第80話 昭和9年4月
4月に入り新年度が始まった。YHT貿易の事業の方は、新年度だからどうということもなかった。
予想していたというか、やはりというか、史実で3月に起きた函館での大火災が起きなかった。人災についてはこれからも史実と異なることが起きてくるのだろう。
その代わり、史実では3月12日長崎県志々伎岬沖で水雷艇友鶴が荒天下の演習中に転覆した。友鶴事件は残念ながら史実通り当日起きたのだが、史実での艦長以下100名の犠牲者数(死亡+行方不明)が、この新しい歴史では92名だった。
鮎川義介率いる日本産業(日産)が横浜に巨大な自動車工場を建設し、昨年から「ダットサン」の量産を始めていたのだが、その日産から、理研合成に対して、自家用車だけでなく軍用トラックの車体用として強化フェノール樹脂の提供を求められたそうだ。ここでいう軍用トラックは物資の輸送だけでなく、機動歩兵大隊と称してトラックに兵隊を乗せて移動するらしい。今のところ移送手段が自動車しかないから機動歩兵といっても自動車化歩兵の言い換えに過ぎないが、手段ではなく目的を名称にしていることで、将来的に無限軌道の装甲車とかヘリコプターが装備されても機動歩兵という名称を機械化歩兵とか空中歩兵とかに変更する必要はない。軍事的合理性のかけらもない機動戦士よりよほどいい。みなさん、そうは思いませんか?
「先輩、何をブツブツ言ってるんですか?」
「いや、なんでもない。そういえば、最近、向こうの道路で自転車をよく見かけるようになっただろ?」
「そうですね。アスファルト舗装が進んできてるから、自転車の乗り心地が各段にアップしているはずですものね」
「だよな。こういうのって、自動車じゃないからモータリゼーションとは言わないんだろうけど、何と言うんだろうな?」
「自転車はバイシクルだから、バイシクゼーションかな?」
「堀口さん、サイクリゼーションって言うみたいです」
「おおー、鶴ちゃん、物知りー!」
「いえ、今調べたから分かっただけですから」
「わたしも今初めて聞いた言葉だし」
「俺も今初めて聞いた。向こうでは満州の油田のおかげでガソリンが安価に手に入るようになったから、これから先、史実より何十年も早くモータリゼーションが始まるんだろうな」
「そうでしょうね」
「こっちの歴史だと、自動車が日本の産業を支えてきた面があるから、向こうでも経済がしっかりしていくんじゃないか」
「いい方向にどんどん回っていきますよね」
「だな。俺たちはいままで技術的に歴史に干渉してきたけれど、一番の干渉は、満州での石油だろうな」
「わたしもそう思います。石油製品を買ってた外貨で他の物を買えますものね」
「その通りだよな。石炭は黒いダイヤといわれていたが、石油は何と呼ばれてるのかな?」
「えーと、黒い黄金だそうです」
「おおー、鶴ちゃん物知りー!」
「いえ、今調べたから分かっただけですから」
黒いのに黄色とはこれ如何に? とはいえ、ゴールドには黄色という意味は本来ない(注1)だろうから、おかしなことになったんだろう。
「なんであれ、もう数年したら『ダットサン』が日本中で走り回ってるんだろうな」
「でしょうね」
「史実に比べて、強化フェノール製の車体ならかなり軽くなるだろうから、軽快だろうし」
「速度が出過ぎると、危険じゃないですか? シートベルトもエアバッグもないんだから」
「速度を出し過ぎるといっても、当時の自動車じゃ限度があるだろ。ダットサンのスペックはどんなものかな?」
「車両重量が約400キログラム。最高出力は12馬力。最高速度は時速65キロメートルで乗車定員は 2〜4名。だそうです。今調べました」と鶴井。
さすがに、調べただろうということは分かるよ。
「おそらく、エンジンは理研の合成ゴムや、シリンダーとかが使われているはずだから、出力は15馬力程度には上がってるだろうし、それに伴って最高時速も70キロくらいになってるんじゃないか? その上樹脂製のボディーで30キロ程度重量が下がれば、75キロ程度の最高速度は出そうだ。時速75キロもあれば確かに危険だけど、最高速度が時速75キロじゃ速度が出過ぎってことはないだろ?」
「確かに」
ただ、フェノール樹脂は紫外線で劣化するから、ちゃんとした塗装は必要だ。ちゃんとした車庫があればいいが、一般家庭にそこまでは期待できないものな。
後日、大河内所長から聞いたのだが、この4月、政府から自動車製造各社に対してトラックの増産依頼が出されていたそうだ。形式上は依頼だが、実質的には命令なのだろう。増産されるトラックだが、軍の指定の防寒仕様にするという。昨年度のトラック生産量は実史に比べ10倍近い生産量まで伸びていた。しかも国内の主要道路のアスファルト普及率も伸びている。いずれも満州の石油のおかげなのだろう。
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こちらは満州国陸軍の張学良中将。彼の父、張作霖は満州国軍元帥として祭り上げられており、満州軍の実権は満州国参謀本部長である張学良が握っていた。その張学良は近衛師団以下近代化された装備を整え訓練を施された3個師団を擁する中央軍管区長も兼任している。この3個師団以外の満州国軍は、省を単位とした各軍管区の警備軍として組織された軍組織で、現在近代化の途上である。
なお、史実では満州国軍の人事は関東軍の許可が必要だったが、この歴史では大幅に緩和され、満州国の裁量が大きく認められている。
その張学良の元に関東軍から参謀長の小磯国昭中将が訪れて、関東軍の『モンゴルに関する考え』を伝えている。すなわち「外蒙古を共産主義から解放し、ソ連、中国との緩衝地帯を設けよう。その際日本軍は全面的に協力する」との誘いだった。
張学良は参謀本部の会議室に隷下の幕僚たちと参謀本部の参謀たちを集め、関東軍の提案について協議を行うことにした。参謀たちのほとんどは日本の陸軍大学校において参謀教育を受けている。
「中国、ソ連との緩衝地帯といわれても、中国はともかく、現在ソ連とは国境を接している以上緩衝の意味はないのではありませんか? さらに言えばソ連が本気になって、国境全域で攻勢をかけてくるのでは?」
「もちろんその懸念はあるが、関東軍、いや日本軍の考えは、東からウランバートルまで例の爆弾で焼き払いながら進撃し、そのままイルクーツクまで打通させる腹積もりのようだ。イルクーツクを抑えてしまえば、それより東のソ連軍は立ち枯れる」
「理屈の上ではそうでしょうが、果たしてそれほど簡単に行くのでしょうか?」
「ロケット弾の威力を君も知っているだろうが、新爆弾の威力はあんなものではないんだよ。あながち夢想とも言い切れない計画だろう。しかもソ連軍の戦闘機では最高速度で200キロも差がある日本軍の戦闘機に歯が立たない」
「しかし、日本軍の戦闘機は双発の重戦闘機です。機動性が単発機に比べて著しく劣るのではないですか?」
「それが、そうでもないんだ。なんでも舵を切れば自動でフラップと呼ばれる翼の一部が開閉して失速することなく単発機並みの機動ができる。わたしも見たが見事なものだった」
「つまり、勝算は高い?」
「そう思っていいと思う。われわれの仕事は、日本軍の戦闘機が露払いをして爆撃機が焼き払った跡を占領するくらいになる。補給等は日本軍が全面的に支援するそうだ」
「それくらいなら、なぜ最初から日本軍が矢面に立たないのですか?」
「それは、モンゴルと満州国との地域戦争の体で開戦するためだ。わたしが満州軍を率いて攻め込めば体裁も整うだろ?」
「なるほど。ですが、ことがうまく運んで、モンゴルを解放できたとしても、モンゴルの後ろ盾のソ連と本格的な戦争になるのではありませんか?」
「もちろんそうなるだろう。だが、ソ連がその気になった時には、初めから開戦を決意している日本軍によってイルクーツクは落ちている。イルクーツクから西に向けて例の爆弾でシベリア鉄道を爆撃していけば、ソ連軍は何もできないだろう」
「なるほど」
「満州国軍はこの方針に沿って準備を進めていこうと思うが、みな異存はあるまいな?」
「決行は何時頃の予定でしょうか?」
「来年の秋口を目途に考えておけばいいだろう。本格的な冬が来る前に片を付ける。それと、日本からわが方の3師団分のトラックが供与される。空爆で焼いた後に駆けつけるのに、歩兵が歩いては作戦が滞るからな」
「全員がトラックに乗るのですか?」
「日本軍ではトラックに乗せて移動力を増した歩兵を機動歩兵と呼ぶらしい」
「なるほど。中央軍管区に騎兵がわずかだったのはそのためだったのですな?」
「わたしもそこまでは考えていなかったが、結果はそれで良かったと思っておこうじゃないか。反対意見もないようだし、元帥に報告して許可をもらい次第準備に取り掛かろう。まだ1年半あるが、1年半しかないと思って励んでくれたまえ」
「「はい!」」
「ところで、陛下への報告はどうなさいます?」
「こちらが了承すれば日本政府が満州国に正式に依頼することになっている。そうなれば陛下から参謀本部に諮詢があるはずだ。その時わたしから『軍は行けます』と奉答すればいいだろう」
「了解です」
国際的なプレゼンスが上がっていけば、自ずと満州国の自立の道が開ける。そのために手っ取り早いのが、軍事的な成果を上げることだ。というのがこの時の張学良の考えである。
その日のうちに張学良から関東軍に対して『依頼の件は諾』と返答をしている。そして関東軍は三宅坂に同様の内容の連絡を入れた。
これを受けた三宅坂は、枢密院に対して満州国の軍部が『作戦』を了承したことを報告した。そして枢密院は首相に対して満州国に対し『対外蒙古秘密参戦依頼』を行うよう指示を出した。
新たな歴史の歯車がゆっくりと、しかし確実に回り始めた。
この時点における満州軍の近衛師団の編成は、3個歩兵連隊+1個戦車大隊(完全充足)+1個自走砲大隊(75ミリ自走砲装備、未充足)+3個噴進弾大隊(未充足)で構成されていた。
また、残る2個師団はいずれも4個歩兵連隊で構成されていた。
これに対して、永田鉄山が日本本土から関東軍に追加派遣を予定していた兵力は3個機動歩兵師団。機動歩兵師団は3個機動歩兵連隊からなり、機動歩兵連隊は1個戦車大隊+1個自走砲大隊+1個噴進弾大隊+3個機動歩兵大隊で構成される。この3個師団はイルクーツク占領作戦に投入される。送られる師団は外面上はただの歩兵師団だが、あらかじめ現地に装備を用意しておき、現地で機動歩兵師団に改編する予定だ。
さらに、九二式双発戦闘機3機+九二式双発爆撃機6機からなる戦爆連合中隊を18個中隊のほか九二式双発戦闘機9機からなる戦闘機中隊を12個攻勢用に用意する腹積もりだった。これに現地の関東軍から1個師団が作戦に加わる。もちろんこの数字は参謀本部および関東軍参謀部とすり合わせたものである。
参謀本部がこの対ソ戦を前提としたモンゴル攻略作戦に対して付けた作戦名は『対ソ一号作戦』。続く『対ソ二号作戦』はモンゴルからイルクーツクに進みイルクーツクを占領する。同時に、イルクーツク以西のシベリア鉄道を空爆破壊しつつイルクーツク以東のソ連軍に対しても空爆その他で消耗を強いる。仕上げの『対ソ三号作戦』において、イルクーツクに進出した爆撃機によりイルクーツク以西の戦略目標を爆撃し、最終的には長躯モスクワを空爆し、ソ連に休戦を迫るというものである。
つまり、陸軍からの理研への航続距離9000キロ超の重爆の設計製造依頼とは、イルクーツクからモスクワへの爆撃(直線距離で4200キロ)を念頭に置いたものである。
注1:ゴールドには黄色という意味は本来ない
「ゴールド(gold)」という言葉の語源を遡ると、本来は「黄色」や「輝く」といった意味にたどり着きます。 英語の gold と yellow(黄色)は、実は同じルーツを持つ兄弟のような言葉です。 どちらも印欧祖語の 「ghel-」 というルートに由来しています。
意味:このルートはもともと「輝く」「光る」、あるいは「黄色」「緑色」といった明るい色や光を指していました。
派生:この「輝く黄色」というイメージから、金属の「金(gold)」と、色の「黄色(yellow)」の両方が生まれました。 だそうです。
さらばシベリア鉄道 (1980太田裕美)。作戦が成功すれば、こういった歌も生まれないでしょう。大瀧詠一バージョンもいいですよ。




