第33話 昭和3年
12月から理研に行くときは俺のコートもハーフコートではなく、ちゃんとしたオーバーコートだ。理由はハーフコートだと目立つような気がしてたから。堀口たちも俺に合わせてか、オーバーコートを羽織っている。
将来、ソ連と事を構えるとなれば、人造防寒繊維が必須だろう。特に日本ではあまり羊を飼っていないわけだし。
あとで調べてみたら、ナイロンを起毛加工(けば立て)、クリンプ加工(縮れ)、ステープル・ファイバー化(紡績)とかで対応できるらしい。こういった加工には高周波加熱が必要のようだが、理研で持っている装置は実験用の小型の物なので、別途、工業用に大掛かりな電源装置を作ったうえで、さらに真空管で高周波加熱器を作る必要がある。金額的にも大掛かりになるだろうが、技術的には半導体製造ほど電源の精緻さを要しないので、それほど高いハードルではないはずだ。
この件についても大河内所長に話しておけばよきに計らってくれるだろう。
年末年始を、ぐーたらたらと過ごしたら、あっという間に仕事始めだった。
会社に出勤して、年始の挨拶を適当に済ませ、社長の年始の挨拶を聞いたら日常の始まりだ。
そして、理研への出勤日(1928/1/7)。この日の運搬物は、消耗品の他は半導体の歴史が書かれた読み物だ。向こうの天気は良かったが結構寒かった。5度くらい低い気がする。だからといって100年で地球温暖化が進んだのかというと、おそらく、そういうのではないだろう。
俺たちの介入で歴史が変われば、そういった欺瞞で金儲けする輩は発生しないはず。なぜなら、あれの根底は白人至上主義だからだ。俺たちは石炭を燃やしたがお前たちには使わせない。俺たちが唱えることが真実。黙って従えばいい。
しめ縄が張られ門松が飾ってある理研の本館の玄関から所長室に行き、今日運んだ物の説明を大河内所長にした後、満州の防衛のためには、対ソ戦を念頭に置かなくてはならないので、防寒具が必要であることを説明した。
「確かに君の言う通りだ。対ソ戦がなくとも満州は酷寒になるという。羊毛などは輸入に頼っているうえに、それほど防寒性も高くない。理化学興業の化繊部門で研究させようじゃないか」
ということで、あっさり話が進むことになった。兵隊さんの待遇改善はそのまま戦力の維持につながる。
「それと、現在手に入る合成樹脂についてアルミ蒸着できるようになったよ」
「そういえば、ビニール、軟質ポリ塩化ビニルって手に入るんですか?」
「もちろんだよ。うちでも作れるはずだよ」
「あれを薄いシートにした物にアルミ蒸着すれば、風を通さず、体温を反射する防寒シートになります」
「ほう。そういった使い方があるわけだ。レトルトの袋の方だが、ポリエチレンテレフタレートについては目途が立った。ポリプロピレンについてはまだだがね。製法は分かっているから、時間の問題だ」
どういった素材が使われていると俺は大河内所長に言った覚えはないのだが、ちゃんと調べているようだ。
「それは頼もしいです」
「そういうことで、栄養補給食の包装についてはポリエチレンテレフタレートにアルミ蒸着するだけなので目途が立ったわけだ。試作出来たら理化学興業に食品部門を立ち上げて軍への納入を柱に市販を考えている。市販の販売先は星製薬の薬局だよ」
「栄養補給ですから、いいところかと思います。そうそう、甘味液にビタミンとかカフェインを配合した栄養補給飲料なんかも売れるかもしれませんよ。わたしたちの時代ではそれなりに売れていますから、今度持って来てみましょう。それも薬局で売ってます。結構、おいしいですよ」
「ほう。頼むよ」
その日はそれくらいで所長室を出て、荷物を預けたトラックがやってくるのを待って、荷物を下ろし、その日の仕事を終えた。
理研を出てから、駒込駅まで歩いていき、いつものカフェで休憩することにした。
俺はコーヒーを頼んだが、堀口と鶴井はココアを頼んだ。シュー・ア・ラ・クレーム(シュークリーム)も注文したようだ。それなら紅茶なりコーヒーの方がよかったんじゃないか? 言わんけど。それで、ココアが15銭、シュークリームが10銭だった。コーヒーが10銭なので全部で60銭。これは1円出さないといけないな。
「バランス栄養食の包装がこの時代にできるなんて信じられませんね」と堀口。
「まあな。たとえ俺たちが持ち込んだレシピがあってもそれを実現するのは簡単じゃあない。それだけ、理研の人材が優秀ってことだろ?」
「うちの会社に欲しい人材ばかりかな?」
「どうだろうな? もしうちの会社だったらなじめずにすぐに辞めて、どこかの研究所に再就職するんじゃないか?」
「それもそうですね」
「今のところ、産業の基礎っぽいこと進めてますが、そのうち、戦車とか飛行機とかに関わり合いも出てきますよね」
「そうだろうな。なにせ軍事ってその国の最先端技術を使うもんだろ。関わり合いがない方がおかしいし」
「そう言えば、今のプリンターってA4までですよね。将来的に戦闘機とかを設計するには大型プリンターって必要じゃありません?」
「この時代にはなかったけれど、ちゃんと設計できていたわけだから、必須ではないだろうが、CADソフトと大型プリンターがあったほうがいいだろうな。CADソフトもノートパソコンにインストールできるはずだし。本当はデスクトップのパソコンの方が使い勝手がいいと思うが、ノートパソコンでも画面が大きければ何とか使えるんじゃないか?」
「ですね」
「それはそうと、二人ともCADソフト使ったことある?」
「ないです」「わたしも」
「スタンドアローンで使えるソフトを探してインストールすればいいか。今どきのソフトはネットに繋いだサブスク型が多いけど探せば何とかなるだろ」
「そうですね」
「失敗したらゴミだけど、相手は理研の研究員たちだ。説明書があれば、何とでもするだろう」
「ですね」
そんな話をしていたら、注文したものが運ばれてきた。
「シュークリーム、おいしい」「おいしいですね」
「ココアもおいしい」「おいしいですね」
コーヒーはちょっと苦いぞ。
「あと、いわゆるオフィスにおける開発環境の向上で必要なものって何かあるかな?」
「関数電卓もあるし、CADがある以上、設計という意味では、ものすごくはかどるんじゃないですか? CADて、簡単な応力解析くらいやってくれるでしょうし、部品の嵌め合いなんかも設定できるはずだから、工作精度さえあれば、組み立ててみたら部品が合わないとかなくなるはずですよ。それに現場に合わせたモディファイも少しはできるんじゃないですか? あとはノートパソコンでも表計算ソフトでプログラムは作れるわけだから、1960年代の設計なんかよりよほど効率いいと思いますよ」
「そうじゃないと困るしな」
しかし、堀口のやつ、CAD使ったことないって言いながら、結構知ってるじゃないか。いいことだけど。
その日はおとなしくそのまま浦和に帰って、3人でモのつくハンバーガー屋で昼食を済ませてそこで別れた。
うちに帰った俺は、金曜の夜受け渡しで画面が大きくてテンキーの付いたノートパソコンを2台、そして大型プリンター、それに、純正のインクと大型プリンター用のロール紙を2セット注文しておいた。プリンターの重さは30キロちょっと。電源装置と同じなので、箱の大きさが大きいと二人がかりになるが、何とか運べるはずだ。
好評だったら、電源と同じで、この先かなり購入することになりそうだ。
そのあと、1箱10本入りの栄養ドリンクを10箱注文しておいた。これも消耗品リストに入るだろうな。
次の週の金曜日の夜。定刻よりちょっと遅く荷物が届いた。プリンターの箱が横長でずいぶん大きかった。これは二人がかり確定だ。穴を抜けるとき苦労しそうだが、とにかく運ばなければ。
だいぶ遅くなってしまったが、パソコンをセットアップして、用意してあったスタンドアローンCADソフト、これはフリーソフトだった。これをインストールしておいた。ソフトの立ち上げまでの簡単な説明をメモにして、紙に出力して、ノートパソコンの箱に入れておいた。
そして翌日。(1928年1月14日)
玄関の中で荷車の荷台にプリンター関係の荷物とノートパソコンが入った箱を載せ、栄養ドリンクを乗せたキャリーカートを押して公園まで行った。
そこで、堀口にキャリーカートを渡してから家に戻って、荷物でかなり重くなった荷車を押して公園に向かった。
先にキャリーカートを向こうに運び込んで栄養ドリンクの箱だけトラックに載せ、キャリーカートを穴の向こうに戻してから台車の上の小物類を運んだ。
そのあと堀口とプリンターの箱を持ち上げて、穴の前まで持っていったのだが、
「この体勢じゃ、堀口の手に触れないし、堀口も俺の手を触れないだろ?」
「無理っぽいです」
「困ったな。試しに、鶴井、真ん中にきて俺の手を持って、反対の手で堀口の手を持ってくれるか?」
「やってみます」
鶴井がやってきて俺の手を取り、そのあと堀口の手を取った。
「穴が見えました!」と堀口。その言葉に、ちょっと来るものがあったが黙ってた。当たり前か。
「うまくいったな。それじゃあ、このまま3人で中に入るぞ」
うまい具合に荷物を持って穴を抜けることができた。一度箱をそこに置いて、穴をくぐって元に戻り、同じようにして穴を抜けた。
「悪いが二人でトラックにそれを積んでてくれ。俺はキャリーカートと台車をうちに返してくる」
キャリーカートと台車をしまってから公園に戻り、穴を抜け、俺と鶴井は荷台の上、堀口は助手席に乗って浦和駅まで移動した。
浦和駅までの移動中考えたのだが、間接的に手を繋いでも穴が見えたということは、電気的な何かで繋がってるのだろうか? もしそうなら、そこらの電線を二人で握れば、それで穴が見えるようになるかもしれない。そのうち試してみよう。それができればかなり長い物も運べる。ただ、それほど長い物ってないから、先ほどのように3人で手を繋いだ方が早そうだ。
理研に到着して、所長室に行き、この日用意したものを説明しておいた。
「製図用ソフトウェアに大型プリンターか。それはすごい」
「慣れないとあまり意味はないでしょうが、慣れれば絶大な効果があると思います。機械の設計はもとより、建築にも使えますが、艦船、航空機、戦車、その他の兵器の設計にも使えるはずです」
「なるほど。東大の船舶工学科、航空学科の先生に声をかけてみるのも手だな。面白いものがあると言って誘えば、きっとうちの嘱託になってくれる」
「そうなると、造船会社とか、飛行機製造会社とか理研で作ってしまいそうですね」
「うちだけじゃ、さすがに無理だけど、陸軍さんとか海軍さん、飛行機だと中島飛行機製作所かな」
中島飛行機か。夢があるなあ。寿エンジンってそのうち開発されるはずだけど、理研のシーリング材があるこの世界では、史実より確実に高性能になる。いずれ開発されるハイオクガソリンでさらに高性能になる。そして、金属材料の進化で、スーパーチャージャーなども信頼性が上がり航空性能も上がる。航空での断熱服は理研製の合成繊維。与圧コクピットも理研製の合成ゴム。さらに燃料タンクは理研製の合成ゴムで内張された防弾タンク。圧倒的じゃないかわが軍は!
「山田君何か面白いことでもあったのかね?」
いっかーん! ニヘラ笑いしてたようだ。
「なんでもないです」
「とにかく、物が届いたら、しかるべく利用させてもらうよ」
「わたしも使ったことがないものなので、今回は2台なんですが、使えるようなら、どんどん持ってくるので、言ってください」
「了解した。いつも済まないな」
「仕事ですから。それじゃあ、そろそろ荷物が来るかもしれないので」
「うん」
「荷物が届いたら、1台ここに持ってきます」
「分かった」
所長室を出て玄関に回ったところ、それほど待つことなく、トラックがやって来た。
トラックの運転手さんと俺と二人がかりでプリンターを下ろし、それからその他の荷物を下ろした。
そのころには幸田さんもやって来たので、プリンターを二人で持ち上げ、堀口と鶴井にノートパソコンと栄養ドリンクを一箱持たせて所長室に運んだ。
「結構大きなものですね」
「はい。A1判まで印刷できるそうですから」
「ほう。このノートパソコンの画面は確かに大きくて見やすいですね」
「図形を扱いますから大きい方がいいと思って。このプリンターの説明書は箱の中に入っていますから、それを見て使ってください。設計ソフトなんですが、それの簡単な説明を印刷してきました。本格的な説明はそのソフトの中のヘルプを見てください」
「了解です」
「この栄養ドリンクですが、飲んでみてください」
栄養ドリンクの小瓶を箱から取り出して、大河内所長と幸田さんに手渡した。
「蓋は捩じれば開きますから」
二人が同時に蓋を開けて、ぐびぐびと飲んだ。
「何とも言えない味だが、元気が出てきた気がするぞ」「ほんとです」
「カフェインが入っているせいで、眠気覚ましにもなります。飲んだ後元気が出るのは確かですが、あとで疲れが出てしまうのが欠点です」
「なるほど」
「将来、メタンフェタミンという物質が覚せい剤として軍でも使われ、市販もされるようになるんですが、それは脳の働きを破壊し、さらに麻薬並みの強い中毒症状を引き起こすものですから、決して触らないようにお願いします」
「心しよう」
「それでは、今日はこの辺で失礼します」
「今日もありがとう」
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ここは理研のとある研究室。
豚骨をベースにした豚骨スープと鶏ガラをベースにした鶏ガラスープを乾燥して粉末化に成功して、次の取り組みとして具材の開発に取り組んだ。
もとより、乾燥ワカメは具材として問題なく使用できたし、乾燥ネギも比較的簡単に出来上がったが、やはりチャーシューが欲しい。
チャーシューを作ってスライスしてみたが、形がそろわない。さらに言えば、厚くて、市販した場合、単価が高くなりすぎる。ということで出来上がったチャーシューを一度冷凍してからスライスすることを思い立ったが、冷凍する装置がない。そこで、コンプレッサーを利用した冷凍装置を設計して、工作部で製造してもらった。
冷凍装置が研究室に運び込まれた段階で、彼の研究室はある種の工場の観を呈し始めていた。
カチカチに凍ったチャーシューを切ろうとしたのだが、今度は全く歯が立たない。そこで、試しにカンナで削ってみたところ薄くスライスできた。カンナの摺動運動の機械化は簡単なので、スライサーを設計してこれも工作部で製造してもらった。カンナが一往復すると、歯車が動き、その歯車の回転に合わせてネジが回って凍ったチャーシューを押し出す仕組みと、チャーチューを固定する部分を搭載して薄切り器は完成した。
注1:ステープル・ファイバー化
長繊維を一度短く切り刻み(ステープル)、それをウールのように再度紡ぎ直す手法。これにより、糸の内部に隙間が多く生まれ、バルキー性(かさ高性)が増して保温力が飛躍的に向上する。




