第4話 大正15年2月、4
こちらは理研の所長室。(1926/2/13)
大河内所長は、山田幸太郎が置いていった年表と論文の束を机の引き出しにしまって鍵をかけ、電話で秘書の幸田を部屋に呼んだ。
大河内は山田が置いていったソーラー電卓を手にしてソファーに座り、やって来た幸田を向かいに座らせ、先ほどまでいた未来からやって来たという男の話を始めた。
「幸田君。さっきの話をどう思う?」
「とてもではありませんが、信じられないような話です。しかし、所長が持っていらっしゃるその計算機がある以上、信じるほかないでしょう」
「なんといってもわが国が15年先に欧米と戦争を始めるというところが驚きだ。アメリカと戦争? わが国の輸出入の一番の相手国と戦争とはな。明治以降清国、ロシアと戦い勝利したからといっても、そこまで無茶はできないだろう。本当にそんなことすれば国が滅ぶのは誰だってわかるだろうに」
「しかし、山田さんが嘘をつく必要はありませんし」
「そうなんだよなー。戦争に負けた割に日本が繁栄しているようだっただろ?」
「そうですね。どうなっているんでしょうか?」
「さあな。その辺は、分からないでもいいんじゃないか? われわれは戦争が起こったとしても負けないつもりで出来ることをやっていこうじゃないか」
「そうですね」
大河内はソーラー電卓のボタンを押しながら、
「電気部品をつなげて計算の真似事ができるという論文を読んだこともないのだが(注1)、いったいどうなっているのだろうな? この小さな箱の中に真空管と同じ働きの部品が入っているという話だったが、全く見当がつかない。文字が電光以外ではっきり映っているところも謎だな」
「分解してみてはどうでしょう?」
「分解すると言っても、どこをどうすれば分解できるかも分からないぞ。さっきから見ているんだが、つなぎ目はあるようだが、ネジを使っていない」
「まさか切ってみるわけにもいかないでしょうし」
「彼がやってきたら、新しいことが分かるだろうということで、この計算機については深く考えないようにしよう」
「遊ばせておくのはもったいないのではないでしょうか?」
「それはそうだが、公にもしにくいし、秘密にしなければならないから、結構大変ではあるぞ。時間旅行の件もあるから、あとで長岡先生にだけは相談してみようじゃないか」
「長岡先生に連絡しておきます。計算機の件ですが、山田さんが来週計算機を持ってきてくれれば複数の計算機が手に入るわけですから、その時、他の先生方にも公表する必要がありますね」
「それはそうだな」
「どれくらい用意してもらえるか分かりませんが、取り合いになりそうですね」
「そうだな。その時はまた金を渡して買ってきてもらえばいいだろう。そういう意味では100年後の日本で価値のあるものを渡したほうがいいだろうな」
「おそらく、100年後であれ金はそれなりの価値があると思いますが、今は金を買えませんから」
「そうだなー。何かいい手があればいいが、見当もつかないな。君も考えておいてくれたまえ」
「はい。そういえば山田さんは、この世界の住人じゃありませんから、戸籍もありませんよね」
「そうだな。若干見慣れない格好だったから警官に呼び止められたりするかもしれない。そうすると厄介なことになりかねない。そのあたり、何とかしないとな。一応、内務省に顔が利く知り合いの議員に話をしておくよ」
「その方がいいと思います。彼を失うことは、この研究所だけでなく、日本にとって大きな損失ですから」
「そうだな。技術資料なども持ってきてくれるという話だし、科学技術的なことはおいおい進めていけるだろうが、満州の油田には驚いたな」
「そうですね。本当に見つかったら、大発見でしょう」
「満州開発は満鉄の領分だし、満鉄なら資金も潤沢だ。満鉄の安広総裁が東京にいらっしゃるなら伝えておこう。この計算機を見せれば信じざるを得ないだろうしな。うちからは技術者を満鉄に派遣しよう。それで油田が見つかったら、礼の一つくらい貰えるだろう」
「抗菌薬、それと結核の治療薬はいかがします?」
「アオカビと土壌菌を原料とした抗菌薬は難しそうだが、もう一つの抗菌薬は染料の原料だそうだし、うちの化学の連中は医薬品関係も扱っているから、話を持っていけばすぐに合成してネズミでの実験くらいできるだろう。薬となるとうち単独での商品化は荷が重いから、ネズミで効果があることが判ったら、医薬品会社と合弁で事業を進めていくってところだな。星製薬に話を持って行ってみるか」
「今経営が苦しいあそこがうちの提案を受け入れてくれるでしょうか?」
「苦しいからこそじゃないかね。しかも星製薬はここの出資者でもある」
「そうでした」
「あそこなら信用できるしな。えーと、抗生物質だったかな、あの二つについては北里研究所に話を持っていったらどうだろう?」
「あそこが受け入れてくれるでしょうか?」
「事の次第を北里先生につまびらかに話せば分かってもらえるんじゃないか? あそこなら『できる』。北里研究所で必要とする機材はうちで作ればいいしな」
「確かにそうですね」
「そして、試験がうまくいけば、星製薬で製品化だ。わたしもこれから忙しくなりそうだ。幸田君も頑張ってくれたまえよ」
「もちろんです。それでは、長岡先生にこちらにいらっしゃるよう連絡してきます」
「もし、先生がおられないなら、仁科君でもいいが、彼は留学中だったな」
「それじゃあ、どうしましょう?」
「そうだな。それなら、長岡先生が戻られたらでいい」
「それでは」
一度部屋を出た幸田がすぐに戻ってきた。
「長岡先生は、すぐにいらっしゃるそうです」
20分ほどして、昨年東京帝国大学を定年退職し、現在理化学研究所の物理学部長を務める長岡半太郎が所長室にやってきた。
「長岡先生、お忙しいところ申し訳ありません」
「いやいや。それでどういったご用件でしょう。幸田君は何も言っていなかったもので」
「どうぞ、お座りください」
長岡が座った向かいにテーブルを挟んで大河内が座った。
「先生、これを見ていただけますか?」
そう言って大河内は長岡にソーラー電卓を手渡した。
「これは?」
「ある男が持ち込んだものです。今は表示が零になっています」
「零と言われれば零ですな」
「それで、表に並んだ数字を順に押していくと、その数字が表示されます。やってみてください」
長岡は言われた通りボタンを押していった。
「ほんとだ! この表示は?」
「わたしにも分かりません。そこはおいておいて、数字の他に四則の記号がありますでしょう。『AC』を押すと数字が零に戻りますから、そのあと好きな記号を押して、また数字を押してみてください。そして最後に等号ボタンを押してみてください」
「ややっ! これは計算機ではないですか!」
「そうなんです。原理は全く分かりません。持ち込んだ男の話ですと、その上に見える黒い部分で光を受けて、その光を電気に変えているそうです」
「うーん。見当もつかない。この記号は平方根?」
「数字を入れた後にそのボタンを押すと平方根が出てきます」
「本当だ! その男は一体どこの誰なのかね?」
「本人いわく。今から100年後の日本からやってきたとのことでした」
「にわかには信じられないが、この計算機を見せられた後なら、100年が正確かどうかは別として信じないわけにはいかないか」
「先生もそう思われますか。ただ、その男が言うには、時間を遡った場合、自分が自分の祖先を殺すことができるわけです」
「可能ではありますね」
「そうした場合、自分は生まれてないですよね?」
「確かに。つまり、時間を遡ることは不可能ということですか?」
「本人が言うには、自分が時間を遡ったことによって、自分が本来いた世界から、時間を遡った時点で新たな世界が生まれたのではないか? とのことでした。確かにそれならば矛盾は起きませんが、そんなことが起こりえるのでしょうか?」
「わたしでは何とも。世界が二つに分かれたということは、時間が二つの方向に分かれたということと同じなのでしょう。現代の物理学では時間は正方向に進む。という原則の上に成り立っていますが、二つに枝分かれするかどうかは分かっていません」
「なるほど。先生ですからお話しますが、その男は100年先の日本から来たわけですから、わたしたちの今から100年のうちに起こることを彼は知っているわけです」
「その男が本当に100年後からやって来たのならそうなるでしょう」
そこで大河内は立ち上がって自分の机まで行き、引き出しのカギを開けて山田が持ち込んだ年表を取り出して、戻ってきてソファーに座った。
「これが、その男が持ち込んだ、100年間の年表です」
長岡は差し出された年表を手に取って、目で追った。
「今から20年後に広島と長崎が原子爆弾で焼かれて日本は戦争に負けた? 原子爆弾? 理論上、原子核には莫大なエネルギーがあることは理解できるが、それを一気に取り出す実用的な手段をアメリカは発見し、それを爆弾としたわけか」
「その辺のことは彼は話していませんでしたが、彼はそういった日本の敗戦を回避したいため、現代にやって来たといっていました」
「なるほど。しかし、この未来の計算機一つで、日本の将来が変わるわけではないでしょう?」
「それで、最終的にはトランジスターなるものを製造しないか、ということを彼が言っていました。それがあれば、欧米の物量に対抗できるとか」
そこまで言って大河内は再度机に戻って、山田が手渡したトランジスター関連の論文などを持って、それを長岡に手渡した。
長岡はその論文を手にして、目を走らせた。
……
「なるほど。2種類の不良導体、この論文ではsemi-conductorと言ってるが、これを貼り合わせると片側からしか電流が流れない素子が作れるわけか。それを互い違いに三つ重ねることで真空管に代わる画期的な部品になりえるか。ただ、それを作るには高純度のゲルマニウム、ないしケイ素が必要。それを作るための周辺技術開発も必須というわけだね。
酸化ケイ素の還元は難しそうだが、ゲルマニウムは融点も比較的低いから扱いやすいだろう。しかし、ゲルマニウムとなると? そうか、亜鉛精錬の煙灰に含まれてるはずだ。それを譲ってもらってみればいいだろう。しかし、夢がある話ですな」
「はい。夢もありますが、資金も必要ということになります」
「20年後の技術を先取りしようというんだ。安いものではないですか?」
「そうですね。それで、その男も、その辺を勘案していろいろ提案してくれているんです」
「ほう。今の技術で何かできるということですね?」
「はい。まず一つは、満州に大油田が眠っているとのことでした」
「なんと!」
「そして、今染料の原料として化学合成されている物質が、そのまま抗菌薬になるようです」
「それはまた」
「そういうことですので、資金繰りは何とかできそうです。先生の研究室ではトランジスター製造の基礎研究をお願いしたいと思っています」
「任せてください。ある程度の時間はかかるでしょうがやり遂げてみせます」
「よろしくお願いします。それと、先生ですからお教えしますが、その男が来週の土曜にやってくることになっています。その時、この計算機よりももっと高度な計算機を持ってきてくれることになっています。三角関数も対数もこなせるそうです」
「なんと! 大いに期待できる。そうなるとここで雇っている計算手たちは職を失うことになりませんか?」
「計算機の数がそろえばそうなるでしょう。まあ、うちでの実績があれば再就職は容易でしょうし、所内でも研究助手として使えるでしょう」
「確かにそうですな」
注1:
フリップフロップの起源は、1918年に英国の物理学者ウィリアム・エックルス(William Eccles)およびF.W.ジョーダン(F.W. Jordan)によって考案された双安定回路に遡る。
その後、1937年に現代情報理論の先駆者であるクロード・シャノン(Claude Shannon)が、修士論文においてスイッチング回路による論理演算の可能性を数学的に証明し、回路設計における論理的指針を確立した。
同1937年、ベル研究所のジョージ・スティビッツ(George Stibitz)は、リレーとフリップフロップの原理を応用した二進法加算器『Model K』を試作。これにより、電気回路を用いた算術演算の実装可能性が実証され、デジタル計算機開発への道が拓かれることとなった。




