第28話 昭和2年7月、3
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コーヒーを飲み終えたところで3人分の代金として1円払って駒込のカフェーを出た。やって来た時と同じく電車を乗り継いで赤羽まで移動し、赤羽からは汽車に乗って浦和に到着した。
「こっちの世界だと土用の丑の日は7月25日。現代だと今年は7月27日だそうだ」
「先輩、詳しいですね」
「気になって調べたんだよ。ちょっと早いけど、今日はウナギにするか?」
「さんせー」「賛成です。でもわたし、こっちのお金持ってません」
「心配するなよ。俺が出すから」
「でも会社でもいつも出してもらってますよ。あれって、山田主任の自腹ですよね? いつもレシート捨ててるし」
鶴井のやつよく見てるな。
「俺はそれなりに金を持ってるから、心配するな」
「わ、分かりました」
「堀口もそれなりに金持ちだから、俺がいないときは堀口にたかってくれ」
「堀口さん、気にしないでいいですから」
「いいのよ。鶴井さんに奢るくらい大したことないし。それにもう何カ月かすれば鶴井さんも理研からのお給料がある程度貯まるから、アルバイトできるようになるわよ。そのあとは割り勘にしましょう」
「はい」
うなぎ屋の暖簾をくぐり、上がり框から廊下に上がって和室に通された。
案内してくれた仲居さんから見て、俺はモダンガールを二人も侍らすどこぞの御曹司のモダンボーイか何かに見えるだろうな。
案内された部屋には、6人は優に着ける座卓が置いてあり、座布団が3人分敷かれたところで俺が先に座り、俺の向かいに堀口と鶴井が並んで座った。
そこで、まずビールを2本とつまみの骨せんべい二皿、それに肝焼きを二皿頼んだ。定番になりそうだ。あとはうな重3人前。
ビールとつまみがやってきたところでお互いにビールをコップに注いで「「かんぱーい!」」
「それじゃあ、俺の知ってる範囲で、鶴井に今のこの日本の現状と理研の研究開発状況を教えておくな」
「はい」
「日本の状況だが、この3月の半ばに蔵相、現代なら財務大臣だな。俺たちの歴史と同じくその蔵相の失言がきっかけで金融恐慌というのが起こったんだ。幸いに大恐慌にならずに5月の中頃までには終息した」
「はい」
「あとは、さっきも言ったが、北満州で油田が発見された。その開発を急ぐため、政府は北満州を東西に横断している中東鉄道というソ連が所有する鉄道を買収したんだ」
「満州って日露戦争以降、全部日本の物になったと思っていました」
「そう思うのが普通なんだろうが、実際は中国の領土ということになっていって、実効支配しているのは地方軍閥の張作霖。張作霖って聞いたことあるだろ?」
「列車ごと爆殺された、かわいそうな人ですよね?」
「そうなんだけど、この世界ではどうなるかは分からない。それはそうと、満州の中で日本が所有しているのが遼東半島の先端、旅順と大連周辺。そしてそこから長春まで伸びる南満州鉄道と鉄道周辺数十メートルに過ぎなかったんだ」
「知りませんでした」
「知ってる人の方が少ないから大丈夫。それで、蒋介石って知ってるだろ?」
「知ってます。今の中国の共産党に負けて台湾に逃げた人」
「そうなんだけど。今は国民党のトップとして中国にいる外国人を排除して中国人の国を作ろうと、軍を組織して北京に居座っている張作霖その他を討伐するため北伐軍を組織したんだ」
「聞いたことあります」
「それで北伐を始めたんだが行く先々で外国人とトラブルを起こして、とうとう日本も怒って山東半島に軍を派遣したんだ。最初の派遣の規模が小さくて危なそうだったから、さらに増援を送ったんだが、その北伐軍と戦争が始まる前に北伐軍が張作霖派の軍によって粉砕されたことで、日中戦争は避けられた。というのが少し前の中国情勢」
「よく分かりました」
「日本と中国、満州はそんなところ。あとは理研の現状を話そう」
「はい」
「まず、医薬品。サルファ剤って聞いたことある?」
「聞いたことあるようなないような」
「基本的には感染症を防ぐ薬だ。戦争映画なんかで衛生兵が傷口なんかに振りかける粉末の傷薬があるだろ? あれだ」
「戦争映画あまり見ないので、記憶にないかも?」
さいですか。
「まあいいや。とにかく、この時代では画期的な抗菌薬なんだ。で、サルファ剤って実は染料の原料だったんだけど、その情報を教えて、製造販売まで漕ぎつけたんだ。SF作家の星新一って聞いたことない?」
「SF読まないから、ちょっと」
さいですか。星新一は関係ないけど『宇宙船を貰った男』面白いぞー。読まないと一生後悔するぞー。
「知らないなら仕方ないけど、その星さんのお父さんの会社が星製薬といって、この時代では最大手の製薬会社だったんだが、いろいろあって倒産危機だったんだ。そこにこのサルファ剤の製造販売を任せたことで星製薬は生き返った」
「すごいです。でも何で星製薬なんですか?」
「星製薬は市販のネットワークを持ってたんだよ。あとのことを考えてそれを生かしたかったんだ。そのあとのことだけど、ペニシリンとストレプトマイシンの開発だ。これは北里研究所にアオカビから抗菌物質ができるといった情報を渡したうえで、委託開発してもらった。その結果を持って星製薬に製造販売してもらう運びだ」
「ペニシリンは知ってますが、ストレプトマイシンはどんな薬なんですか?」
「この時代、日本人の病死で一番だったのが国民病ともいわれていた結核だ。ストレプトマイシンは結核の特効薬なんだ」
「それってすごいことですよね!」
「そうだと思う。そういう意味で、俺たちの世界では医療が及ばず他界していたはずの人たちが助かるわけだから、それも歴史に影響するはずだ」
「かなり影響しますよね」
「宮沢賢治は1933年に肺結核で亡くなってる。おそらく、この世界では亡くならず、天寿を全うできるんじゃないか?」
「ある意味、怖いところもありますね」
「そうだな。とにかく多くの人の命は救われるはずだ。あと思い出したけど、風が立たないかもな?」
「なんですかそれ?」と堀口。
「堀辰雄の小説『風立ちぬ』しらない? あと何年か前にもアニメ映画にもなった」
「アニメは知ってたけど、小説は知らなかった」
「堀口は、理系だし、小説の方は辛気臭いし。俺だって読んではいないが、何となく内容を知ってるだけだ」
「どんな内容なんですか?」
「普通に婚約者が結核で死んでしまう話だ」
「ものすごく端折ってますよね?」
「でも、中身はそれしかないぞ。登場人物の感情なんか第三者である俺には関係ないだろ?」
「それはそうかも知れませんけど」
「なんであれ、そういった悲劇はほとんどなくなるだろうから、良かったじゃないか」
「それはそうですね」
「次は、ナイロン。史実だと、これをアメリカに開発されて、世界恐慌と相まって日本の養蚕、絹糸業は壊滅して、これに頼っていた農家が悲惨なことになったようだ。それくらいなら日本でナイロンを開発して、農村の働き口を増やしたほうがいいと思って開発した。レシピがあればある程度の試行錯誤で合成できるからな。絹のこともあるから、それなりの価格で売っているらしいが爆発的に売れているそうだ」
「そのレシピも先輩が教えたんですよね?」
「俺にはそんな能力ないから、それ関係のハンドブックとかを持ち込んだんだよ。もちろん他の開発も一緒だ」
「それでも、すごいです」
「そして次が」
「まだあるんですか?」
「もう少しだけ。次は合成ゴム。この時代のシーリング材、機械類のパイプの繋ぎ目とかに挟んで液漏れを防ぐ部材だな。そのシーリング材の材質はこの時代、紙とか金属、または天然ゴムなんだけど、紙とか金属だと最初から液漏れするし、天然ゴムは相手が油の場合ふやけてすぐ使い物にならなくなる。ということで、合成ゴムの登場だ。油に強いニトリルゴムというのを製造して、今販売中だ。これも引っ張りだこだそうだ。あと、タイヤなんだけど、これは天然ゴムがタイヤに最適なんだそうだが、タイヤ用の合成ゴムを開発中だ」
「天然ゴムでいいのに、何で合成ゴムを作ってるんですか?」
「日本じゃゴムの木が育たないから南方から輸入に頼ることになるだろ? もし輸入できなくなったら、戦争して奪い取らなくちゃいけなくなる。それはしたくないだろ?」
「それは、そうですね」
「そうそう。戦後太平洋戦争と言っている大東亜戦争だけど、元は石油がないから始まったようなものだからな」
「じゃあ、今の満州の石油は?」
「満州に石油があれば、石油がないから、タイヤ用の合成ゴムがあれば、天然ゴムがないから、そういった理由で戦争が起こる可能性はかなり減るだろ?」
「でも、それじゃあ、ものすごく歴史が変わりますよ」
「そのつもりなんだから、それでいいんだよ」
「山田主任は会社だといつものほほんとしてるように見えてましたが、頭の中はすごかったんですね」
なんだか馬鹿にされてるような。堀口が笑いを堪えているような。
「あとは特殊な鋼材なんかも研究を進めている。それで最終的な目標は、1941年までにトランジスターを日本国内で量産すること。今の調子でいけば、もっと早い時点で量産できるんじゃないかと思っている」
「トランジスターですか?」
「そう。トランジスターがあれば軍事技術で敵国を圧倒できる」
「そうなんですか?」
「そうなんだよ。トランジスターが量産できるころには日本は世界最高水準の科学国になってるわけだから、そんな国を挑発する国がなくなる可能性だってある。つまり、戦争が起きないかもしれない」
そこら辺まで鶴井に話したところで、襖が開いて仲居さんの手によってうな重セットが座卓の上に並べられた。
「「いただきまーす!」」
三人同時に蓋を取り、箸をつけた。
「旨い!」「「おいしー!」」
うな重を完食した後、吸い物をずずーと飲み干して御馳走さま。
会計は8円ほどだったが10円払っておいた。現代の価値にして4万円くらい。この世界での高給取りになってしまったから、これくらい払っても何ともないのだよ。ウェーイ!
腹をさすりながら店を出た。堀口と鶴井も満腹だと言っていたが、さすがに俺みたいに腹をさすってはいなかった。俺ってすでにおじさんだな。だって見た目なんか全然気にならんもん。
うなぎ屋からマカダム舗装された道をゆっくり歩いて浦和高等学校まで歩いていき、3人で手を繋いで穴を潜り抜けた。
これから先、この関係で何かあるかもわからないので、鶴井とメアド交換しておいた。堀口と鶴井はすでに済ませているとのことだった。
二人とはそこで別れて俺は家に帰った。その二人は一緒に池袋でショッピングして帰るとか言っていた。好きにしてくれ。
その日の午後8時ごろ、スマホに鶴井からメールが届いた。内容は「ごちそうさまでした」だった。
翌日の日曜日は、一週間分の洗濯とワイシャツとスーツのクリーニング。冷蔵庫の中身の補充。その他で午前中はつぶれ。スーパーで買ってきた弁当+総菜で昼を済ませた。
それから、目当てのweb小説を夕方まで読み、そのあと家を出てサの付くファミレスで夕食にした。午後8時にはうちに帰ってきて、風呂に入り、それから11時くらいまでweb小説を読んでベッドに入った。
月曜日は海の日だったので休日(2028/7/17)。
昨日家の用事を済ませていたので、適当に朝を済ませて、次の土曜に理研に運ぶものを注文した後は、一日中だらだらと過ごしてしまった。休日の企業戦士の鑑である。
その理研に運ぶものだが、消耗品であるコピー用紙とトナー、それとレトルトカレーの代わりに黄色い箱のバランス栄養食を付け加えてみた。レシピは分からないが、材料は箱に書いてあるので、こういったものを売り出せば、兵隊さんの栄養補給に役立つと思ったわけだ(注1)。ちなみに自衛隊内で人気なのはチョコレート味なのだそうだ。ただ、自衛隊員は激しい訓練で消耗するからカロリー補給は必要だろうが、理研の職員の場合どうなんだろう? 忙しくて食事に行けないときなんか役立つだろうからいいか。たぶん。注文したのは、チョコレート、バニラ、チーズ、フルーツの4種、1カートンに30箱入りで各20カートン。
火曜日。会社に出勤したら、再度鶴井に土曜の件で礼を言われた。そのことを耳にしたほかの課員たちがざわめいたような。土曜日のこと=プライベートで会った証拠だ。しかも、俺には第三者的に堀口がいる。部下に手を出すとはけしからん! などとまさか思ってはいないよな?
なんか思っていそうだな。仕事とプライベートは別なんだから他人のことはどうでもいいだろ! 俺もそうかもしれないが、そういった連中がもう何年かすると、婚活サイトに登録して、いそいそ婚活パーティーに出ることになるんだぞ。いや、決して婚活サイトも婚活パーティーもけなしているわけではありませんので、そこのところはご了承ください。
「先輩、なに一人でペコペコ頭を振ってるんですか?」
「俺、頭振ってた?」
「なんだか、誰かに頭を下げているような感じでしたよ」
「そう見えた? これから気を付けよ」
「そうしてください。夢の中で、浮気がばれて奥さんに謝ってるって感じだったですから」
「俺、独身だから」
「そんな感じ、ってだけの比喩ですから」
「比喩にしてもひどくないか? しかも具体的」
「比喩は比喩ですから気にしない気にしない。誰に迷惑をかけているわけじゃないですけど、やっぱり変ですから」
そりゃそうだ。一人で頭下げてたらエア謝罪だものな。
その週は他のグループの課員たちに誤解されたかも? という疑念と、謎の首振り以外問題はなく、金曜の夜にうちに届いた荷物を整理して、翌日の土曜日(1927/7/23)がやって来た。
消耗品と黄色い箱のバランス栄養食を玄関先に用意し、ある程度の量を荷台に載せてから、一度公園まで行って、そこで待機していた堀口と鶴井のうち、鶴井にはその場で荷物番をしてもらって堀口を連れて家に戻った。堀口にはバランス栄養食のカートンを持てるだけ持ってもらい、俺は荷台に載せられるだけバランス栄養食のカートンを載せて公園に戻った。二人には残りの箱を運んでもらうことにして、俺は荷物を抱えるだけ抱えて、穴の向こうで待機中のトラックまで運んだ。
運搬作業を続けて最後に俺が荷台をうちに戻して公園まで戻り、そのあと3人で揃って穴を抜けてトラックに乗った。ちなみに、助手席には堀口を座らせ、俺と鶴井が荷台に乗った。
注1:
2025年12月、小泉進次郎防衛相が大宮駐屯地を視察した際、若手隊員から「カロリーメイトを支給してほしい」という要望を受けたことをきっかけに、全国の部隊での支給に向けた取り組みが加速し、「増加食(通常の食事に加えて支給される補助食)」として正式に導入・支給されています。私自身は、原潜とか核など高価なサブスクリプションビジネスと思って否定的ですが、こういった自衛隊員さんたちの待遇改善はどんどんやっていただきたいと思っています。推しは自衛隊。#ありがとう自衛隊




