら太陽なんてどこにもないですよね」
「そりゃあ本物の兵器と、火薬を使った演出じゃ全然違うだろ?」
「だけど、爆発で太陽って、核爆発くらいしかありませんよ」
「堀口。言いたいことは、熱圧爆弾は核爆弾に匹敵するんじゃないかってことか?」
「はい」
「小型の戦術核のようなものだろうな。熱圧爆弾の単価はおそらくだが100円もしないだろう。それに対して、長崎型の原子爆弾は開発費を含まず材料と工賃だけで1000万円近くかかっていると思うんだ。1000万円あれば10万発の熱圧爆弾が作れる。運ぶ労力を度外視すれば、10万発の熱圧爆弾は1000万円の原爆の数倍の破壊力があるんじゃないか?」
「つまり、核?」
「破壊力は核相当だけど、放射能がないからあくまで通常兵器だ。焼き払ったあと冷めればすぐにそこに行ける」
「あれって、先輩がアドバイスしたんじゃなくって、理研で勝手に思いついたんですよね」
「勝手というか、独自に思いついたみたいだな。理研の連中はみんな天才だし、天才が必死になって研究してるんだから、そういった飛躍、イノベーションがあっても不思議じゃないだろ?」
「そうですけど」
「スタミナドリンクも使ってるわけだし」
「確かに」
「そういえば、社長。最近トランジスターの話あまり聞かないじゃないですか」と鶴井。
「極秘指定されてるしな」
「なんだか、すごいの作ってませんかね?」
「それは、……。十分あり得るな」
「計算機も作ったって以前言ってましたよね?」
「そうだったな」
「ってことは、今頃8ビットのマイコン作ってるんじゃないでしょうか?」
「さすがにそれはないんじゃないか? その前に機能をまとめてパッケージ化、そしてIC化が先だろうし」
「そうなんだ」
「いや。俺もよくは知らないけどな。いちおう、理研にはその辺の論文とかいろいろ渡しているから、いずれは到達すると思うけど。優秀な戦闘機と優秀な爆撃機、それに熱圧爆弾ができた関係で、電子機器の発展方向として精密な誘導兵器の必要性が薄れてきたのは確かだな」
「だけど、誘導魚雷とか敵の飛行機を落とす誘導ミサイルとか、役に立つんじゃないですか?」
「もちろん役立つけど、レーダーとか偵察機で敵の船を見つけたら、爆撃機が飛んでいって、上から爆弾を文字通り振りかけるだけで終わってしまうし、敵の飛行機が飛んでくる前に敵の飛行場を爆撃してしまえばそれまでだ。船だって敵の港を爆撃してしまえば、いちいち船を攻撃する必要もなくなるだろ? もう一歩進めると、敵の軍需工場とか造船所を爆撃してしまえば、敵は何もできなくなる。それが戦略爆撃だけどな」
「じゃあ、戦略爆撃だけあればいいってこと?」と、堀口。
「理想的にはそうだろう。とはいえ、それしかないとやっぱり不安だろ? 完全に息の根を止められればいいけど、確認のしようもないし。だから、今まで通りの方法で敵の戦闘機を落とす。爆撃機を落とす。戦艦を沈める。戦車を破壊する。ってことが必要になるんだろ」
そこら辺まで話したところで、飲み物がなくなったので、代金とチップを置いて店を出た。
その日は駒込駅から山手線で東京駅まで移動して、八重洲口から日本橋三越に歩いて行って商品を仕入れた。100年前の日本を支援する事業を続けていくためには、キャッシュフローも大切だからな。
5月が終わり、6月も過ぎていき、6月の下旬には2035年の日本列島は梅雨入りし、100年前の日本列島も梅雨入りした。
7月6日(1934/7/6金)。天気記録では東京の最高気温は24.1度。最低気温18.8度、平均気温20.9度、降水量0.3ミリ。
こちらの天気も朝から雨だったので、雨に濡れてもダメージがない食料品を中心に理研に運ぶことにした。このところ、喜ばれているのがノリ塩のポテトチップス。袋入りで手軽なところが受けているということだ。軽いからいいが、かさばるんだよ。ものすごく。そのうち理研食品で売り出すんだろうけど。
理研に到着して所長室を訪れ、今日運んだ物品の報告を大河内所長にしておいた。
「年表通りドイツで政変があったよ」
「なんでしたっけ?」
「年表に書いてあった『長いナイフの夜』だ。先月末に年表通り起きて、翌日7月1日の朝刊に『独逸に大政変、レーム氏等一味の反逆を未然に鎮圧』『ヒトラー首相自らピストルを手に首魁を逮捕』などと報じていた。それ以降その関係の報道が続いている」
ドイツ政府の発表通り流さざるを得ないよな。なんであれ、日本から遠い欧州の出来事はほとんど変化がないようだ。
「日本とはあまり関係ない出来事は、『予定』通り起こるんですね」
「そのようだな」
ドイツがどうなろうと日本は無関係。日本の科学が世界一であることには変わりない。史実通りドイツがヨーロッパで暴れても、日本は無関係。それどころか、史実でアメリカが行ったように、中立国義務など知らん顔でなんでも欧州に売りつけ、戦後の復興特需で儲けさせてもらうだけだ。ウェーイ! 一粒で二度おいしい、とはこのことだ。
特にイギリスがアジアに持つ権益は日本にとっておいしいから、それとバーターでもいいんじゃないか? イギリスとて背に腹は代えられんだろう? 史実で第一次世界大戦と第二次世界大戦を通じて大英帝国を解体して世界を我が物にしたアメリカだが、今回はその果実を日本も半分くらい手に入れると思うぞ。
「先輩。またニヤニヤが始まってますよ」
「おっと。俺としたことが」
「まあ、いつものことですし」
事務所に帰って気になって『長いナイフ』って何か調べたところ、「裏切り」や「復讐」を象徴するフレーズで、元々はイギリス(ウェールズ)に伝わる5世紀の伝説「長いナイフの裏切り」に由来しているそうだ。ヒットラーから見て、用済みどころか重荷となったレームに「反乱計画を企てた」と汚名を着せたってところだろう。レーム達を粛清し、ついでに政敵を暗殺した後、ヒトラー自身が演説の中でこの事件を「長いナイフの夜」と呼んだそうだ。ヒットラーって意外と教養あるな。
梅雨が明けて、蒸し暑い日本の夏がやって来た。100年前の日本に比べて確実に5度以上今の関東は暑い! エアコンがないと熱中症になるからエアコンをつけてさらに気温が上がっていく。これって、国際政治でも言えるんじゃないか?
エアコン(軍備)をつければ自分は涼しく(安全に)なるが、その裏側にある室外機からは猛烈な熱気(脅威)が外へ流れ出る。その熱気を受けた隣家(隣国)は、さらに強いエアコンをつけざるを得なくなる。そのスパイラルが2、3周もすれば気温が上がり過ぎて結局そこら中が熱中症(戦争)になる。
こうならないためには、相手のコンセントを抜いてしまうのが手っ取り早い。具体的には敵国の工業力を奪うこと。そうすれば、気温が下がっていき、エアコンの維持費も下がっていく。
なんであれ、この構図の中で確実に利益をあげるのは電力会社だ。そして熱中症にならないよう、暑いときにはためらわずにエアコン点けることを推奨するCMを流す。
ドイツでは長いナイフの夜から1カ月後。ヒンデンブルク大統領の死去(1934/8/2)を受け、史実通りヒトラーは首相と大統領の職を併せ持つ「指導者兼帝国宰相(総統)」に就任している。
8月が過ぎていき、9月に入った。
「先輩、9月に入ってるのにまだセミが鳴いてますね」
「そうだな。ミンミンゼミだから、これで最後じゃないか?」
「ミンミンゼミだと最後なんですか?」
「よくは知らないが、最初はアブラゼミがジージー鳴いて、気が付けばミンミンゼミのミーン、ミーンが始まってるだろ? そしたらそのうちその鳴き声が聞こえなくなって、秋の虫の音が聞こえてくる」
「そういえば八日目のセミってあるじゃないですか」
「あるな」
「二日目のカレーってあるでしょ」
「あるな」
「なんか似てません?」
「確かに語呂は似てるが、なんの関連もないだろ!」
「それはそうですけど、どちらも味がありますよね。ちょっとうまいこと言ったと思いません?」
「すごくウマイこと言った。これでいいか?」
「もういいです!」
そして、9月18日(1934/9/18)、こちらも史実通りソ連が国際連盟へ加盟した。これを受け日本政府は国際連盟を激しく糾弾して国際連盟から脱退している。これで日本は国際連盟の規約に縛られないフリーハンドを得たことになる。つまり国際連盟に加盟しているメリットがデメリットを下回ったということだろう。そういう意味だと、今の日本も国際連合に加盟しているメリット、デメリットをレビューしたほうがいいんじゃないか?
同月。日本政府は、国内各化学会社および在満各化学会社に対して、エチレングリコールの増産命令を、理研製油所に対しては極低温用エンジンオイルの増産命令を出している。
事務所で、堀口が買ってきたおはぎを鶴井が淹れてくれた緑茶でいただきながら。
「先輩、エチレングリコールって不凍液ですよね? それに極低温用エンジンオイルってことは、明らかにソ連を狙ってますよね? これって、軍靴の足音ですよね!?」
機械化が進んでいる今《*》の日本は軍靴の足音ではなくトラックのエンジン音なんだけどな。
「堀口の言う通り、ソ連との戦争が近いってことだろうな」
「これって、ソ連のスパイも気づきますよね」
「気づくだろうな。気づけばモスクワに報告するだろうし、そうしたらソ連は極東の兵力を増強するだろう。とはいえ、少々の増強なら意味はないんじゃないか? それにこの時期のソ連軍は近代化がそれほど進んでないし、兵隊の練度も低いから、ものすごく弱いぞ」
「そうなんですか?」
「今の日本軍ははっきり言って史実の日本軍じゃない。史実の日本軍でも、補給さえちゃんとしていれば、おそらく世界最強だった。ただその補給が続かなかった」
「今度の日本軍には補給がある?」
「ある。それも潤沢にな」
「じゃあ、本当に強いんだ」
「だからこそ、相手が弱い今のうちに叩く。鉄則だろ?」
「そう言われればそうだけど、そう簡単に戦争していいんですか?」
「国家の意思ってそう簡単には変更が利かない。そういうものなんだ。日本なら国体の護持。西部開拓を終えたアメリカなら太平洋からアジアに向かうマニフェスト・ディスティニー(明白なる天命)。ドイツならウクライナに向かうレーベンスラウム(生存権獲得)。それに、歴史はいい悪いじゃないんだよ。大河の流れのようにゆったりと流れていくけれど、確実に河口に向かっていくだろ?」
「なんだか、それっぽい歴史家みたい」
「ちょっとだけ気取ってしまった。アハハハ。とはいえ、向こうの街に暗い雰囲気はないだろ?」
「そうですね」
「今の日本とソ連の実力差から言って、ソ連は大敗北を喫する。九三式司令部偵察機があれば、誰にも邪魔されずに、外蒙古だろうが、ウラジオストクからイルクーツクまでのシベリア鉄道沿線だろうが、詳細な軍用地図が簡単に作れるはずだからな」
「それって領空侵犯ですよね?」
「その通りだけど、下から見上げるだけで、何もできない以上、領空侵犯はし放題だろ? そもそも、上空1万メートルとかを飛んでいる飛行機なんて、どこの国の飛行機かもわからないんだから」
「そう言われれば」
「それと、ソ連のスターリンは敗戦の責任を転嫁するために、軍部に対して大粛清を行うだろう。わざと敗北した『反革命分子』とか言ってな。そうすればソ連軍はますます弱くなる」
「先輩、ソ連軍のことを赤軍って言いますよね? あれはどうしてなんですか?」
「『赤』は社会主義・共産主義のシンボルカラーで、ロシア革命後の内戦時に、貴族や富裕層を中心とした反革命軍(白軍)に対して革命を守る軍隊として『赤軍』と名付けられたそうだ。だから、内戦で負けてソ連から逃げ出した貴族や富裕層を白系ロシア人って言うんだ。あとソ連の軍隊って、国家の軍隊じゃなくってソ連共産党の私兵なんだ。あの国の面白いところは党が最上位でその下に国があるってところ。党の存続が一番で国民は二の次ってわけなんだ。言い換えれば俺たちと国の概念が根本的に異なるんだ。これは今の中国も同じで、人民解放軍は中国共産党の私兵に過ぎない。だから天安門で国民を戦車でひき殺せたんだ。民主主義国では主権者は国民だが共産主義国家での主権者は共産党。国民はただの資源であり、取り換えの利く部品。国民には何の権利もないんだよ。そのあたりを理解していないと彼らを誤解することになる」
「すごくよく分かりました」
「さすがは社長です」
余談だが、21世紀の日本で『軍靴の足音』が聞こえたら、それはもう『病気』か『反日外国勢力の影響下』と言っていい。
注1:国民ラジオ
ドイツの国民ラジオ(Volksempfänger、フォルクス・エンプフェンガー)は、ナチス・ドイツがプロパガンダのために開発した低価格のラジオ受信機。1933年8月18日に最初のモデル。「VE301」が発表され、同年に発売された。価格は76ライヒスマルクに統一され、市民に広く普及した。モデル名の「301」は、ヒトラーが首相に就任した「1月30日」に由来している。76ライヒスマルク(RM)の価値は、現在の日本の円に換算すると、おおよそ7万円から27万円。かなり幅があるので中をとって15万円程度? なんであれ、多くの国民にとって月収の半分程度だったようだ。しかも月2RMの分割払いまであり、わずかな手数料だけで無利息だった。




