第66話 昭和6年1~2月。
1月5日(2032/1/5-1931/1/5、皇紀2591年)、快晴の空の下、理研に消耗品を届けたのだが、その前に大河内所長に新年の挨拶をして、休み中に用意したアメリカの50万分の1の「陰影起伏図」集の入ったUSBメモリーを渡して簡単な使い方の説明をしておいた。
「将来、何かの役に立つかと思って揃えておきました」
「ありがとう。アメリカと事を構えることが将来ないとは言い切れない以上、役立つよ」
「わたしの時代のアメリカ政府内で地図を作っている機関の地図で、1940年ころは軍が作っていたようです」
「なるほど。ますます有用なわけだ」
「アメリカとの戦争を前提にしたものですから、使われないことに越したことはありませんが、用意しておいて悪いものじゃありませんから」
「全くだ。最悪に備えられるなら備えておくのが賢さだからな」
「そう思います。わたしの世界では、アメリカに対して反撃するため、中島飛行機で6発の超大型爆撃機を作る計画があったようですが、本格的に計画が進む前に、日本がアメリカの爆撃で破壊されて負けてしまったという歴史があります。飛行機の名前は必勝を期してZ機。日本海海戦で掲げられたZ旗にちなんで中島知久平氏が名付けたものです」
「中島飛行機のZ機か」
「のちに、公募を経て『富嶽』と名付けられました」
「ほう、富嶽か、いい名だ」
「わたしの方の歴史では機体設計はできても、基礎となる技術が追い付いていなかったので、戦争に負けていなくても実現は難しかったはずです。でも、こちらなら、そういった大型爆撃機を製造することの技術的障害はおそらくなくなるでしょう」
「そうだね」
所長室を辞して、荷物が到着するのを待ち、遅れて到着したトラックから荷物を下ろして、荷下ろしを手伝ってくれた幸田さんにあとはよろしくお願いします、と言って理研を後にした。
この日も日本橋三越に行って商品を仕入れて浦和に帰った。
午後から、オークション用の準備を進めて、作業が一段落したとことで、席に着き、堀口が買ってきてくれたきんつばを鶴井が淹れてくれた緑茶でいただいた。
きんつばとは全く関係ないが、この日理研の所長室で富嶽の話が出たことで、ふと思い出して、アメリカが開発したノルデン爆撃照準器について調べてみた。
驚いたことに、ノルデン照準器の開発と製造に、当時の金額で11億ドルから15億ドル、原爆を開発製造したマンハッタン計画20億ドルの約半分〜4分の3に匹敵するという途方もない金額が投じられていたようだ。
肝心の性能だが、高度6000メートルから直径30メートルの円内に爆弾を落とせる。というカタログスペックに対して、ヨーロッパ戦線での実績は、投下された爆弾のうち目標から300メートル以内に着弾したのは全体の半分以下(20パーセント程度という説もあり)だったと言われている。なんだこれは!
さらにお笑いなのは、ノルデン社にいたドイツ系の工員ハーマン・ラングが、1938年には設計図をドイツ側に渡していたそうで、その図面を見たドイツの技術者は「複雑すぎて使いにくい」「うちの ロトフェ7(Lotfe 7)の方がシンプルで同等の性能が出る」と判断し、コピーすら作らなかったという。おいおい!
日本側も、墜落機から回収したノルデン照準器を調査したところ、「精密な機械ではあるが、日本の工業力では量産不可能」であり、かつ「現在の爆撃スタイル(急降下爆撃や艦攻による雷撃)には不要」として、関心すら示さなかった。
日独の反応とは真逆で、とうの米軍は爆撃手に「命に代えても機密を守る」と誓わせ、出撃ごとに照準器を厳重な袋に入れて運ばせていたようだ。つまり、国内向けの予算の説明のために爆撃手は「道化」役になったわけだ。
とにかく、ノルデン照準器が実戦ではほとんど役に立たないことが判ったため、アメリカはピンポイントの「精密爆撃」を諦めて、大編隊で大量の爆弾の雨を降らせエリア一帯を破壊する「絨毯爆撃」に舵を切ったのが真相らしい。もし、ノルデン照準器が期待通りの性能を実戦で残せていたら、民間人の死傷者数は圧倒的に少なくなっていたはずだ。
ということで、ノルデン照準器の資料は一応まとめてはみたが、否定的なものになった。もし『富嶽』ないしそれなりの爆撃機に精密照準器を実装するなら、レーダー(マイクロ波)と組み合わせたものになるんじゃないか? その次は、自律式の爆弾とか空対地ミサイルか。
ノルデン照準器の失敗を調べているうちにアメリカの磁気信管魚雷のことを思い出してしまった。あの国ってある意味、お惚けだよな。言い方を変えれば、余裕があって切羽詰まっていなかった。今度の歴史では、それを期待はできない。そもそも、慌てさせてやるつもりだし。
次回理研に持っていくものはすでに事務所に用意しているので、その次に持っていくものを注文して、16時前にはその日の仕事を終えた。
「お疲れさま」「「失礼しまーす」」
二人が帰っていき、俺も事務所を出て、隣の自分の部屋に戻り、服を着替えてから風呂の準備を始め、風呂が沸くまでにある程度夕食の準備をしておいた。とはいってもテーブルの上に冷蔵庫から取り出した総菜を並べただけだ。
翌週。理研に荷物を届けたところで、ノルデン照準器と磁気魚雷の話を大河内所長にしておいた。
「その照準器は失敗したようだが、照準器と爆撃機の操縦を連動させるという発想はなかなかのものだな」
そういえば大河内所長は兵器の研究開発が専門の東大の造兵学科の教授だった。
「機械的なものですから、相当精密なものだったんでしょう。風とかの影響を考慮するとなるともっと複雑になって、機能しなくなったのかもしれませんね」
「そうなんだろうな。君の世界だと、爆撃照準はどんな感じなんだね?」
「レーダーで地表をとらえ目標を探し出し、レーザーという拡散せずに直進する光線を目標に合わせて固定すると、機の機動に左右されず、レーザーが目標をとらえ続けて、そのレーザーを追うように爆弾が『飛行』して目標に命中するようです。目標をとらえ続ける部分に、トランジスターで組み上げた『計算機』が入っています」
「なるほど。兵器の頭脳は人からトランジスターというわけだな」
「はい。ただ、攻撃目標が戦車とか、艦船なら、先日お話した音響追尾などで対処できると思います」
「なるほど」
遅れてやって来たトラックから荷物を下ろし、あとのことは理研の人達に任せ、俺たちは理研を出て、駒込駅に向けて歩いていき、いつものカフェーで一息ついた。
「先輩、結局ノルデン照準器ってどんなものだったんですか?」
注文した飲み物がやってきたところで、堀口が聞いてきた。
「爆弾を目標に正確に落とすために、アメリカが大戦前に莫大な予算をかけて作った機械装置なんだよ。機械が目標をとらえると、機械が操縦を受け持って爆弾を正確に落すという。開発費と製造費を合わせると、原爆を作った費用の7割くらい使ったんだそうだ」
「それってすごい金額なんですよね」
「すごい金額だろうな。作った個数でその金額を割ると、1基あたり今の価値で数億円したそうだ」
「さっきの話だと、それが役に立たなかったって話でしたよね?」
「全く役に立たなかったわけではなかったのかもしれないが、期待外れだったことは確かなんじゃないか? 結局は、予算をとる方便だったんだろ」
「そんな国に負けちゃったわけだから、ちょっと悔しいですね」
「まあな。日本が負けたのはGDPで10倍ある国と戦争したからとよく言われるが、その前に必須資源が欠乏していたから、何もできなかった。それが負けた原因じゃないか? でも今回は、油もあればニッケルもある。しかもそれを活用する知識まである」
「勝てばいいですよね」
「最低でも負けない。負けないってことは勝つってことと同じだけどな」
「そうあって欲しいです」
「必ずそうなるよ」
この月、改良点火プラグの製造工場の建設が始まっている。この点火プラグの販売が始まれば、外国製の点火プラグは日本国内から姿を消すのだろう。改良点は全て特許出願しているそうなので、また理研は特許でもウハウハだ。
半導体関連については、1ミリ角のダイオードに対する電極融着治具が開発されている。これにより、ダイオードの本当の意味での量産が始まることになる。トランジスターは0.5ミリ角の大きさだが、これへの電極融着治具の開発はそれほど時間はかからないはずだ。そうなれば、トランジスターは最初から量産だ。さらに小型化が進めば、論理回路に進んでいき、コンピューターの世界が開けてくる。まだ1931年だぞ? 俺の予想では1940年を見込んでたんだが、9年も前倒してしまった。こんなのでいいんだろうか? このままいってしまうと小型化がどんどん進んで、1940年にはICが出来てるんじゃないか? そうなってしまうと、日本軍の兵器にかなう兵器は存在しないぞ。
大型均土車の開発を終えた理研建機では、大型均土車の初期不良の対応の傍ら、次の開発目標として自走油圧円匙、すなわち油圧ショベルにとりかかるようだ。均土車の車台がある上、油圧ポンプも油圧シリンダーもあるわけだから、設計してあとは組み立てるだけだろ? 違うか?
開発が終了して、現場で活躍するようになれば、またまた、土木工事が捗るぞ!
これとは別に、理研精密では、窒化チタン層の滑りに注目して、シリンダースリーブなどへの窒化チタン蒸着を進めていたのだが、部材との膨張率の違いから窒化チタン層がついて行けず、部材から剥離してしまい、結局断念した。代替としてガス窒化処理を始めた。ガス窒化処理というのはアルミニウム、クロム、モリブデンなどの窒合物を形成しやすい元素を含む部材に対して摂氏500度程度のアンモニアガスを窯の中で反応させ、部材に窒素を浸潤させる方法で、その結果部材の表面硬度が高まる。エンジンのシリンダー、クランクシャフト、ポンプ、コンプレッサー部品、精密ギヤなどに応用が利く。窒化チタン蒸着での膨張率の違いによる剥離といった問題は、ガス窒化処理では起こらない。ニッケルクロムモリブデン鋼にも当然適用できる。これでまた、日本の金属材料工学が一歩前進した。
2月に入り、ダイオードの接点融着ラインが一新されて、大量生産が始まった。それまで顕微鏡を見ながら接点を融着していた女工さんたちは、製品の品質チェック業務に回ることになった。
こういった業務の移り変わりの中で、理研ではこれまでのPNPN……と不純物を順に添加しながら半導体を引き上げる方式から、最初にN型半導体を作り、それを切り出してN型の板を作り、その板の上にインジウムの粒を「ふるいのような」治具を使ってきれいに並べて焼くことでP型を作る合金接合型(アロイ型)の開発に移っている。P型の層を作ったあと、板を裏返してまたインジウムの小粒を載せて、そこで加熱してP型層を作る。それをカットして治具を通して電極を融着すればPNP型トランジスターが完成する。あと一歩だ!
3月中旬までに俺たち自身は確定申告しなければならないので、書類を揃えて、会社で使っている税理士さんに見せて確定申告を乗り切った。これについては費用は各人の実費負担となっている。
「確定申告も終わったけれど、今度のゴールデンウィークどうする? 去年は仕事してしまったから今年はどこかに行くか?」
「今度は、こっちの国内旅行ですよね」
「向こうより、こっちの方がいいんじゃないか?」
「ですよね」
「どこか行きたいところある?」
「そう聞かれて、どこに行きたいってないんですよねー。鶴ちゃん、どっか行きたいところある?」
「お魚がおいしいところがいいです」
「お魚となると、どこだ?」
「函館とか?」
「となると飛行機だな。じゃあそれで行くか。適当にホテルと飛行機を予約しててくれればいいよ。日付は連休中ならどこでもいい。というか少しくらいズレても問題ないから」
「分かりました」
さすがにゴールデンウィークまでまだ2カ月近くあるから予約取れるんじゃないか? 駄目なら駄目でいいんだけど。
理研航空機では排気過給機と、操縦席周りの気密化と与圧化の実験を行うために、高空試験機を製作することになり、その設計に入った。また、この試作機用に中島飛行機の寿エンジンを元に、素材などを見直し、軽量化を図ったうえで、高馬力化を目指すことになった。この高空試験機は冗長性を考慮し双発機としたため、前段階として、これまでのエンジンを使った双発機を製造し、操縦系統などを洗練させることになった。
そしてその前段階双発機の設計は順調に進み、所沢工場で製造が始まった。
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八九式軽戦車乙のエンジンはダイムラー製の空冷直列6気筒ディーゼルだったが、これを三菱造船から三菱重工と名を変えた(注1)三菱製に変えたものを八九式軽戦車乙改として、大阪工廠で月産10両を目標に生産を開始した。もちろんエンジンのシーリングは理研合成製であるし、核となる部材は理研精密製である。
注1:三菱重工
1934年(昭和9年):三菱造船が三菱航空機と合併し、三菱重工業株式会社に社名変更




