第18話 大正15年11月、3
堀口と日本橋三越の5階の洋食堂で、食後のコーヒーを飲みながら、
「こっちのコーヒーって豆からドリップしたものですよね?」
「そうなんじゃないか?」
「インスタントコーヒーを持ってくれば理研の人たち喜ぶんじゃないかな?」
「それはいいかもな。夜遅くまで頑張っている人もいるだろうし」
「夜食にインスタントラーメンとかあってもいいかも?」
「カップ麺があれば重宝しそうだ」
「というか、この時代、ガスレンジってあるのかな?」
「ガスレンジがあるかどうかわからないけれど、実験室にはブンゼンバーナーくらいあるんじゃないか?」
「ブンゼンバーナーってなんでしたっけ?」
「科学の実験で使わなかった? ガスパイプの上で青い炎が噴き出てる」
「アルコールランプ?」
「ちゃんとしたガスで燃えてるんだけど。とにかく、アルコールランプよりよほど火力がある」
「それならだいじょうぶですね。だけど、インスタント麺とか諸々を持ち込むと、理研だからきっと製品化しますよ」
「あり得るな。この時代にもインスタントコーヒーはあったはずだが、今の製品には及ばないだろう。今度インスタントコーヒーについてウィキで調べれば今のコーヒーの製法の概要程度は分かるはずだから、そのあたりをプリントして渡そうか。そういったものを将来開発して売り出す会社にはかわいそうだけど、消費者にとってはいいことなんじゃないか? よし、次回はとりあえず資料とインスタントコーヒー、それにカップ麺とかの現物を用意しよう」
「最初は瓶入りで、あとは詰め替え用を用意すればいいですよ。インスタントコーヒー自体は軽いから」
「コーヒーはそれでいいな。インスタント麺は軽いけどかさばるのが難点だけどな」
「あのトラックでもかなりの数運べますよ。レトルト食品もあったほうがいいんじゃないかな?」
「あってもいいけれど、あのパックの製法をまねるのはちょっと難しいんじゃないか? 特に理研の人たちみたいな天才にとって難しい問題に挑戦するって面白いことだろうからいい刺激になるか」
その日は三越から出て、東京駅に戻り、山手線に乗って上野に出て汽車に乗って浦和まで帰った。浦和からいつものように歩きで浦和高等学校まで戻り、公園前で堀口と別れてうちに帰った。
さっそく、パソコンから瓶詰のインスタントコーヒー24個入を8カートン、詰め替え用コーヒー24袋入りを16カートン注文した。カップ麺についてもラーメン、そば、うどんなどを箱で注文しておいた。
それで、まだ忘れているようなものがあったので、必死に思い出して、辛口と中辛のレトルトカレーを箱で注文しておいた。
配達は火曜日、勤労感謝の日に指定しておいた。
次の土曜日。かなりの量の荷物を玄関口に移動して、堀口との約束の8時少し前に公園前まで彼女を迎えに行った。そのときキャリーカートにコーヒーを4箱積んできたので、一箱ずつそれを持って穴をくぐり、待機中だった理研のトラックに積んだ。
それから堀口と4往復して全部の荷物をトラックに積み終えた。詰み終えた後は俺は荷台、堀口は助手席に乗って浦和駅まで送ってもらい、そこでトラックから降りた。
浦和駅からは1時間ちょっとで理研に到着し、そのまま所長室に行って、今日運び込むものについて大河内所長に説明した。
「粉末コーヒーは海外では売られていると聞いてはいたが、それとは違うのかね?」
「いま海外で売られている粉末コーヒーはコーヒーの液体をそのまま乾燥させただけのもので、お湯を注いでも本来のコーヒーの匂いや味がなかったようです。今回持ち込むコーヒーはコーヒー液を凍らせてから真空乾燥させることで風味と味を本来のコーヒーに近づけたようです」
「なるほど。それでカップ麺とは?」
「特殊な樹脂の入れ物に入った乾麺で、熱湯を注ぐだけ、ないし、添付の粉末スープをかけてからで熱湯を注ぐと、3分から5分で食べることができるようになる『即席麺』です」
「ほう」
「職員の人が、休憩時に簡単にコーヒーが飲めたり、夜食に軽く食べたりできればいいでしょう?」
「それは言えるな。夜遅くまで頑張っている職員が大勢いるし」
「あと、レトルトカレーですが、これは袋ごと湯に入れて温めてもらい、別途炊いてもらったご飯にかければライスカレーになります。袋のままだと数年は腐ることはありません。なんであれ、ご飯がないと始まりませんから、職員に配ってしまえばいいでしょう」
「どれも兵隊さんの糧食に使えそうじゃないか」
「そうですね。ということで、将来どこかの会社が開発するものですが、ここで製品化するのも面白いかもしれません」
「当然そうなるだろうな。うちの若い連中の中で手を上げる者が必ず出てくる」
そこまで話して、一度部屋に入り時間調整をして、玄関に回った。
それほど待つことなく、トラックが到着したので、すぐに荷物を下ろして玄関の中に運んだ。
幸田さんも途中で手伝いにやってきていたので、中身のことを説明して、
「どこに運びましょうか?」と聞いたところ、
「とりあえず、所長に見せましょう」
ということで、コーヒー瓶の入った箱と、カップ麺の入った箱、それに中辛レトルトカレーの入った箱をそれぞれが持って所長室に運んだ。
「インスタントコーヒーか」
「蓋を開けてみればわかりますが、いい匂い出しますよ」
そう言って瓶の蓋を取って、中の紙シールをはぎ取った。中からコーヒーの匂いが漂ってきたので、所長に渡した。
「これは思った以上にいい匂いだ。ほう、粉末ではなく顆粒のようだ」
「粉末のインスタントコーヒーもありますが、顆粒の方が溶けやすいとかあるみたいです」
「ほう」
大河内所長は手にしたコーヒー瓶を幸田さんに渡した。
「ほんとにいい匂いがしますね。あとで各研究室に配りましょう」
「そうだな。それで、カップ麺はどうだね?」
カップラーメンの入った箱を持ってきてたのでそれを開けて中から一つ取りだした。
「これは、麺と一緒に乾燥スープと具が入っているものですね。上の紙を途中まで剥がして、そこから熱湯を注ぐと3分で出来上がります」
「ほう。試してみたいが、ここでは無理だな」
「所員食堂に持っていって、試食会でもしますか?」
「そうだな。昼食が食べられなくならないかな?」
「それほど重たいものじゃありませんから大丈夫でしょう」
「それじゃあそうしよう。幸田君は厨房に熱湯のやかんを用意するよう言っておいてくれたまえ」
「はい」
「あとは、レトルトカレーだったか」
「特殊な樹脂製の袋に滅菌したカレーを封入したものです」
「材質は後で研究するにせよ、小箱に印刷された『絵』が食欲をそそる。それも食べてみたいものだな」
「白飯は食堂に十分用意してありますから大丈夫でしょう」
「それじゃあ、コーヒー以外は全部食堂に運んでしまいましょうか?」
ということで、コーヒーは所長室に残して、カップ麺とレトルトカレーの入った箱を俺と幸田さんが持って、所員食堂の入った建物に移動した。
幸田さんが厨房の主任に話をして、いったん荷物は厨房入り口前に置いた。
そこから本館の玄関まで戻り、4往復して全部の荷物を届けた。
それから表に回って食堂に入っていったら、数名の所員たちが寛いで何か話をしていた。
俺たちは、食堂側に運び込まれた荷物を食堂の脇の方に持っていき積み上げておいた。
大河内所長がやってきたところで、レトルトカレーの試食を始めることにした。
参加者は、俺と堀口と大河内所長と幸田さん。それにその時食堂にいた6人ほどの若手職員たち。中辛のカレーを10個厨房に持っていき、鍋に入れて熱湯で5分温めてから、ライスにかけてくれるように頼んでおいた。間違いのないように箱の説明書も声を出して読んでおいた。
待つことしばし。4人掛けテーブルを3つくっつけて並んで座っていたら、厨房から湯気を立ててカレーライスが次々と運ばれてきてみんなの前に置かれていった。
「それじゃあ、いただこう」
「おっ! 旨い!」「旨いよ」
レトルトカレーの箱を手に取ったある職員。
「飯さえあれば手軽にできるわけか。面白い!」
これに答えるように、
「その箱にも書いてあるが、最低でも3年は傷まないらしい。つまり、無菌状態で調理したうえで、3年以上劣化しない袋に密封する必要がある。うちでもこれを作っていこうと思っているんだが、われこそはという者がいれば任せるのだがね」と、大河内所長。
その場では誰も手を上げなかったが、レトルトカレーはかなり好評だった。
「細君を家に残している所員も多いことだし、これはみんなに配るのがよさそうだな。となると、かなりの量が必要になりそうだが、山田君、そのあたりどうかね?」
そう言われて、何もできませんとは言えないので、
「次回も用意しましょう」
「無理はしなくてもいいんだからね」
「無理じゃないですから。そういえば、年末年始、ここの休みはどうなってるんですか?」
「事務関係は30日から休みに入って三が日休んで四日から出勤だ。研究員たちはその限りじゃない」
「なるほど」
「山田君たちは、どうするんだね?」
「えーと、1月の最初の土曜は元日ですから、8日の土曜に出勤します」
「了解だ」
カレーを食べ終わったところで俺たちは退散することにした。所長たちはこれからカップ麺を試食して最後にインスタントコーヒーを飲むといっていた。
俺はキャリーカートを回収してから堀口と理研を出て駒込駅に向かった。
「これからどうします?」
「カレーを食べてしまったが、ちょっと物足りないな」
「久しぶりにレトルトカレーでおいしかったですが、わたしも少し物足りないような」
「じゃあ、どこかで何か食べて帰ろうか。こっちで食べる? それとも帰ってから食べる?」
「今日は帰ってからにしようかな」
「了解」
とにかく浦和に戻らない事にはどうしようもないので、駒込駅から池袋、赤羽を経由して浦和に戻ってきた。そこから徒歩で浦和高等学校正門前まで戻り、穴をくぐって現代に戻った。
「さて、何が食べたい?」
「特にはないんだけど、先輩は休みの日には何を食べてるんですか?」
「うちだと、朝食くらいしか作らないから、昼と夜は外で食べてるけど、牛丼とか、カレーとか、ファミレスが多いな。あと昼ならハンバーガーもよく食べる」
「じゃあ、ハンバーガーにしませんか?」
「そうだな」
ハンバーガー屋は何軒かあるのだが、公園に近い方のハンバーガー屋に入ってセットメニューを頼んだ。セットメニューの内容は鶏肉の竜田揚げを挟んだハンバーガーにフライドポテト、それにコーラ。
席に向かい合って座って、出来上がるのを待っていたらそれほど待つことなくトレイに載ったセットが運ばれてきた。
「こういう商売も流行りそうですよね」
「そうだけど、自前でハンバーガーを作るのは大変じゃないか?」
「それほどでもないと思いますよ」
「そうかな」
「それにあの時代なら、かなり高級料理になりそうだし、モダーンだし」
「それはあるか。浅草とか上野が繁華街らしいから、そのあたりに店を持てば流行りそうだな」
「もし、向こうで戦争を回避できたり、回避できないまでも戦争に勝ったら、向こうで生活するのも悪くないと思いません?」
「どうだろうな。こっちの便利さに慣れている以上、最初はよくても、すぐに不便を感じるんじゃないか?」
「そう言われれば」
「こっちで大災害とか、大地震があって、疎開するなら否応なしだけどな」
「ですね。その時わたし、先輩と離れ離れだったら逃げられないんですけど?」
「その時は何としても公園前までやって来い。迎えに行くから」
「お願いしますよ」
「任せてくれ」
ハンバーガーを食べ終えて、コーラを最後にジュルジュルいわせて店を出て、そこで堀口と別れた。
うちに帰った俺は、忘れないうちにと、パソコンからレトルトカレーを大量に注文しておいた。自分が食材運送業者になったような気がし始めた。
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そのころ石原莞爾は、満州経営における不安要因である奉天軍を粉砕するための方策として、巨砲をもって奉天城外北部にある奉天軍の大規模兵舎である北大営を爆砕することを考えていた。巨砲の着弾音と爆発音が兵舎に轟けば奉天軍は崩壊するという読みでもある。
そして、その具体的方法として、最新の四五式二十四糎榴弾砲(注1)を奉天城内の日本軍駐屯地である独立守備隊(関東軍)の営内に据え付けて砲撃するというものだった。
四五式二十四糎榴弾砲は分解組み立てが容易で、分解した上で多少の偽装をすれば秘密裏に奉天城内に運び込むことも容易であると石原は考えていた。もちろん、そんなことを一介の少佐風情が独断で実行できるわけはない。従って、陸軍首脳、さらにその先である政府首脳の了解を取り付ける必要があるが、理を持って利を説けば何とでもなると石原は考えていた。
注1:四五式二十四糎榴弾砲
1912年に制式化。1914年(大正3年)、第1次世界大戦における青島攻略戦で初めて実戦に投入された。




