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技術立国日本  作者: 山口遊子


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36/43

第36話 昭和3年4月、2、熱海旅行


 1928年4月21日。土日を利用して熱海へ一泊旅行しようということになり、理研での仕事を終えて駒込駅から山手線で東京駅に回った俺たちは、熱海行の急行に乗り込んだ。しかも一等車だ!


 荷物を片付けて、席に着いて落ち着いていたら、列車が汽笛を上げた後、ゴトンと音を立てて動き出した。


「熱海まで2時間20分くらいだ。ちょっと早いけど、弁当を食べないか?」

「そうですね」「はい」

 堀口と鶴井は幕の内弁当で俺はいなりと巻き寿司が入った助六寿司だ。

「お茶の入れ物が風情がありますね」

「そうだな。持って帰れば売れると思うけどな」

「ですよね。でもこの時代だとみんな汽車の中に残して捨てちゃうんですよね」

「だろうな」


「幕の内には何が入ってる?」

「おかずは鯛の塩焼きと蒲鉾、伊達巻に、煮物と煮豆それに漬物ですね。お寿司はどうです?」

「助六だな」

「ですよね」

「そういえば、こういった駅弁の上に乗っかっていた絵が描かれた紙があっただろ? 掛け紙って言うそうなんだけど、あれもコレクターがいて売れるらしいぞ」

「きれいに取ればよかった」と堀口。

「わたしはきれいに取りました」と鶴井。何となく読めてた。

「負けた」


「今年の11月には天皇陛下の即位式が開かれるから、『奉祝』と書かれた特別仕様の掛け紙が作られるそうだ」

「それはゲットしないと」


 そういった話を弁当を食べながら話していたら、車掌さんがやって来て切符を確認していった。


 弁当を食べ終わって片付け、お茶を蓋を使ってチビチビ飲んでたら汽車は横浜に到着した。この時代弁当を食べたおりは座席の下に入れておくそうだが、現代人の俺たちはさすがにそれはできないので、持ってきたレジ袋に入れて、俺の荷物の中に突っ込んでおいた。


「ビール飲まないか?」

「今はいいかな」「わたしも、お茶が残ってるので」


「俺だけ」

 持ってきた6本入りの紙ケースから1本取り出してプルトップの栓を開けたら、泡がちょっとこぼれた。やっぱり冷蔵庫から出して5時間近くたってるので気温だよな。

 つまみに買った小分けされた柿の種を食べながらビールを飲んだ。温いビールなんだが、ビールは旅行のお供なので、温さは気にならなかった。


「旨い!」


「なんだか、そこまでおいしそうに飲まれるとわたしも飲みたくなったから1本下さい」

 堀口に1本とってやり、

「鶴井はいいか?」

「それじゃあ、わたしも」

 鶴井にも1本とってやった。

「つまみの袋は勝手に開けてくれ」

「はい」

 堀口は海苔巻きあられ、鶴井はツナピコの袋を開けた。何を食べてもらってもいいんですよ。

 俺は柿の種の二袋目に手を出した。

 窓の外は銀の雨が降ることなく、青空の下、田畑が広がってるだけだ。


「熱海に着いたら、旅館を探して、それからどうする?」

「それはもちろん、海岸を散歩でしょう」

「堀口もいろんなこと知ってるな?」

「普通でしょう」

「そうかな」

「先輩だって知ってたわけじゃないですか」

「あのー、何のお話です?」

「鶴井は『金色夜叉』って聞いたことない?」

「名前だけは知ってますが、読んだことはありませんし、内容も全然」

「俺も読んだことはないけれど、有名なセリフとかはどこかで聞いて知ってるんだよ」

「二人とも教養ありますよね。いいなー」

「ないない。そんなことないから」と堀口。

「教養のあるなしはあまり意味はないが、社会生活における常識がないとまずいぞ。社会生活における常識には義務教育が入るからな」

「それは言えてる。義務教育って共通語ですものね」

「それは分かります」

「義務教育を終わった俺たちが偉そうに言っても仕方ないけどな」


 汽車は東海道本線の乗り換え口の国府津を過ぎた。次は終点の熱海だ。


 そのうち車窓に海が見えてきた。湯河原を過ぎて、最後になんとかトンネルを抜けたらそこは熱海だった。


 荷物をガラガラ言わせて駅を出たら、宿の呼び込みのおっさんたちが立っていて「宿は決まっていますか?」としつこく聞いてくる。決まっていませんと言ってしまうと、どこに連れていかれるか分からないので「決まっています」と言ったもののどこに行っていいか分からない。ふと見たら駅の中に案内所があった。そこに行って聞くことにした。


「この3人で、温泉宿を取りたいんですが、いい宿ありませんか?」

「何か希望はありますか?」

「景色はどうでもいいけど、食事がおいしいところ」

「それでしたら、ここはどうでしょう」

 ガリ版で印刷されたパンフレットに書かれた宿は、それほど遠くもなかったので、とりあえずそこに行ってみることにした。

 駅前広場から右に折れて商店街に入っていき、商店街が途切れた先にその旅館があった。門柱が白くて新しく、建てられてからそんなに経っていない新品の旅館に見えた。


 開け放たれていた玄関から中に入ったら、カウンターというのか帳場というのか分からないが旅館の法被を着たおじさんが「いらっしゃいませ」と頭を下げた。


「一人部屋と二人部屋で一泊したいんですが、大丈夫ですか?」

「大丈夫です」


 宿帳を出されたので、理研で用意してもらった住所をメモを見ながら書いておいた。あとの二人もメモ帳を見ながら書いていた。


 それから、上がり框で靴を脱ぎ、女中さんというのか仲居さんと言うのか分からないが、女性の従業員が部屋に案内してくれた。荷物は、男の従業員2人で運んでくれた。

 部屋は8畳ほどの和室に横長の洋間がくっついていて、和室の隅に置かれた台の上にはテレビの代わりにレトロなラジオが置いてあった。洋間の窓の向こうに太平洋が見えた。

 女子たちの部屋は俺の部屋の隣で同じ間取りだった。

 二人が俺の部屋にいたところで、仲居さんがお茶の用意をしてくれた。そこで、

「食事の用意は何時からできます?」

「6時からご用意できます」

「堀口と鶴井、6時からでいい?」

「それでいいです」「わたしもそれで」

「じゃあ、6時からで、こっちの部屋で3人で食べます」

「かしこまりました。料理で何かご注文はございますでしょうか?」

「内容はお任せします。あとは、最初にビールを2本ほど出してください」

「かしこまりました」


「もう風呂に入れますか?」

「2時から入れます。手ぬぐいなどは脱衣場にありますが、浴衣などは部屋の物をお使いください」

「どうもありがとう」

 そこであらかじめコピー用紙に包んで用意していた5円を仲居さんに「心ばかりですが」と言って渡しておいた。5円と言えば今でいう2万円近い金額なので、仲居さんも気合を入れてくれるだろう。


 仲居さんが出ていったところで、

「風呂に入る? それとも散歩に行く?」

「まだ3時だから、散歩に行ってそれからお風呂でよくないですか?」

「じゃあそうしよう。着替えなくてもいい?」

「普段着持ってきたけど、場違いかもしれないから、このままで」

「わたしも一緒です」

「俺もそういえばそうだった。風呂に入った後なら浴衣に丹前を着ておけばいいんだろうが、湯冷めしたくないからな」

「じゃあ、このままいきましょう」

「部屋に鍵はないようだし、金庫があるわけじゃないから、大事な物は持ち歩くか」

「そうですね」


 各々カバンを持って3人で部屋を出て1階まで出たところで帳場に一声かけたら、帳場の親父さんが奥に一声かけた。そしたら男の人が現れて、俺たちの履物を出して框の先に揃えておいてくれた。

 これが浴衣姿だったら下駄が出てきたのだろう。しかし、下足札もないのに良く客を区別できるものだ。


 旅館を出て、道なりに下っていったらそのうち海岸近くの道に出た。

 道には海側に高さ1メートルほどの堤防が続いていて、ところどころが開いていてそこから海岸に下りられるように階段が付いていた。

「お宮の松がどこだかわからないけど、どこでもいいから松が生えてりゃお宮の松と思って拝めばご利益あるんじゃないか?」

「でも、お宮の松って小説の中のセットなんでしょう。それにご利益なんてないんじゃないですか?」

「堀口。お前、夢がなさすぎるぞ。例えば、この海の向うにはハワイがあってその先にはカリフォルニア、アメリカの大地が広がっている」

「それはそうですけどね」

「今頃カリフォルニアはゴールドラッシュだ」

「山田主任、カリフォルニアのゴールドラッシュは明治維新前には終わってたんじゃないですか」

「まさに教養がなかったな。今思い出したが、サンフランシスコ・49ersフォーティーナイナーズってアメフトのチームがあるんだが、その49ってゴールドラッシュの翌年のことで、49ersってその時押し寄せた金採掘者たちのことをいうんだそうだ」

「それこそまさに教養です!」

「たまたま思い出しただけだよ。間違ってたらごめんな」


 降り立った先は白い砂浜で、その先の水際から潮騒の音がわずかに聞こえていた。

 白砂ではあったが近くに青い松は見えなかった。

「松はずっと向うですね」

「そういうもんだろ。波打ち際まで行って海の青さを確かめよう」

 そう言って波打ち際の近くまで行ったらタカラガイの貝殻が転がっていた。拾っておいた。ちょっと得した気分だ。


 肝心の海の青さだが、かなり透き通っていて、100年の逆歴史を感じてしまった。

 そうしたら横あいから堀口が「海の上に飛んでいる白い鳥はカモメですか?」と聞いてきたので、

「そうなんじゃないか。良く見えないが、翼がそれっぽく曲がってたらカモメだろ」

「カモメだろうとなんでもいいんですけど、大切なのは白い鳥って事」

「何が言いたいんだ?」


「水平線が見えるでしょ?」

「島も見えるけど」

「それはどうでもいいんですが、青い水平線と青い空。そのどちらの青にも染まらない白い鳥って悲しくないですか?」

「もう4時に近くて空はちょっと赤みを帯びてるから、青くは見えないぞ」

「先輩。もういいです」

「知ってるよ。牧水だろ?」

「なんだ。意地悪!」

「ハハハハ。それはそうとそろそろ帰って風呂に入らないか?」

「はーい」「はい」


 旅館に帰って、部屋に戻り、床に置いてあった四角い盆のような箱に入った浴衣に着替え、上から丹前を羽織った。着ていた服は壁から出ていたフックに掛けておいた。


 ビニール袋に入れた着替えの下着を持って部屋を出たところで二人と合流したので、3人で浴場に向かった。

 その浴場だが、旅館の本館ではなく、いったん庭に出て屋根の付いた通路の先に建つ結構大きな木造の建物だった。

 入り口で男湯と女湯で別れていたので、そこで別れて、脱衣場の中に入っていった。

 脱衣場には人はいなかったがカゴを見ると5、6人は先客がいるようだった。そのかわり、脱衣所の脇の小部屋の中におっさんたちが控えていた。三助さん? 彼らが俺の姿を目で追うのだが。


 俺は素早く裸になって、浴場入り口の脇に置いてあったタオル(注1)を持って逃げるように浴室に入った。


 思った通り、浴室には先客が6名ほどいた。いずれも爺さんだった。脱衣場は板張りだったがこっちはタイル張りで、浴槽は木でできていた。その浴槽に向かって三助さんが櫓を漕ぐように板を動かしている。なんだか知らないが、ご苦労なことである。


 かけ湯をして浴槽に入ったのだが、結構深い。風呂に浸かっている爺さんたちは立ったままだ。ところ変わればというか、時代が変われば変わるものだ。


 水圧が体にいいと聞いたことがあるので、この時代の深い風呂はありがたい。とにかくすごく熱いお湯が胸のあたりまで来た。浴槽には腰掛けもついていたがそのまま中腰になって我慢して肩まで浸かった。爺さんたちは俺より背は低く、ちゃんと立ったままだ。そして赤くなっていた。



 浴槽から上がって洗い場に行き、そこにあった石鹸で体を洗ったのだが、シャンプーはなかった。ついでにシャワーもなかった。その代わり三助さんがいて、爺さんの背中を流してやっていた。


 確かに浴室に入る前に、おっさんたちが控えていたから、彼らに声をかけるんだろうが、これも心づけになるんだろうし、ちょっと厄介ではある。俺は爺さんじゃないから背中くらい自分で洗えるし。


 体を洗った後、もう一度浴槽に肩まで浸かってから浴室から出たら、控えていた三助さんたちが俺を見ている。なんだか怖くなって、急いで下着を着けて浴衣を着て丹前を羽織った。頭には新しいタオルを巻いて風呂場から退散した。



 部屋に帰って洋間に置いてあった椅子に座って寛いでいたら、堀口たちがやって来た。

「風呂どうだった?」

「お湯が熱かったです。三助さんがいたからちょっとびっくりしたけど、じろじろ見てるわけでもないし、銭湯の番台さんと考えればそんなものかと」

「なるほど、それはそうだ。男湯にも三助さんが何人もいたんだが、控室から俺の方をみんなで見るんだよ」

「それは、指名してもらいたいからじゃないですか?」

「あっ! そういうことだったのか」

「でしょう」

「とはいえ、結構面倒だよな」

「ですね」


 そうこうしていたら、仲居さんがやってきた。

「食事の準備をしてもよろしいでしょうか?」

「お願いします」


 座卓の上にどんどん料理が並べられていった。

「今朝、網代で揚がった鯛、平目、ハマチ、そして伊勢海老のお造りでございます」

「あいなめの真薯でございます」

「こちらは甘鯛の塩焼きでございます」

「 金目鯛の煮付けと野菜の炊き合わせでございます」


 仲居さんは最後にビールを3人のグラスに注いで、「何かありましたら呼び鈴を押してください」と言って部屋から出ていった。

「これは来たかいがあったな」

「海鮮尽くしって感じですね」「おいしそう」

「肉もいいけど、日本人はやっぱり海鮮だよな」

「そう思う」

「そうですね。でも、これだけ新鮮な魚は現代だと幻かもしれません」

「そういう意味でも贅沢だ」


「お酒なんだけど、この時代だと日本酒は燗酒が基本だけどどうする? それと端麗系じゃないようだ」

「わたしはパスかな」「わたしも」

「じゃあ俺も。ビールでいいな」


 ビールがなくなったところで、呼び鈴を押したらすぐに仲居さんがやってきたので、ビールを追加しておいた。

 ビールがやってきたところで、仲居さんから「ご飯は何時お持ちしましょうか?」と聞かれたので「今持ってきてもらえますか」と答えておいた。


 すぐに仲居さんがお櫃と茶碗、それにお椀物とお新香を運んできてくれた。

「ご飯をよそいましょうか?」と聞かれたので「こっちで適当にしますから」と言って断っておいた


 座卓の物があらかたなくなり、ご飯も食べ終えたところで、呼び鈴を鳴らして座卓を片付けてもらった。

 すぐに別の仲居さんがやってきて布団を敷いてくれた。最後に「明日の朝食もこの部屋で3人で食べるので8時ごろお願いします」と言っておいた。

 そのころには堀口たちは自分たちの部屋に戻っている。



 翌朝。

 仲居さんが布団を片付けている間に朝の支度を終えた。堀口たちが部屋にやって来てすぐに朝食の準備が始まった。

 仲居さんたちが出ていったあと「「いただきます」」

 朝食は純日本風でございました。この時代だから特に銘柄米というわけでもないと思うが、なぜか白飯がすごくおいしかった。






注1:タオル

当時は手ぬぐいが主流でタオルはまだ普及していませんでしたが、旅館の名入りのタオルも出始めた頃のようです。ちなみにこの旅館の名入りタオルは持って帰ってよかったようです。



松山千春『銀の雨』https://www.youtube.com/watch?v=SQiac0ezl54


お笑いタレントの間寛平はざまかんぺいさんの名は、尾崎紅葉の『金色夜叉』の主人公・間貫一はざまかんいちをもじったものらしいです。


若山牧水「白鳥はかなしからずや空の青海のあをにも染まずただよふ」

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