第6話 大正15年2月、6
ハーフコートを着て、手にリュックを持ったまま理研を後にした俺は、駒込駅方面に歩いていき、駅までの途中にあった『カフェー』に入ってみた。その店は新装開店したばかりなのか、外装が真新しかった。
「いらっしゃいませ」
店の中の席は二人席と4人席で、合わせて20席くらいあった。調度などはレトロ調と言えばレトロ調なのだろうが、内装も真新しく、古臭い感じはしなかった。客の数は5、6人で、その中の30歳前後の背広を着た3人が口角泡を飛ばして議論していた。彼らの議論の内容は分からないが、おそらく理研の若手研究者たちなのだろう。まだ就業時間なのだろうが、さすがだ。というか、ここまで自由でいいのだろうか? まあ、仕事についての議論なら、仕事と言ってもいいか。
空いていた二人席に座ったら、「いらっしゃいませ」と言って、白いエプロンに和服を着たウェイトレス、つまり女給さんがやってきた。
「コーヒーはいくら?」
「10銭です」
「じゃあ、コーヒーをお願いします」
女給さんが注文を取っていなくなったところで、ポケットの中から取り出した給料袋を開けた。中から明細書が1枚と10円札が10枚出てきた。ということは100円。現代価値としてだいたい40万円だ。給料袋から明細書を引っ張り出して中身を見たら、税金はおろか何も控除されていなかった。すごく儲けた気がする。
給料袋に明細書を入れて、ポケットにしまって一安心。
それから店の中をざっと見渡したら壁に値段札が懸けられていた。
飲み物は、紅茶、ココア、ソーダ水、レモネード。食べ物は、サンドイッチ、カツレツ、カレー、オムライス。など。カレーライスが30銭。カツレツが50銭。値段はそこそこだがメニューが現代と大差ないことに驚いてしまった。
事前に調べたところ、カフェーでは代金の他に女給さんにチップを払うのが常識だったようなので、コーヒーの代金10銭とチップとして10銭、合わせて20銭を小銭入れから取り出してポケットに入れておいた。
しばらくして先ほどの女給さんが運んできたコーヒーを一口飲んだ。豆の種類は分からないが若干苦かったので、ブラジルか? そこで思いついたんだが、インスタントコーヒーとか紅茶のパック、緑茶のパックってどうなんだろう? インスタントコーヒーの製法は少し難しそうだが、不可能じゃないだろうし、お茶のパックは簡単だろう? 理研のような職場では重宝するんじゃなかろうか。 こういったカフェーの営業妨害になるかもしれないが、それはそれ、これはこれ。
コーヒーを飲み終わって女給さんを呼び、代金とチップを合わせて20銭を渡して店を出た。
そこから駅まで歩いていき、窓口で「浦和まで」と言って切符を買い、改札でハサミを入れてもらってホームに入り池袋方面行の電車を待った。
来た時と同じく1時間ほどで浦和に帰りついた。
駅を出て浦和高等学校に向けて歩いていたら、ちょうどうなぎ屋があった。この時代なので、確実に天然物のウナギだ。
店からはいい匂いが漂ってくる。
気づいたら暖簾をくぐっていた。
「いらっしゃいませ」
そのまま仲居さんに連れられて、靴を脱いでかまちに上がり、廊下を伝って六畳の座敷に案内された。
6人席のような座卓を前にして、仲居さんに敷いてもらった座布団に胡坐をかいて座った。
「うな重っていくら?」
「1円になります」
「じゃあ、それで」
「30分ほどかかりますが、その間にお酒でもいかがですか?」
「酒はいい」
「さようですか」
そう言って仲居さんは部屋から出ていって、すぐにお茶を持って戻ってきた。
部屋の中で手持無沙汰だったが、スマホを見て時間を潰すわけにもいかないので、じっと、うな重が出てくるのを待っていた。一度お茶を代えてもらい、40分ほどでお膳の上に乗ってうな重が出てきた。お膳の上にはお吸い物とたくあんが付いていた。
お重の蓋を取ったらたれのかかったご飯の上に、緑の山椒の葉をあしらった大きなうなぎが鎮座していた。待ってた甲斐があった。
……。
10分もかからず完食してしまった。
この時代の1円といったら4000円と思うと、安サラリーマンとすれば昼間っから結構な贅沢だが、俺にとっては今日はエクストラの給料日だったことを考えたら、問題なし。そういえば、うな重が1円ということは、チップはいくらだ? 2割として20銭。結構おいしいから、奮発して50銭置いておくか。
チップ文化が廃れたことは現代社会のアドバンテージの一つではなかろうか?
完食した後、仲居さんを呼んで10円札で支払い、お釣りを持ってきてもらったところで、心づけと言って別途50銭硬貨を渡してから、部屋を出た。上り口に揃えてあった靴を履いて店を出た。いやー、満足じゃ。
腹をさすりながら浦和高等学校正門まで戻り、ちゃんとはっきり自己主張している穴を通って100年後の現代に戻った。
一度うちに戻って荷物を置き、普段着に着替えたら眠くなってきたので、そのままベッドに横になった。
目覚めて時計を見たら、午後3時だった。
関数電卓を23日までにできるだけ揃える話をしていたのだが、これから秋葉原の電気街まで出かける元気は出なかったので、他に理研であったほうがいいものをパソコンで探すことにした。
現代の科学研究に使えそうな便利製品は何であれ電気製品が主になる。
それを前提とした場合、あの時代の電圧は不安定と聞いたことがあるので、電源装置があったほうがいいだろう。俺が人力で運ぶことを考えたら、ポータブル電源と折りたたみ式高出力ソーラーパネルか。それらを揃えるとなると、今の俺ではおそらく先立つものが不足するから、先方が用意してくれるというスイスからの輸入時計に期待するとしよう。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
駒込のカフェーで幸太郎がコーヒーを飲んでいたころ。
大河内所長は各種のハンドブックを前にして頭を抱えていた。
――これらは、あまりに貴重な資料だ。100年後の日本ではあまり価値がないのかもしれないが、どの本も一冊が1億円以上の価値がある! 長門と陸奥、2隻より高価だ」
――しかし、これらをどう活用するのか? とにかく目次だけでも通しで読んでみないことには繋がりが見えないところもある。今の技術で取り掛かることができることからコツコツ進めないとならない。ただ、正解があることが分かっているわけだから『失敗』はない。それどころか試行錯誤も大幅に少なくできる。つまり確実に前進できる。少しでも近道できれば、大変な利点、優位性だ。100年後の技術をまるまる模倣はできないが近づくことはできる。
――それとは別だが、今研究員たちが抱えている問題の答えがおそらくここに書かれている。うーん。扱いが難しすぎる。
――月曜になったら、計算を大量に抱える研究室から順に計算機を配布するとするか。幸田君に言って計算室の利用状況から順位付けすればいいだろう。本格的に計算手の働き口を探さないとな。
――スルファニルアミドのネズミを使った実験は予想通り成功してしまった。これで、星製薬も医薬品化に弾みがつくだろう。北里研究所ではアオカビと放線菌の研究が始まったことだし。
――今日の午後には麹町にある満鉄の東京支社で安広総裁に会う約束だ。そこで、あの計算機を見せたうえで、満州の油田の話をする。資源地図も忘れないようにしないとな。ただ、ハルピンとチチハルの間というと、位置的にかなり微妙だ。関東軍に話を通しておく必要があるだろう。そのあたりは安広総裁が関東軍に『大油田』の話を持っていけば何とかなる。なってほしいものだ。
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翌日の日曜日。(2027/2/21)
午前10時に空のリュックを持ってうちを出て、秋葉原に向かった。服装は21世紀の日本での標準的な服装。厚手のブルゾンにチノパン。そしてスニーカーだ。
秋葉原で京浜東北線を降りて、前回購入した関数電卓と同じものを同じ電気屋で探したが、20個しか売っていなかった。その店を出て電気屋行脚を続けて昼までに全部で60個ほど購入できた。残りの90個については、オンラインで注文だな。在庫があるオンラインショップで片端から買っていけば90個は何とかなるだろう。いや、それだと受け取りが面倒だからメーカーのオンラインショップで一括で買う方が無難か。
その日の昼食は秋葉原でステーキにした。昼間からビールを飲みながらの厚手のステーキは最高だった。
この日も腹をさすりながらうちに戻り、パソコンから残数の90個をメーカーのオンラインストアで購入することができた。4日後に宅配便で届く予定なので、次の理研への出勤日である土曜日には十分間に合う。少し安心した。
そのあと、リュックの中から60個の関数電卓をスポーツバッグに移して、23日に備えることにした。リュックをそのまま使わずスポーツバッグに移したのは、前回、ちょっとだけ視線を感じたからだ。
それから会社の出勤日を挟んで23日の祝日。(2027/2/23)
午前8時にスポーツバッグを下げてうちを出た俺は、公園の穴を抜けて向こう側に出た。
向こう側は快晴。そして寒かった。前回同様、左右に田畑が残る道を浦和駅まで歩いていき、予定通り大正15年の理研に午前10時前に到着した。
今日も幸田さんが門の横に立っていた。
幸田さんに本館に案内され、そのまま所長室に行くのかと思ったら、そっち方向とは違う部屋に案内された。
「ここが、山田さんの部屋になります」
とのことだった。そして「机の鍵はこれです」と言って鍵を渡された。
「所長がお持ちです」
机の隣にコートスタンドがあったのでそこにハーフコートを掛けてから、幸田さんの後について所長室にに向かった。
「おはようございます」
「いやー、おはよう。君の部屋は見てくれたかね?」
「はい、ありがとうございます」
「まあ、座ってくれたまえ」
大河内所長の向かいのソファーに座って、床に置いたスポーツバッグから、目の前のテーブルに60個の電卓を置いていった。
「全部で60個しか買えませんでしたが、残りの90個は今週の土曜には用意できます」
「いやー、助かるよ。昨日、電卓《**》を配布したんだがえらい反響だったんだよ。プログラム電卓についてはプログラム集と一緒に5台とも長岡先生のところに預けてきた」
もう電卓とかプログラムとかいう言葉を使い回しているわけか。この時代の頭脳は侮れないな。
「長岡先生というと、長岡半太郎先生ですか?」
「そう。100年後の世界でも先生の名が残っているわけだね?」
「はい。わたしは無学なので、詳しくは存じませんが、名前だけは」
「それでも100年後の世界で名が残るとはすごいことだよ。
それで、君に伝えておくが、北里研究所でアオカビと放線菌の研究を始めた。星製薬ではスルファニルアミドの医薬品化に積極的に取り組んでくれるそうだ」
「それはよかったです」
「それと、満鉄の安広総裁に満州の油田の話をしておいた。調査部で積極的に掘ってみるそうだ」
「早く朗報を聞きたいものです」
「そうだな。それで、君が持ってきてくれた『ハンドブック』なんだがね」
「何か問題がありましたか?」
「悪い意味ではないんだが、扱いに困っているんだよ」
「?」
「あまりに内容が、全てを含んでいる。研究者として研究することがなくなるというか、そこに答えがある以上、試行錯誤がなく答え合わせをするだけの作業員になってしまう」
「そこまでは考えていませんでした」
「君の問題ではないから、気にしないでくれたまえ。それで折衷案として若手にはこれまで通り研究を続けさせる。ハンドブックの閲覧は各部門のトップに限り、研究の方向性を示したうえで、若手が行き詰った時に、助言を与えるということで進めていこうと思っているんだ」
「なるほど。それなら、若手がやる気を持続できそうですね」
「そう願っているんだがね。若手はそれでいいだろうが、部門トップはハンドブックを熟読して自分のものにしなければならないから、今みんな必死になってハンドブックをむさぼるように読んでいるところだよ。刺激と言えば刺激だが、ちょっと強すぎたかもしれない。
まっ、そういう感じでこちらは順調と言っていいだろう」
そのあと、大河内所長が立ち上がって机に歩いていき、そこから包装にくるまれた小箱を持ってきて渡してくれた。「これなんだが、日本橋の三越で売っていたスイス時計で一番高いものを用意できた」
こういったものはむやみに開けないほうがいいのでそのまま「ありがとうございます」と言ってそのままスポーツバッグの中にしまっておいた。
「それでは、今日はこの辺で」
「それじゃあ」
所長室を辞して今日与えられた自室に戻り、コートを羽織って帰途についた。
その日の午後。
うちに戻って大河内所長からもらった小箱の包装を慎重に開けてみたら、ロレックスマークの付いた箱が出てきた。恐る恐る箱を開けたら、保証書が付いたままの金張りロレックスが出てきた。相当な値段だと思う。
そのあと、どこで買い取ってもらうのがいいかいろいろネットで調べたところ、銀座にヴィンテージ・ロレックスを専門に扱うショップがあった。
ここだ!
うまくすれば1000万円の大台で買い取ってもらえるかもしれない。悪くても、2、300万円は下らないんじゃないか? なにせロレックスの文字通り新品《**》のヴィンテージだ。
午後から銀座に出かけていってその店に持ち込んだところ、店ではちょっとした騒動になり、結局3500万円の値段がついてしまった。
銀行口座を教えて、店の中で振り込み手続きが終わったことを画面で確認して、何とか手の震えを抑えて譲渡証にサインし、現物を渡して店を出た。これは確定申告待ったなしだな。購入金額はゼロだから全部譲渡課税だ。まあ、その辺は税理士に相談すれば何とかなるだろう。
翌日。午前10時ごろ。(2027/2/24)
会社のトイレの個室で恐る恐るスマホで預金残高を確認したら、ちゃんと3500万円が振り込まれていた。ゼロの数が眩しい!
これから先、毎月100円が手に入るなら、ロレックスを自費で買うことだってできる。夢が膨らむなー。俺って、もうこの会社にいなくていいんじゃないか?
いやいや、いつどこで何が起こるか分からないんだから、キャッシュフローは大切だ。その代わり、上を目指す気は一気になくなったのも事実だ。人間ってこんなものだよな。
それに、この金は、理研のために大きなものを買うための資金であって、俺のものと考えちゃいけない。危ない危ない。
席に戻ったら隣の席の女子、堀口明日香に「山田さん、何かいいことあったんですか? 宿便が出たとか?」
「堀口、すごく面白い突っ込みだけど、女子がそんなこと言わないほうがいいぞ」
「今の時代、男だから、女だから、って言ってるとセクハラですよ」
「あのなー、俺だってお前から見れば曲がりなりにも異性なんだぞ。異性に向かって宿便出たんですかって、それも立派なセクハラだろ!」
「うひょ!」
「もういいよ」
会社が引けてから、帰宅途中のカレー屋でカツカレーを食べてうちにもどった。
風呂の用意をする間、今後の出費増に備えて、パソコンでクレジットカードをゴールドに切り替え手続きをした。手続きは問題なかったので、今週中に新カードが届くはずだ。カードの配達は夜間指定にしておいた。
木曜日(2027/2/25)。会社から帰ってきたら、置き配ボックスに電卓が届いていた。
電卓をスポーツバッグに入れていったら、予想通り90個入らなかった。仕方ないので、部屋の隅にとっていたしっかりしたデパートの紙袋に入れておいた。
翌日の金曜日の夜。ゴールドカードが届いた。これである程度大きな買い物ができる。




