第5話 大正15年2月、5
理研を訪れた翌日の日曜日(2027/2/14)は、各種のハンドブックをパソコンから注文しておいた。
運のいいことにDVDではなく、若干古い情報だが、紙の本がちゃんと販売されていた。
化学について、
『化学便覧』
『化学工学ハンドブック』
冶金について
『金属材料データブック』
半導体について
『半導体デバイス・プロセスハンドブック』
石油、ガス採掘について
『石油・天然ガス地質ハンドブック』
さらに、ゲルマニウムの回収は早ければ早いほどいいのでハンドブックではないがその方法が詳細に記載された書籍『貴金属・レアメタルのリサイクル技術集成』を注文しておいた。
ついでだったので、
電気全般について
『電気工学ハンドブック』
機械全般について
『機械工学ハンドブック』
『基礎物理学』関係の教科書をどうしようかと思ったが、それは止めておいた。あの時代では、あまりに飛躍しており、そんなのが学会で発表されたらエライことになる。と思ったからだ。
結構な値段だったが、50銭銀貨を売った代金内で収めることができた。
ハンドブックで足りず、何か欲しい書籍があるようなら、巻末の書籍から要望を出してくれるだろう。
ついでだったので、資源地図をダウンロードして印刷しておいた。ただ、資源地図は大まかな地図だったのでもう少し詳しい地図をいずれ用意したいところだ。注文した書籍類は水曜日に届くようだったので、置き配指定しておいた。
翌日。(2027/2/15)
いつもより早く起き、朝の支度を終えて元気に会社に向かった。途中の北浦和公園ではちゃんとあの光る穴が見えていたが、やはり誰もその穴に見向きもしていない。俺の使命が終わるまでは少なくとも開いたままでいてもらいたい。おそらくだが、きっとそうなる。
順当に会社での仕事をこなし、水曜日(2027/2/17)。会社から帰ってきたらちゃんと書籍が置き配ボックスに届いていた。
段ボール箱に入っていた中身を確認して、土曜日用に荷造り中だったリュックの中身を一度空けて、下の方にハンドブック群を置いて、その上に小箱に入った電卓を置いた。
さらに、ペニシリン、ストレプトマイシンについて開発秘話のようなものをパソコンからダウンロードして印刷して用意した。温度管理技術、遠心分離機の開発、カビの培養法など。これで、かなり寄り道がなくなるだろう。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
山田幸太郎が通勤している間、理研の大河内所長は各所に根回しをしていた。
最初に、本人の了解は当然得ていないが、山田幸太郎の身分を理研の嘱託とし、社員証を作った。さらに仮住所も与えておいた。また、懇意にしている内務省に顔の利く政治家に話を通しているし、問題が起こったとしても、大事件になることはないだろう。
サルファ剤であるスルファニルアミドは二日で研究所内で合成し、引き続き抗菌作用の実験を行った。内容は黄色ブドウ球菌へ溶液滴下試験で、結果は良好だった。そのあと、幸太郎のもたらした資料通り、伝手をたどって白金台の伝染病研究所から入手した連鎖球菌に感染させたマウスに、スルファニルアミド溶液を投与したA群と投与しなかったB群との対比実験を行った。実験結果はまだ出ていないものの、A群はかなり元気に動き回っているが、B群ははっきり動きが鈍い。
さらに大河内は、下渋谷(港区白金)にある北里研究所の北里所長に面会し、アオカビと土壌菌の一種である放線菌の可能性について『計算機』を見せたあと話をした。
「にわかには信じられないような話ですが、その計算機を見せられた以上、信じるしかないでしょう。お国のためです。やってみましょう」
「そちらで必要な機材でうちで用意できるようなものがあれば、おっしゃってください」
「その時は遠慮なく」
「それと、染料の原料のスルファニルアミドにも、抗菌作用があるようなんです」
「それなら、そちらでよろしいのでは?」
「アオカビから抽出した抗菌物質の方が効果が高いうえに、余計な作用がないようなんです。結核については放線菌からの抽出物質しか効かないそうなんです」
「なるほど。そういうことですか」
「それで、スルファニルアミドについては星製薬に話を持っていき、製品化してもらおうと考えているんです。あそこはうちの出資者でもありますし、今大変な時期でもありますから」
「なるほど。アオカビからの抽出物質、放線菌からの抽出物質、これらについても製品化は星製薬さんですな」
「まだ先方に話を持って行っていない状況ですから確定ではありません。スルファニルアミドについては、当方でネズミを使った実験をしているんですが、効果はあるようです」
「分かりました。わたしの方もその心づもりで考えておきます」
「よろしくお願いします」
大河内は北里研究所からそのまま大崎町(品川区西五反田)の星製薬(注1)の本社に向かった。
そこでも、社長の星一にソーラー電卓を見せ、スルファニルアミド、サルファ剤の話をした。
「分かりました。わが社でも実験をして良好な成績が得られるようでしたら、社運をかけて商品化しましょう」
「その際、おたくとうちで資金を出し合って新会社を作りませんか? おたくは、製造設備を現物出資する。そしてうちは現金出資する。どうです? おたくが51パーセント。うちが49パーセントの出資比率」
「願ってもないことです」
「新会社名は『星未来薬品』でどうです」
「いい名ですね」
「そうでしょう」
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
そして、約束の土曜日(2027/2/20)。向うでは大正15年2月20日のはずだ。
リュックの中身を確かめて、北浦和公園まで歩いていき、そこで例の穴をくぐった。
穴の向こうの空は良く晴れていたが、結構寒い。
先週同様、街並みというか田畑を眺めながら県庁通りから表通りを歩いていき浦和駅に到着した。そこで16銭を払って駒込までの切符を買い、リュックを前に抱えて、やってきた上野行の汽車に乗り込んだ。
赤羽、池袋経由で駒込まで1時間ほどで到着し、そこから理研の正門前までやってきたら、正門前に幸田さんが立っていた。
「おはようございます」
「おはようございます。お待ちしていました。どうぞ。あっ、荷物をお持ちしましょう」
「大丈夫です」
そういったやり取りをして、先週と同じように所長室に案内された。
「おはようございます」
「おはようございます。椅子に腰かけてください」
リュックを下ろしてコートを手に持ち、勧められるまま腰を下ろした。
向かいに大河内所長が座ったところで、最初に用意した、ペニシリンとストレプトマイシンに関する書類を、床に置いたリュックの中から取り出して手渡した。
「ここに書いてありますが、強力なアオカビの株の発見と培養、そして有効成分の大量抽出に苦労したようです。放線菌についても地道に当たっていくしかないようです」
「これは参考になります。それで、わたしの方でも北里研究所の北里先生に話を通しておきました。先方でも研究してくれることになりました」
「それはよかったです」
「それと、星製薬の星社長にスルファニルアミドの話をしてきました。星製薬でも取り組んでくれることになりました」
「さすがです」
「あと、もう一点。山田さんの身分ですが、この日本に戸籍は当然ないでしょうから、この研究所の嘱託身分として、仮の住所を作っておきました。
幸田君」
「これが社員証と住所になります」そう言って、幸田さんが書類と厚紙で出来た証明書を渡してくれた。
「今日は20日の給料日ですから山田さんにも嘱託の給料が支払われます。後ほど案内しますが、山田さんの場合、今月以降はちょうど20日ここに来られるとは限りませんから、20日以降になったら経理の窓口でもらってください」
「ありがとうございます」
受け取った書類をいったん上着のポケットに入れて、それから小箱に入った電卓をリュックの中から取り出して説明した。
「2種類の計算機を持ってきました。こちらですが三角関数、常用対数、自然対数などが組み込まれています。これが15個。そして、こちらのやや大きい計算機ですが、同じように関数が組み込まれているうえに、手順を決められた方法で記録させることができ、それを自動で繰り返すことができます。使い方は難しいかもしれませんが、箱の中に本体と一緒に説明書が入っていると思います。これが全部で5個です」
それから、プログラム集をリュックから取り出した。
「その手順なんですが、二次方程式の解とか標準的な手順は計算機の中に内蔵されていますが、必要に応じて自分で作って計算機に覚えさせることも可能です。
それでこの本ですが、計算機に内蔵されてはいないものの、よく使う手順が書かれているので、ここに書かれた手順通り計算機に覚え込ませれば、それが使えるようになります。この手順のことをプログラムと呼んでいるんですが、かなり複雑なプログラムも覚えさせることができます」
向かいに座った大河内所長は半ば呆れたような顔をして俺の顔と電卓の入った箱を見比べていた。
「まあ、とにかく簡単なものから試していけば何とかなるでしょう。とにかく慣れですから。それにこの研究所には日本を代表する頭脳が集まっているわけですし」
「確かに。わたしが悩む必要はなかったな」
「それで、最後になりますが、各種の技術を集めた便覧になります」
そう言って、どっしり重いハンドブックをテーブルの空いたところに置いた。
「若干内容が古く西暦2010年くらいから2020年くらいまでの技術が載っていると思います。
そういえば、言い忘れていましたが、わたしの時代の漢字はこの時代の漢字から見て、全般的に簡素化されているんですが、偏などはほとんど同じですし、文脈などから間違えることはないと思います」
『化学便覧』を手に取った大河内所長がそれを拡げ、そこでも驚いていた。
俺のやれることは種を蒔くことだけだが、いい線蒔けたんじゃないだろうか?
「それと、これが資源地図になります。そこまで正確ではありませんが参考になると思います」
「助かるよ」
「あとは、お任せできそうですね?」
「君は何を言っているんだね? 君が中心になるに決まっているだろう? とはいっても何も技術的なことを言っているんじゃない。ただ未来から来た君の目でいろいろ気づくことがあると思うんだ。そういった時、声を上げてもらいたい。それが嘱託としての君の仕事というわけだ」
「分かりました。週に1日くらいしか出勤できませんがよろしくお願いします」
「こちらこそ、よろしく。そうそう、前回の金でこれらが買えたのかね?」
「はい。なんとか足が出ることもなく買えました」
「それはよかった。これだけのものが100円とは信じられない。先般うちで導入した手回し計算機は、1台が200円するんだよ。それは過ぎたことだけど、うちの研究員にいきわたるようこの計算機を購入してもらいたいのだが、対価となるものがないんだよ」
「研究員の方は何人ぐらいいらっしゃるんですか?」
「主要な研究員は150人ほどになる」
「なるほど。分かりました。あと150個、計算機を何とかしましょう」
「150台もの計算機が君の貯金で何とかなるものなのかね?」
「今日お持ちした低機能の計算機は1個3000円程度でしたので、150個で45万円ですから、わたしの貯金で何とかできます」
「そうかね。とにかく何か向こうの世界で売れそうなものを考えておくのでそれまで借りということでよろしく頼む」
「はい」
50銭銀貨をこれ以上持ち込むのはちょっとおかしいから、俺の方でも何か考えておこう。
「そうだ! 少し高いものになりますが、スイスからの輸入時計はわたしの時代でも高価になります。それが100年前のモデルの上に新品となるといくらの値が付くか分からないほどです」
「なるほど。さっそく用意させよう。幸田君、よろしく頼む」
「費目は、予備費でよろしいでしょうか?」
「今期はそれでいいだろう。来期は新しい費目として特別技術開発費を設けようじゃないか」
「分かりました」
「それでは、わたしはこの辺で失礼します」
「もう帰るのかい?」
「計算機の数があるので、少し早めに動こうと思っています」
「了解した」
「わたしのところでは今月の23日が祝日なので、23日にこちらに来られます。その時、手に入った分だけでも計算機をお持ちします」そう言って、席を立った。
「3日後なら、その時、時計を渡せると思うから」
「了解しました。23日までに150個計算機を揃えられるか分かりませんが、出来るだけ集めてみます」
「よろしく頼む」
「それじゃあ、山田さん。経理にお連れします」
空になったリュックとハーフコートを手に持って、幸田さんの後について建物の中を歩いていき、階段で2階に上がってすぐそばの窓口の女性に幸田さんが声をかけた。
「この前話した嘱託で働いてもらう山田幸太郎さんだ。今月の給料を渡してくれるかい」
「はい。山田幸太郎さんですね、少々お待ちください」
女性が立ち上がって、奥に移動してすぐに戻ってきた。
「どうぞ」
そう言って給料袋を渡された。渡された給料袋は厚くはなかった。表にはご丁寧に嘱託職員『山田幸太郎』とゴム印が押されていた。
注1:星製薬
1925年に発覚した「台湾阿片事件」により、星製薬の社長星一は1925年(大正14年)10月24日、台北地方法院(地方裁判所)検察局により在宅起訴されている。この「起訴」という事実が、それまで飛ぶ鳥を落とす勢いだった星製薬の信用を根底から崩し、銀行の融資打ち切りなどを通じて、1926年現在、深刻な経営危機に陥っています。
当時の理研の給料日が20日だったかどうかは調べていませんのであしからず。




