第51話 昭和5年1月
年が明けて、昭和5年1月6日(1930/1/6、皇紀2590年)。
こちらは淀川河川敷にある陸軍城北射場。城北射場では主に弾薬の試験と口径75ミリ以下の小・中口径の火砲の試験が行われる。ちなみに、信太山演習場、 現在の和泉市にある陸軍の演習場では口径100ミリから150ミリまでの砲の試験や訓練を行い、青野ヶ原演習場・砲兵射撃場(現在の小野市・加西市・加東市付近)では200ミリ以上の重砲の試験を行っていた。
今日は快晴の空の下、城北射場で新式野砲の試験が行われている。この野砲の砲身は、ニッケルクロムモリブデン鋼製で、ライフリングされた砲腔は窒化チタン蒸着が施された次世代の砲である。この試験が終了し次第、陸軍での制式化がすでに決定されている。名称は九〇式野砲となる予定だ。砲架に取り付けられた2輪のタイヤはリケン66繊維で強化されたスチレンブタジエンゴム製である。砲身の削り出しは大阪工廠で行っているが、その工具は理研製だし、砲腔への窒化チタン蒸着は理研精密で行なっている。もちろんタイヤは理研合成製だ。つまり、理研の製品の塊のような野砲である。
吹き流しが垂れ下がったところを見極めた検査官の合図で旗が振られ、工廠専属の砲手たちによって砲弾が装填され発射された。
バンッ!
乾いた音が響き、3名の観測手が一斉にストップウォッチを押した。
従来の野砲の発射音と比べ、明らかに高音の発射音を伴って砲弾が発射され、閃光がはるかかなたで走った瞬間、観測手は再度ストップウォッチを押した。そしてその閃光からだいぶ遅れて爆発音が轟いてきた。これから発射を繰り返して仰角と発射から着弾までの時間、そして飛翔距離などから、射表(弾道諸元表)を作っていくことになる。また、逆に初速なども計算することになる。発射試験が終了すれば、最後に砲腔内の汚れを確認し、摩耗などを計測する。
砲架を元の位置に正確に戻してから、砲の仰角を調整して準備完了。検査官の合図で旗が振られ、工廠専属の砲手たちによって砲弾が装填され点火された。
バンッ!
これからしばらく、新式野砲の発射音と着弾音が淀川周辺に轟くことになる。
制式名称:九〇式野砲
重量 1400キログラム
砲身重量350キログラム
口径75ミリ
砲身長3488ミリ(46.5口径)
砲口初速 毎秒800メートル
最大射程1万7000メートル
高低射界度-8度〜+43度
方向射角度左右25度
新式野砲の試験のあった翌日。1月7日の淀川の河川敷、城北射場。
この日は、理研建機から持ち込まれた均土車の走行試験が城北射場で行われていた。独特のねじり棒ばね(トーションバー)による懸架は無限軌道を吸い付くように地面に接地させ、デコボコの河川敷を均土車は移動していく。
均土車の動きを見守るのは理研建機の担当者の他、大阪工廠の試験官たちだけでなく、三宅坂の参謀本部第3部から派遣された兵站担当参謀が試験を見守っている。そして見学者の中に陸軍大学校付として留学中の張学良と彼の側近たちの姿もあった。張学良は金色に輝く刀身の軍刀を黒塗りの鞘に納めて腰に佩いていたが、その軍刀は日本政府から贈られた品である。
走行試験が一通り終わり、大阪工廠内の会議室で検査官たちによる講評が行われた。
「驚くべき安定性でしたな。無限軌道が地面をかみしめるような走行は見事なものでした」
「これからの懸架は無限軌道に限らず捩じり棒ばねが主流になりそうですな」
「今日の走行試験を見た以上、そうならざるを得ないでしょう」
「明日の排土作業試験を見る必要がありますが、飛行場の急速設営には絶大な効果を発揮できそうですな」
「戦車で押し出していき、適宜飛行場を作っていく。戦場の上空には常にわが軍の航空機が舞っている。戦術が変わりそうですな」
「全くです」
「理化学研究所は、薬から合成ゴム、小銃から75ミリ砲の銃腔、砲腔、そしてこういった建設機械まで。噂では飛行機にも手を出しているそうですな」
「理研はわが国の最高の頭脳を集めた集団ですから、さすがというところでしょう」
参謀本部の兵站担当参謀は会議中特に発言はしなかったが、今日の試験に大いに満足していた。もちろん張学良たちはこの講評会には出席せず、当日の特急富士に乗り東京に帰っている。
その翌日の城北射場。(1930/1/8)
この日は均土車の排土作業の試験が行われていた。
ニトリルゴム製のダイヤフラムを駆動部とした油圧ポンプからの油を、ナイロン繊布で強化したニトリルゴム製の油圧ホースがニトリルゴム製のシール材で油漏れをなくした油圧シリンダーに伝え、シリンダーが排土板をしっかり地面に押し付ける。ひときわ高まったエンジン音とともに、均土車は淀川河川敷の盛り上がった部分を見事に削り取っていく。
「見事というしかありませんな」排土作業を見ていた大阪工廠の技官がひとこと。
「油圧筒(油圧シリンダー)の封油材から油漏れ一つしない。まさに理研の化学は世界一ですな」
「全くです。そういえば、鴨緑江でダムを造る話があるでしょう。この均土車を持っていくそうですよ」
「そうでしょうな。これ1台で100人分の仕事はゆうにこなすでしょうからな」
「ダムができれば満州側と朝鮮側で電力の取り合いが起こるのでしょうが、満州側が優先でしょうな」
「なんといっても、もう1、2年もすれば満州に立派な工場が立ち並ぶんでしょうから、そうならざるを得ないでしょう。そもそも、朝鮮側が何を言おうと、満州の工業化のためのダムでしょうから」
「全くです。とはいえ、朝鮮総督府は不満でしょう」
「不満であっても、わが国のためですから」
「そうですな」
「理研建機はこういった土木工事用の機械を作るのが仕事なのでしょうが、新式野砲をこの均土車に載せてしまえば、馬で曳かない機動砲の出来上がりですな」
「自走するわけだから自走砲?」
「それはいい名ですな」
「排土板を工夫すればしっかりした開脚になりますからな」
「それ、簡単に図面を引いて、検討してみませんか?」
「いいですな。検討してみていけそうなら、理研建機に試作させてみませんか?」
「上と相談しなければならないでしょうが、いま理研の名を出せば上も了承するでしょう。75ミリならこの大きさで十分でしょうが100ミリを超えるとこの大きさではちょっと無理かな」
「それなら、いくらでも大きくすればいいじゃないですか。エンジンを二つ積んでもいいんだし。満州の原野を150ミリの重砲を積んだ自走砲が後方から敵軍に向けて火を噴く。敵を粉砕したらまた前進して自軍に追いつく。夢があるじゃないですか」
「将来的には、戦車を主体とした作戦が行われるでしょうから、戦車に遅れない重砲は貴重でしょう。戦車もいちいち重砲の展開を待っていれば勝機を逃すでしょうし」
「そうですね」
「後方には均土車が控えていて道を作っていく。われわれは技官ですから三宅坂の参謀連中にこういったことを言えば、技術屋風情が偉そうなことを言うな! と一喝されるでしょうが、確かに夢がありますな」
「とはいえ、陸大から関東軍に行かれた、石原少佐。今は中佐ですが、あの人くらい技術に明るくて話の分かる人が三宅坂にいれば陸軍もかなり風通しが良くなるでしょうな」
「大きな声では言えませんがその通りですな。ハハハハ」
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
こちらは、その石原莞爾。
関東軍作戦主任参謀の彼は、視察と称して、正月休みも返上して油井の掘削を続けている北満州油田にやってきていた。彼が南満州鉄道の旅順駅から汽車を乗り継いだ中東鉄道支線、および本線はすでに標準軌化が完了しており、今では北満州鉄道と呼ばれている。
油田にはすでに十数本の櫓が立ち並び、原油を汲み上げている。そして油田周辺には兵舎や作業員たちの宿舎の他、商売人たちが集まって簡単な街なみも出来上がっていた。
守備隊長の山下大佐が石原を案内して、雪かきされた防御陣地などを回って説明していた。
「馬賊相手にはちと大げさな守備隊ではあるが、北満での実戦訓練と思えば悪いものではないんじゃ」
「馬賊どもの跳梁については関東軍司令部に報告は上がっていませんが、実際のところいかがです?」
「偵察らしき騎馬がよく現れるが、すぐにどこかに行ってしまって、騎兵を繰り出しても捕まえられん。満州の原野でも馬より早い自動車があればいいんじゃが、自動車では原野は無理じゃからな」
「確かにそうですな」
「ないものは仕方ないが、兵隊たちに支給された新しい長靴が実に素晴らしい。それに防寒衣も湿気がこもらず、寒さが沁みてこん」
「いずれも理研製でしたな」
「まさに、理化学研究所さまさまじゃよ。ついでに原野を走り回れる自動車を作ってくれればええんじゃがのー」
「新しい歩兵銃の方はどうです?」
「あれはいかんな」
「不具合がありましたか?」
「八九式歩兵銃は歩兵をダメにするほど整備が楽だ。ハッハッハ」
「その分訓練ができるではありませんか」
「全くその通りだよ。あの、八九式実包も最初はいかがなものかと若干不審に思っておったんじゃが、問題なく使えておる。発射薬自体は薬莢のガワが厚くなった分若干量が減ったそうだが、射程は今までより1割伸びとる。まあ、ただでさえ三八式の射程は長かったからそれほどありがたみはないんじゃが、薬莢が使い捨てになったことが何より大きい。兵隊たちが泣いて喜んどるよ」
「本来、薬莢などを拾っていたら戦にはなりませんからな」
「その通りだ」
「ところで大佐」
「なんだね?」
「今度新しい野砲が正式化するそうですが、聞いておられますか?」
「聞いておらんな。何せここは日本から遠い基地じゃ」
「七五ミリで、砲腔は金色だそうです」
「なるほど。それも理研製というわけか」
「理研では均土車というのを作ったそうです」
「キンド車? 耳慣れん言葉だな」
「土を均すと書いて均土です」
「ほう」
「土砂を力づくで押しのけるんだそうです。そうすることで、デコボコの地面が簡単に均される」
「ということは基地の設営に持って来いというわけか?」
「基地の他にも、飛行場、道路。たいていの土木工事に使えます」
「つまり、兵隊や土方がもっこを担がなくて済むわけじゃな?」
「そういうことです」
「なんと。またまた兵隊たちをダメにする機械というわけだ。大いに結構じゃないか。ハッハッハ」
「今は兵隊たちに苦労させて戦に勝つような時代じゃありませんからな」
「その通りだ」
石原はこれまで山下と話をしたことはなかったのだが、結構話の分かる人間だと、山下を評価した。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
こちらは、均土車の走行試験を視察した張学良一行。
大阪からの帰りの特急富士が東京駅に着いたのは翌日午前6時。そこから陸軍省差し迎えのフォードに乗って宿舎である帝国ホテルに帰り着いた。
ホテルの自室で身支度を整えた張学良は、午前10時、側近たちを部屋に集めて、今回の視察の感想を彼らから聞いた。
「驚きました。日本は欧米の真似事ばかりの国かと思っていましたが、決してそんなことのない技術国です」
「そうだな」
「悔しいですが、わが中国はあのようなものを作り上げる技術はもとより、理解できる人間すら少ないでしょう」
「その通りだろう」
「工業を起こすには、まず教育ですが、それすらままならないのが今の中国です」
「日本は義務教育を始めてもう50年と聞く。半世紀の差を埋めることができるのか? 相手だって先を進んでいるんだ。難しいだろうな」
「少帥、蒋介石の軍が関東に攻め寄せなかったのは、日本軍がいたからであって、わが奉天軍がいたからではありません」
「分かっている」
「蒋介石と結ぶか日本と結ぶか。今の日本は日清戦争当時の日本ではなく、ロシアを破ったれっきとした列強。しかも戦艦までも自前で作り上げることができるアジアでただ一つの列強です」
「そうだな」
「しかも、北で石油を見つけた以上、日本は満州を決して見捨てられません」
「われわれを排除してくるのかと一時考えましたが、そのようでもなく、わが軍に教官を差し向けて訓練をしています」
「つまり、日本はわれわれを利用して、満州をソ連と蒋介石から守ろうとしているということだろうな」
「少帥、われわれも腹をくくりませんか? 日本がわれわれを利用するならその話に乗ってやり、われわれも日本を利用して東北(遼寧・吉林・黒竜江の3省、つまり満州を指す)の近代化を進めていく。何年かかってもいいじゃないですか」
「考えておこう」
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