第54話 昭和5年2~4月
2月に入り、真空チャンバー内での高温作業が増えたようで、非接触型温度計の需要が伸びた。ある程度の値段で、軽いものは「仕事」という意味で助かる。
チタン酸バリウムの焼成にも、温度計は活躍したようだ。早くも2月中旬にチタン酸バリウム製のピエゾ素子が出来上がった。
そして、理研工作部ではいよいよスピーカー、マイク用の部品化に進んでいった。
ものが形になれば、理化学興業に業務を移管して販売することになる。そして規模が大きくなればダイオードなどの部品製造部門と統合して分社化するのだろう。トランジスターについても完成して商品化できれば同じ流れのはずだ。東京通信工業株式会社がこの世界では生まれないかもしれない。となると、あのゲーム機械も生まれず、あのゲームがセがつくあの会社のサが付くゲーム機械で発売されて、セがつくあの会社が日本のゲーム業界の覇権を握るわけか。そうすると姿三四郎が泣いて喜ぶわけだ。
セラミックコンデンサについては、1月中に資料を揃えて大河内所長に説明しており、そちら方向の研究も始まっている。現代の数百層もある超微細なMLCC(積層セラミックコンデンサ)は無理だろうが、数回折りたたんだだけでも、現行の電解コンデンサや紙コンデンサに比べれば高性能かつ堅牢なコンデンサになるはずだ。
理化学興業で生産しているダイオードの生産数量が1日あたり5000個を超えてきたそうだ。採算ラインはどの程度か聞いていないが、そろそろ採算が取れる水準ではなかろうか? さすがにまだ無理か?
これからが本番だ。トランジスターについても、現状のダイオードと同じように顕微鏡を見ながら電極を融着させるのなら製造可能だそうだが、その方法は取らず、自動化を進めるという。
実際問題、真空管で用が足りている現状だとトランジスターのありがたみは少ないので、そういった判断は妥当なのだろう。いつの時代もハイエンドを求めるのは軍事関係だ。軍のニーズに合致した時が勝負のはずだ。いや、いま技術のトップを走っているのは理研だ。ニーズを掘り起こすのも理研の仕事だ。
理研航空機では模型を何種類か製造している。所沢工場が完成し風洞が使えるようになれば、風洞実験を繰り返し、初号機の機体形状を決定することになる。そこでの知見がまたCADでの設計にフィードバックされて、設計スピードが上がる。
それと並行してニッケルクロムモリブデン鋼製のシリンダー、クランクシャフト等で改造したジュピターエンジンを数基製造して、シリンダー径やピストン長の調節を行っていた。そういった作業を進めていくことで、航空機エンジンに対するノウハウも貯まってきている。
大阪工廠では、複合装甲板を使用し、世界初となるジーゼルエンジン搭載戦車の設計を昨年10月に終了しており、先日1号車が完成した。現在各種の試験を行っている。ただサスペンションはトーションサスではなく従来と同じリーフスプリング式サスペンションだったこともあり、2号車以降はトーションサスに変更する予定で、制式化すれば八九式軽戦車乙と命名される予定だ。
八九式軽戦車乙
全備重量:9.6トン
全長:4.53メートル
全幅:2.28メートル
全高:2.55メートル
主砲:試製五十七粍(57ミリ)戦車砲(長砲身)×1
副武装:6.5ミリ機関銃×2(前方・銃塔後部)
最高速度:時速35キロメートル
装甲厚:12~32ミリ:理研複合装甲板
エンジンの諸元
形式: ダイムラー空冷直列6気筒ジーゼル
最大出力: 130馬力 / 毎分1800〜2000回転
定格出力: 110〜125馬力
総排気量: 約14300シーシー
懸架方式:ねじり棒ばね(トーション)式
エンジンはドイツから輸入したものだが、国産されれば切り替える予定で、陸軍造兵廠から三菱に空冷ジーゼルエンジンの開発を打診中である。ちなみに、陸軍は空冷ジーゼルエンジンが大好きだったようで史実は基本的にこれ一本で突き進んでいったが、戦車の大型化の波について行けず、結局水冷や航空機エンジンにまで手を伸ばすようになった。そういう意味で、水冷ジーゼルエンジンを理研でものにしておくのも手かもしれない。
なお、12ミリ複合装甲板は2ミリのニッケルクロムモリブデン鋼板の裏側に、竹繊維をニトリルゴムを添加したフェノール樹脂に浸潤させて固めた10ミリ板の2層構造で理研甲型複合装甲板と呼称し、32ミリ複合装甲板は理研甲型複合装甲板の裏に10ミリのクロムモリブデン鋼板、そしてその裏側に同じく竹繊維をニトリルゴムを添加したフェノール樹脂に浸潤させて固めた10ミリ板を重ねた4層構造で理研乙型複合装甲板と呼称している。現場のニーズによって複合装甲板を重ねていくことで、倍々と防御力が高まる。
3月に入り、理研建機に対して陸軍造兵廠から均土車40台が発注され、さらに、75ミリ砲を搭載し、自走する車両の設計が発注された。砲の諸元等ももちろん添付されている。陸軍造兵廠からの指定は、油圧式の開脚により砲の反動を抑えることと、ねじり棒ばね式懸架の無限軌道式とし時速10キロ以上で不整地を60キロ以上連続走行すること、整地の場合時速20キロ以上で150キロ連続走行すること。使用するエンジンは均土車と同じスミダ(石川島自動車)「A型エンジン」クラス相当とすること。などだった。
理研建機ではすでに均土車の車台を流用した『自走砲』の大まかな設計は終わっており、砲の大きさ、重量、その他を調整するだけで、CAD上で設計は簡単に終了する。
造兵廠から装甲等の指定はなかったため、砲の前面と側面に理研甲型複合装甲板(12ミリ)を『嵌めた』防盾を配している。また後方に配された弾庫の側面にも理研甲型複合装甲板をはめている。
朝鮮(北朝鮮)と満州(中国吉林省)の国境を流れる鴨緑江での水力開発が始まった。のちの水豊ダム(注1)は水豊発電所の堰堤(注2)という扱いになる。すでに、理研建機から数十台の均土車が現地で作業を開始しているそうだ。理研建機では土木建設会社の意向に沿う形で、現在の均土車を大型化した均土車を開発中とのことだった。内容的には大型化に伴う重量増加と、冗長性を持たせるため、現行の均土車に搭載している水冷6気筒ジーゼルエンジンを2基搭載するすることで出力を上げるということだった。
理研で核の研究を任されていた仁科は、この水力開発に目を付けた。水力発電所の近くに重水採集用の遠心分離工場を建てれば安定的に電力供給が得られる。仁科はさっそく大河内所長のもとに赴いて、その考えを伝えた。
「了解した。わたしの方から各方面に話をしておくから安心したまえ」
「よろしくお願いします」
仁科は発電所ができればすぐにでも工場が稼働できるよう工場建設の準備を始めた。
大河内の方でも満州のウラン開発について満鉄に申し入れており、理研の示した位置に満鉄の調査隊が赴いてウラン鉱床の位置を確認している。満州内でも複数箇所確認したが、最も有望な鉱床は北朝鮮に存在していた。北朝鮮なら満州と違って完全に国内資源であるため、開発は政治的に容易である。
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3月の終わりごろ、上野公園に花見に行き、上野のお高い焼き肉屋に行った。
最初に生ビールを頼んで乾杯。そしてつまみとして頼んだセンマイをつつきながら。
「鶴ちゃん、男女が二人で焼き肉屋に入るって、そういう関係だって知ってた?」
「そうなんですか? わたし、学生の時、何度か男友達と二人で焼き肉屋に行きましたが、そんなことありませんでしたよ」
「そ、そうなの?」
「はい」
「堀口さん、経験あるんですか?」
「け、経験? な、ないわよ。そんなのあるわけないわよ」
「そうなんだ」
「そうなの」
「まあ、まあ。男がいる前で、そういった卑猥な話はしないほうがいいぞ」
「社長、済みません」
「俺は気にしないけどな。堀口は困っていたから助けただけだ」
「先輩、優しい」
「俺はもとより優しい男だ。鶴井が入ってから堀口はずいぶんおとなしくなったが、こいつは何時も俺にセクハラしてたんだからな」
「えっ! そうなんですか!?」
「そうなんだよ」
「先輩!」
「鶴井。今のは冗談だから、忘れてくれ。アッハッハ。堀口、ここのセンマイおいしいよな」
「もういいです!」
そのあたりで、肉がやって来たので、どんどん網に載せていった。
「焼けたらどんどん食べて、どんどんのっけてくれよ」
「「はい」」
「そういえば先輩」
「なに?」
「理研にいろんなもの持ち込んでるわけですが、とくに電卓ってオーバーテクノロジーじゃないですか?」
「それはそうだけど、ノートパソコンも大概だぞ」
「そうなんですけど、電卓って理研の研究職は基本的に一人一個持ってますよね?」
「そうだと思う」
「それなのに、世間で全く噂になっていないことが、ちょっと不思議じゃありませんか?」
「その関係については、確かに俺も不思議に思っていたんだが、今ではそういうものだと思っている。あの穴ができてから、不都合なことが起こってないんだよ。穴と同じ超常的な力が働いていると勝手に思っている」
「ふーん」
「そういえば社長。以前、社長が穴を抜けたことであの世界が新しく生まれたようなこと言ってませんでした?」
「言ってた」
「つまり、社長は、あの世界の創造主ってことじゃないですか?」
「いや、俺が原因だったとしても、創造主ってことはないだろ」
「一神教では宇宙の絶対的第一原因を『神』ないし『創造主』と呼んでいます」
「聞いたことがあるような」
「つまり、社長はあの世界にとっては『神』なんです。世の中が自分の都合いいように回っていくのが必然。と考えるのはどうでしょう?」
「鶴ちゃん。なんだか宗教家みたいで凄い説得力ある」
「わたしが宗教家ですか?」
「そう。そうじゃなければ、いかがセールスマン」
「『いかが』って?」
「いかがわしい?」
「堀口。そこで疑問形なら、最初から言うなよ」
「てへ」
そろそろ堀口は三十路のはずなんだが、『てへ』はきついぞ。言わないけど。
それから、カルビを主力として、ロース、レバー、タン、ミノ、シロで腹いっぱいになるまで焼き肉を堪能した。クッパも好きなんだが、この日もお腹いっぱいで食べられなかった。
4月に入り、理研では事業拡大を見込んで今年も大量の新人を採用した。理研は日本での理系の最高峰という評価だし、将来性抜群だ。つまり理系ならば誰もが就職を希望するような場所だから当然と言えば当然。
人員増に伴って、関数電卓などを追加で持ち込んだ。理研の敷地は1万2千坪(注3)近くあってかなり広かったのだが、ここのところ増築工事や新築工事が多く、空き地もだいぶ少なくなってきた。将来的には、もう少し広い敷地に移転するかもしれない。武蔵野には土地がいくらでもある時代なので(注3)、いつでも移転は可能だろうが、理研では東大の先生方も大勢嘱託で働いているから、移転は難しいかもしれない。
理研建機では、3月中には75ミリ砲搭載自走砲の車台の設計は終わっていたが、あまり短時間で回答してしまうと、造兵廠側が不審に思うかもしれないとの配慮から、4月中旬に設計図を造兵廠に提出した。造兵廠では直ちに図面審査に入り、修正指示なしで、75ミリ砲搭載自走砲の車台の試作を命じた。もちろん、理研建機で75ミリ砲を扱うことはできないので、車台部分を製作した段階で納入し、その後の車台への砲の架装等は大阪工廠で行われる。
YHT貿易では「法人」としての確定申告の準備に入った。要は税理士に頼んで書類を作ってもらい、それを税務署や都道府県税事務所、市役所に提出するだけだ。購入したものと、売却したものが全く異なるのに在庫がほぼゼロということで、税理士さんは不思議な顔をしていたが、伝票そのものに不備はないので、それでどうにかなった。このあたりも、神の見えざる手が働いているのかもしれない。さらに言えば、5パーセントルールを適用して、仕入れ値を売値の5パーセントとすることができた。そっちは儲けだが、年末の堀口と鶴井へのボーナスについては、役員報酬を年度内に増額できないそうで、経費で落とせず、有税となってしまった。
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ロンドン軍縮会議は4月15日に軍縮条約が締結され閉会した。これは史実より一週間早い閉会である。
会議の結果、補助艦保有比率は、英:米:日=1:1:0.67となった。
国内では対米7割が達成できなかったことを、野党などは批判したが、この条約内容はおおむね冷静に受け止められた。
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難航していたニューカレドニアでのニッケル鉱山用インフラ、特に露天掘り採掘場から鉱石を港まで搬出するための道路が完成し、ニッケル鉱石の採掘が始まった。インフラ工事の終盤から理研建機の均土車が投入されたが、現在は採掘作業に利用されている。
これにより日本へのニッケルの供給量が安定化することになる。もちろんニューカレドニアを領有するフランスとの関係が悪化した場合はこの限りではない。当時日本はフランス(ヴィシー政権)との協定に基づき形式上の友好関係を維持しており、公式な戦争状態になかったにもかかわらず、現地の日本人労働者たちは檻に入れられてオーストラリアの強制収容所へと送られ、現地財産はすべてフランス側に没収された。フランス政府は現在もなお、この国際法違反の措置に対して謝罪と賠償を一切行っていない。
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なぜか日本国内で大きく報じられたニュースとして、ガンディーの「塩の行進」があげられる。行進が始まる直前から、「死を怖るる者は順礼に出よ」といった扇情的というか「反語的」な見出しで、ガンディーが塩の専売制に抗議するために準備を進める様子を朝日新聞は夕刊の1面などで大きく報じていたようだ。行進中の動向も 3月12日の出発から4月6日の海岸到着まで、彼の一挙手一投足や、それに対するイギリス植民地政府の反応(逮捕の可能性や声明など)を継続的に記事にしている。背景として、当時の日本は、アジアにおける民族自決運動や、大英帝国の植民地支配の行方に対して強い関心を持っていたため、インドの情勢は国民にとっても注目のトピックだったようだ。大東亜戦争は単なる侵略戦争だったと見る向きもあるが、国民の意識の中に、アジア同胞に対する『特殊』な感情があったことは否定できないだろう。八紘一宇の『宇』とは屋根=家族のことだ。日本はアジアでただ一つの近代独立国家=家長としての責任を感じてたんじゃないか? そうじゃなければ、インドネシアの独立戦争に残留日本兵が何千人も参加するはずない。
注1:水豊ダム
朝鮮(北朝鮮)と満州(中国吉林省)の国境を流れる鴨緑江に、日本統治時代に建設された(1937年着工、1941年(昭和16年)8月にダムの堤体が完成。発電設備が1944年まで増強される)。当時としては世界最大級の重力式コンクリートダム。なお1937年着工だったのは、満州国(関東軍)と朝鮮総督府の利権の調整が難航したためだと言われている。
注2:堰堤
現在の「15メートル以上がダム、未満は堰(堰堤)」という明確なルールは、1964年(昭和39年)に制定された「新河川法」によるものです。戦前においては、現在の「15メートル以上がダム」というような数値による明確な法律上の区分はなく、「堰堤」という言葉が主要な用語として使われていました。
注3:
1933年(昭和8年)以前
三菱財閥の岩崎家から、隣接する土地2,912.64坪(9,628.6平方メートル)が寄贈され、合計面積が1万4901坪(49,173.3平方メートル)に拡大
注4:
戦後、理研は経営再建や組織改編を経て、1960年代後半から埼玉県和光市(約7万坪)へと拠点を移転。「理研では東大の先生方も大勢嘱託で働いているから、移動は難しいかもしれない」実際はこの逆で、駒込の土地を売って、その代金で広大な土地と資金を得ることができるということで、スムーズに移転できたそうです。




