第17話 大正15年11月、2
陸大で教鞭をとっていた石原莞爾のもとにも満州で石油が見つかったという『報』がそれほど間を置くことなく入った。
「わが策なれり!」教官室でその報に接した石原は思わず声に出した。これで足りなかった欠片が揃った。あとは満蒙を領有すればいいだけだ。これまではソ連との緩衝地帯として内蒙古を考えていた石原だったが、航空機の発達を考えれば、内蒙古では緩衝地帯として心もとない。やはり外蒙古、ウランバートルは取りたい。どうせなら、その先のイルクーツクまで。
三宅坂(陸軍省)では2個師団を関東軍に増派すると決めたようだが、それでは満蒙での権益の保護で精一杯だ。自国主義を掲げて北に向かっている国民党の動きも気になる以上、張作霖の奉天軍を粉砕したうえにソ連が保有する中東鉄道を奪取し、満州を完全領有するにはさらに3個師団は欲しい。
ただ、関東大震災からまだ3年しか経っておらず、復興予算中の今の政府には金がない。加藤友三郎によるワシントン海軍軍縮条約がなければもっと悲惨なことになっていたと思うと考えさせられる。
とにかく満州で石油が出た以上、満蒙を固めているだけで帝国の経済は上向くだろう。理研でも世界の一歩先を行くような研究を進めているし、いろいろなものがいい方向に回り始めている。必須である満蒙の完全領有のために可能な限り迅速に奉天軍を撃破し、満蒙を安定化することで、国の負担を減らす。方策はあるはずだ。
石原は、これから奉天軍の撃破について真剣に思考をめぐらすのだった。
石原の考えとは裏腹に、日本政府は2個師団の満州への増強を背景に、中東鉄道購入のため、ソ連と『折衝』するつもりだった。ただの購入交渉ならソ連に足元を見られるが、今のソ連にはわが国の精鋭2個師団を排除するほどのまともな軍(注1)を極東に派遣する能力がない以上、強気の交渉を行うことで有利な価格で購入できる。もちろんこの動きは満鉄の意向に沿うものである。
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北里研究所では、持ち込まれたアオカビを選別して有力な株を見つけ出し、その株の大量培養を進めていた。その傍ら、抽出、精製設備のひな型を作り、試験を繰り返しながら少しずつ改良を重ね、ついにペニシリンの結晶化に成功した。アオカビから抽出された抗菌物質はそのままペニシリンと名付けられ、特許局に特許出願している。ストレプトマイシンについては結晶化はまだだが同じように有力な放線菌が見つかっており、その放線菌が作る抗菌物質はストレプトミシンと名付けられている。
星製薬と理研の合弁会社である星未来薬品では、ペニシリンの量産用の製造ライン建設にとりかかっている。ペニシリンの特許が登録され次第、現在の資本金総額の五十パーセントにあたる新株を北里研究所が引き受け、星未来薬品はその払込金額に相当する代金を北里研究所に支払い、特許を継承することになっている。また、東京での特許登録を待たず、準備出来次第ロンドン、ベルリン、ニューヨークへの特許出願予定である。
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11月に入った。会社の方は俺も堀口も大過なく仕事をこなしている。
このところ、よく二人で昼食を食べているので、俺と堀口のことが課内で噂になっているようだ。他人が何をどう言おうが俺にとってはどうでもいいことなのだが、俺が良くても、堀口が困る。第三者から見れば俺は堀口にくっついた悪い虫だし。
「山田先輩、わたしたち、そういう関係じゃないんだから気にすることありませんよ」
「それはそうなんだが、俺のせいで堀口の婚期が遅れては申し訳ないだろ?」
「そもそもわたし、結婚なんて考えていませんから」
「みんなそう言うけど、そういったやつから結婚してるぞ。いやマジで、俺の同期の女子は半分以上結婚してる。そして、そのうちの半分は寿退社してる」
「そんなに言うなら、わたしが行き遅れたら引き取ってください」
「引き取るって、引き取っていいのかよ?」
「そうですよ。同じ家に住んで、清く正しく別々に暮らす。同棲ではなく同住?」
「まあ、それでもいいけれど。確かに、東京から浦和まで出てくるの大変だものな」
「そこまで大変ってことはないんですけど、あの近くに住む方が便利は便利ですよね」
「だけど、会社に行くのには遠くなるぞ」
「確かに。そういう意味じゃ、どっちでもいいです」
「それはそうと、次の土曜はむこうの三越に行きませんか? この前見たあの万年筆、かなりのプレミアムがついて売れそうなんです」
「俺は何時でもいいぞ。そうそう、俺も調べてみたんだが、あの時代やっぱりロンジンが高級品で、あの時代のロンジンもかなりのプレミアムが付くらしいぞ」
「先輩はロンジン買うんですか?」
「いや。俺はむこうの来春出るであろう、ローレックスのオイスターという腕時計を買おうと思ってる。なにせ世界初の防水時計らしいからな」
「へー。それっていくらくらいなんですか?」
「2、300円くらいじゃないかと思ってるんだが、もっと高いかもしれない」
「わたしも欲しいけれど万年筆買ったら買えないなー」
「オイスターもなくなるわけじゃないだろうし、金が貯まったら買えばいいじゃないか?」
「それもそうですね」
「それはそうと、堀口が調べた資源地図だけど、満鉄の地質調査所でしらべたところ、かなり実績を挙げているって話だっただろ?」
「調べて書き込んだだけだったから、ちょっと不安だったんですけど、見つかって良かったです」
「マグネシウム、アルミニウムといった航空機に必須の鉱山が見つかったからますます日本は資源国になるな」
「ですね。完全に歴史変わってますものね。ただ、ニッケルとクロムがないわけじゃないですが小規模だったことが残念です」
「仕方ない。中国大陸の中にはそれなりにあるんだろうが、そのために戦争するわけにもいかないし、うまくすれば輸入できるかもしれないし」
「そうですね。本当はなんでも輸入できれば一番なんですけどね」
「そうだな。必須資源を禁輸されると詰むところは現代と同じだけど、現代と違って、主要国しか盤面に登場してないから、サプライチェーンを分散することでリスク分散できないものな」
「ですね。言い方を変えれば必須資源の禁輸って宣戦布告と同じですものね」
「ドイツが始めた戦争は侵略戦争だったが、ABCD包囲網からの大東亜戦争はそういうナラティブだろ? だけどあの世界では満州の石油のおかげでその線が消えた」
「ですね」
「そういえば、来月の25日、大正天皇が崩御される。崩御された当日から昭和だ。カレンダー的には大正15年12月25日と昭和元年12月25日があるんじゃなくって、大正15年12月25日は存在しなくて、昭和元年12月25日だけが存在するようだ」
「へー。昭和元年が12月25日からだとすると、昭和元年ってちょうど一週間だったんですね」
「そうなるな。ちなみに、平成は昭和天皇が崩御された翌日からだ」
「何で違うんですか?」
「そういう風にちゃんと法律で決まってたんだが、その法律が戦後変更になったらしい」
「へー」
「昭和元年のコインはプレミアムがかなり付くだろう。そういえば昭和64年も短かったからある程度コインにプレミアムがついてるんだろうが、さすがに昭和元年には及ばないだろうな。1月以降、向こうに行ったら小銭の年号を確認したほうがいいだろう」
「1月に銀行に行って両替してもらえば新しい硬貨が入ってるんじゃないですか?」
「それもそうだな。1月になったらやってみよう」
「そうしましょう。わたし、向こうの銀行に行ったことないんですが、こっちと同じなんでしょうか?」
「同じってことはないだろうが、窓口に行って両替してくださいといえば普通に両替してくれるだろ? 手数料取るかどうかは分からないけど」
「ちょっと、スマホで調べてみます。……。銀行によるみたいだけど普通は手数料がかかるみたいですね」
「まあ、銀行って元は両替屋だったんだろうから当たり前か」
「ですね」
話ながら昼食を終え、昼休憩が終わる少し前に二人そろって会社の部屋に戻ったのだが、なぜかほかの課員たちが俺たちを見ている。好きにしてくれ。
その週の土曜日。(2027/11/20-1926/11/20)
午前8時に公園前で堀口と待ち合わせて、すぐに穴を抜けた。11月なので二人とも厚手ではないがコートを着ている。
この日の荷物は、非接触式電流クランプメーター10個と赤外線放射温度計10個で、それほど大きなものではなかったのでスポーツバッグの中に入れて持ってきた。どちらの機器も今後ニーズが高まるはずなので、便が空いたときに追加していけばいいだろう。これからは高温下での反応制御が大切になるはずなので、赤外線放射温度計は重宝するはずだ。
今日の荷物は大きく膨らんではいたがスポーツバッグ1つだけだったので、迎えのトラックの助手席に置いて理研まで運んでもらうことにして、俺と堀口は二人ともトラックの荷台に乗って浦和駅まで運んでもらった。
10時ちょっと前に理研に到着して、二人で所長室に挨拶に行った。
いつものように、大河内所長から現在の進捗状況の簡単な説明を聞いてから、いちど自室に入って、トラックが到着するのを待った。今では、堀口用の机と椅子が部屋の扉のすぐ近くに用意されている。
しばらく休憩してから、堀口を部屋に残して本館の玄関前に行ってトラックの到着を待っていたら、それほど待つことなくトラックが到着した。助手席から荷物を取りだし、それを持って幸田さんの部屋に行き、中身を取り出して簡単な説明をしておいた。
その日は理研の給料日だったので、一度部屋に帰ってから堀口と一緒に2階に上がって経理から給料袋を貰った。
「それじゃあ、日本橋に行ってみるか」
「はい」
そういうことで、駒込まで歩いていき、外回りの山手線に乗って東京駅に向かった。
いつものように東京駅の丸の内側から地下道を通って八重洲側に出て、そこから日本橋に向かって歩いて行った。
世の中は半ドンなので、まだ午前中の街はそれほど人通りはなかったが、呉服橋をすぎて日本橋を越えたあたりから人が多くなってきた。
二匹のライオンの間を通って三越の中に入っていき、堀口の目当ての万年筆コーナーに行った。
蒔絵万年筆は値段的には200円から高いものだと1000円まで。見た目はよく似てるのだが、何かが違うのだろう? その中から堀口は300円の万年筆を選んで、10円札30枚で払った。
万年筆は立派なケースに入ってそれが三越の包装紙にくるまれていく。
「領収書は大事にな。あるとないとでは買取価格が雲泥の差になるらしいからな」
「それ、わたしもネットで知りました」
「ネットさまさまだよな」
「ほんとです」
堀口は万年筆と領収書を受け取って自分のバッグにしまった。
「いくらくらいで売れると思います?」
「300円もしたんだから、現在価格だけでも100万から120万だ。最低でも300万はするんじゃないか?」
「うっひょー!」
「こら、恥ずかしい声出すな! みんなから見られてるじゃないか」
「時間旅行の恥はかき捨て」
「分かったよ。だけどあまり派手なことして警察に目を付けられないようにな。それでなくても俺たちの服装は浮いてるんだから」
「現代感覚で、すっかりそのことを忘れてました」
「俺もよく忘れるけど。それじゃあ、上に行って食事して帰るとするか?」
「先輩はやっぱり買わないんですね」
「大物狙いだからな」
「当たればいいですね」
「俺ってこの1年、ものすごく運がいいんじゃないかと思ってるんだ。あの穴が見えるようになって、金に困らず、好きなことができてる。堀口みたいな美人とこうしてデパートでデートできてるしな」
「ハッハッハ。そうですね。わたしほどの美人さんとデートできる先輩は本当にラッキーですよ」
「そうだな」
そんな話をしながら1階からエレベーターに乗って5階で降り洋食食堂に入った。
案内された席に着いて、メニューから、今日のスープのポテトのポタージュスープとオムレツとライス。そしてコーヒーを頼んだ。堀口も俺と同じものを頼んだ。
すぐにスープがやって来たので、スプーンですくいながら、
「途中にあった貴賓席ってだれが使うのかな?」
「貴賓室といってますが個室の食堂じゃないですか? そこでいいところのお坊ちゃん、お嬢さんがお見合いをするとか、どこかの重役が商談するとか」
「そうかもな。全然関係ないんだけど、お嬢さんとお坊ちゃんはいいけどお坊ちゃんの『ちゃん』を『さん』に変えたら全然違う意味だな」
「確かに。面白いー」
「いやー、そこまで面白くはないだろ」
「ですね」
「なんだよ」
オムレツにかかったデミグラソースが以前ここで食べたカツレツのソースのような? いや、おいしかったからいいんだけど。付け合わせはジャガイモの素揚げとニンジンのグラッセだった。ここニンジンのグラッセ好きだよな。おいしかったからいいんだけど。
注1:
当時のソ連の赤軍、特に満州との国境付近の赤軍は、「生活のために軍に籍を置いている、訓練不足の武装農民集団」と言っても過言ではなく、とても戦争に使えるような軍隊ではありませんでした。また、当時のソ連にとって、こういったいつ反乱を起こすか分からないような農民兵とともに日本の正規軍と戦うリスクはあまりにも高かったといわざるをえません。




