第15話 大正15年7月、5
連休明けの火曜日。
堀口は俺同様、就業時間中は『あの関係』の話をすることなく、まじめに仕事していた。
昼食時間もほかの女子たちと食事に行ったようだ。
その日の残業を終えて席を立ったら午後7時。堀口は1時間くらい前に帰宅している。
会社帰り、途中のカレー屋でカツカレーを食べてからうちに着いたら午後9時を過ぎていた。
それから風呂の用意をして、風呂から上がったら、もう10時になっていた。
このところ、1日がとっても早く過ぎ去っていく。風呂に入って頭を洗うと抜け毛が指の間によくついている。昔からそうだっただろうか? まさか、時間旅行するたびに抜けるとかないよな?
翌日からの会社勤めを無難にこなし、土曜日。
堀口とはメールのやり取りで公園前で午前7時30分に約束している。
その日、俺は2輪キャリーカートにプリンターのトナーとプリンター用のコピー用紙をのっけてうちを出た。
7時50分ちょっと前に公園に到着したら、リクルートスーツに肩にカバンを掛けた堀口が立っていた。
「おはよう」
「おはようございます。今日の荷物はそれだけでいいんですか?」
「トラックが来てるから、空荷じゃ悪いからな。あと一往復だ」
「了解でーす。わたしの方は資源地図を何とか仕上げました。ネットで調べただけなので足りないところはあるかもしれません」
「それで十分だよ。トラックはもう来てるだろうから、先にこれを運んでしまおう」
そう言って、キャリーカートから段ボール箱を下ろして、俺がコピー用紙の入った重い方の箱を持ち、堀口にはトナーの入った箱を片手で持ってもらい、もう一方の手を俺の腕に添えてもらって穴をくぐった。
予想通り、トラックが来ていたので荷物を荷台に載せ、また穴をくぐって堀口を連れてうちに戻り、堀口にはトナー入りの箱を持たせ、俺はコピー用紙の入った箱を2つキャリーカートに載せてうちを出た。
何とかそれらをトラックに載せて、今回は堀口も荷台に乗って浦和駅まで行った。
駅前にトラックを止めてもらい、運転手さんにはこのまま理研に荷物を運ぶように言って、堀口と一緒に荷台から降りて浦和駅から理研に向かった。
浦和駅から1時間ちょっとで理研に到着し、本館の中に入っていき、二人で所長室に向かった。
「おはようございます。山田です」「おはようございます。堀口です」
『入ってくれたまえ』
「今日は堀口が調べた満州の資源地図を持ってきました。それと、プリンター用紙とトナーをトラックで運んでもらっています」
そう言っている間に、堀口が資源地図をカバンから取り出して、机の上に広げた。
どこで買ってきたのか、大満洲帝國地圖(昭和12年)と表題が書かれていて、地図上に赤丸とその説明が手書きで書き込まれていた。
「ほう。昭和12年の地図か。このままではちょっと扱いに困るが、緯度経度は分かるから重宝する。ありがとう。それで、満州の石油の試掘だが、まだ石油には当たってはいないものの掘削は順調のようだ」
「それはよかったです」
「ちょっと待っていてくれたまえ」
そう言って大河内所長が立ち上がって、机まで戻ってそこから電話で秘書の幸田さんを呼んだところ、すぐに幸田さんが所長室にやってきた。
「堀口さんの社員証、その他です」と言って書類封筒を堀口に手渡した。
「給与は20日支給ですが、堀口さんは山田さん同様、20日以降経理の窓口に行けば支払われるようになっています」
「ありがとうございます」
「それじゃあ、失礼します」
「そうそう。今週の月曜なんだが、日本の最先端の科学技術が知りたいといって陸軍大学の教官をやっているという石原という名前の少佐が訪ねてきたんだよ。少佐で陸大の教官というから、相当な秀才なのだろうが、腰の低い男だったよ。それで、サルファ剤、ペニシリン、ストレプトマイシンの話をした後、冶金、合成ゴム、そして真空管に代わる電気部品の話をしておいた。いたく感動しておったよ。そういえば、君がくれた歴史年表に石原という名前があったような? どうだったかな?」
「おそらくその石原でしょう」
「なるほどな。たしかにそれなりの覇気のある人物ではあった。何であれ陸軍も新しい人に代わっていくのだろうが、そうじゃないと、軍の近代化も進まないだろうしな」
そのあたりで所長室を辞して、堀口を連れて2階に上がって経理の窓口に行き、名前を言って給料を受け取った。堀口にもちゃんと給料があった。いくら入っているとか聞かなかった。
理研からの帰り道。
「その石原さんってそんなにすごい人なんですか?」
「すごい人だったんじゃないか? たかが陸軍中佐だったとき関東軍を主導して満州国を作ったんだから。もし彼が陸軍の中枢にいたら日中戦争はなかっただろうし、大東亜戦争を指導していたら、もう少しましな戦いをしてたんじゃないか?」
「そうなんだ。そういった人との関わり合いもこれからあるんじゃないですか?」
「ないとは言えないが、こっちは完全な民間人だから、命令されることもないし。ただ、協力を依頼されればやぶさかではない」
「つまり、兵器開発に手を貸す?」
「兵器といっても色々だろ? 例えばペニシリンだって立派な戦略物資である以上一種の兵器だ」
「そう言われれば」
「近現代戦は結局は国力と科学力の勝負だ。つまり、俺たちのやってることは、もう兵器開発と区別できないんだよ」
「そうですね」
「この世界は、俺たちの世界とは分岐した世界なのだろうが、それでもこの世界の人たちの上に原爆を落とされたくはないだろ?」
「それはそう思います。だけど、その代わりに外国人が死ぬんですよね」
「そうだろうな。でも日本人と外国人、どっちを生かすか? と聞かれたら、俺は日本人を生かす。それだけだ。それで、恨まれようが悔いはない」
「達観してますね」
「今そう思っていることが、将来も変わらないとは言えないけどな」
「とにかく、わたしは行けるところまでついていきます」
「堀口は、俺以上に責任ないんだから、軽い気持ちでいいからな」
「はい。それはそうと、お給料出ましたから、どこかに食べにいきますか?」
「そうだなー。日本橋か銀座に行って、アンティークを仕込んで貿易してみるか?」
「それいいですねー。でもわたしの今の給料だとさすがにローレックスは無理ですよね」
「ローレックスは無理でも、何かほかに100年後にプレミアムが付きそうなものがあるかもしれないぞ」
「そうですね。それじゃあ、行ってみましょう。それで、どっちに行きます?」
「そうだな。山手線で東京駅まで行って日本橋まで歩いて行ってみるか?」
「じゃあ、そうしましょう」
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
駒込から山手線の外回りに乗って上野経由で東京駅まで出た。
八重洲方面に行こうと思ったら、地下道があって、そこを抜けて八重洲方面に出たらそこには駅も何もなくてただの広場だった。よく分からないが、とにかく広場を左に向かって歩いて行ったらすぐ先に呉服橋という橋がかかっていた。呉服橋って本当に橋だったんだ。その先を歩いて行ったらちゃんと日本橋がかかっていて、その先に立派な西洋建築が建っていた。日本橋三越だ。
日本橋三越の前の中央通りには路面電車が行き来しているのが見えた。
日本橋三越は、驚くほどどっしりした建物で、ちゃんと正面玄関の左右にブロンズのライオンが寝そべっていた。
「やっぱり三越ですね」
「三越だな」
横から入口があったのかもしれないが、二匹のライオンの真ん中を通ってデパートの中に入っていった。
入り口脇に店内案内があったので見たところ、
7階:屋上庭園:三囲神社。三越写真室、理髪室・美容室
6階:美術部、特別食堂、催事場
5階:貴賓室、洋食食堂、喫茶室、演芸場
4階:家具、家庭用品、寝具
3階:子供服、玩具、洋品、楽器当時の流行最先端。蓄音機やピアノ
2階:呉服(着物)、帯、反物
1階:時計、宝石、万年筆、化粧品
「衣料品とかじゃあまりうまみはないだろうから、1階を見て回って、5階の食堂で昼にしようか」
「そうですね」
そういうことで、1階を見て回ることにした。
時計は宝飾品のようなものなので、ここでも時計売り場の隣で宝飾品が売られていた。
「ローレックスってやっぱり高いですね。オメガはオメガだ。でもロンジンが全般的に高い!」
「そうなんだ。ちょっと意外だな。ということはこの時代ロンジンが時計界の王者だったのかもな」
「そうかもしれませんね。何にせよ今のわたしじゃ買えないですけどね」
「こっちで金を使うことなんてあまりないから、すぐに金は貯まるよ」
「それもそうですね」
「宝石も宝石だけあってやっぱり高い」
「宝石だしな。その代わり、現代に持って帰ってもあまりプレミアムはつかないんじゃないか?」
「でも先輩が貰ったっていうカルティエの何とかいう宝石セットはすごかったじゃないですか?」
「すごかったのは確かだが、元値もそれ相応だったと思うぞ」
「確かに」
「宝石はうまみが薄そうだけど、そこで売っている万年筆はどうだ? あれって蒔絵っていうんだろ? かなり高級に見えるぞ」
「あっ! 本当だ! 芸術品って感じがする。どれどれ。……。これも時計と同じだ!」
「本当だな。でも、これはそうとう高く売れそうだぞ」
「今日は確認だけして、帰ったら相場を調べてみます」
「そうだな」
ざっと1階を見て回った後、せっかくなので、正面玄関の真ん前にあった上りエスカレーターに俺が前になって乗っかった。幅が狭かったし足下は木製だった。
2階に上がったら店内案内通り呉服関係だった。俺にも堀口にも無縁そうだったので、そこから奥の方に移動してエレベーターを見つけ、それに乗り込んだ。エレベーターの扉は真ちゅう製の柵で開閉はもちろん自動ではなくエレベーターガールならぬ、エレベーターおじさんによる手動だ。さらに驚いたのはエレベーターの昇降もエレベーターおじさんが受け持っていた。とはいっても客から見れば自動ではある。
目当ての5階で降りて洋食食堂に入ったらすぐに女性店員がやってきて真っ白なクロスのかかったテーブルに案内された。そこでメニューを見て、二人ともコンソメスープとカツレツにライス、デザートにアイスクリームを注文した。メニューに『店員への心づけは無用に願います』と書いてあった。チップが要らないようでちょっと得した気になったが、そもそもメニューに書かれていた値段はかなり高い。
すぐに緑茶がテーブルに置かれ、続いて、スープスプーン、ナイフにフォーク、そしてアイスクリームスプーンが並べられ、ナプキンが置かれた。おそらくカトラリーは銀製だ。それからそれほど待つことなくスープが運ばれてきた。
スープをスプーンですくって口に運んだところ『うまい!』思わず声が出るところだった。
向かいに座る堀口も驚いたような顔をしていた。この時代のシェフは侮れないようだ。
空になったスープ皿が下げられてカツレツとライスが運ばれてきた。カツレツには最初からデミグラスソースがたっぷりかかっていて、付け合わせは、丁寧に面取りされたニンジンのグラッセとマッシュドポテトだった。
「このマッシュドポテト、おいしいな」と言ったら、「それ、マッシュドポテトと言えばそうなんですが、裏ごししてバターやクリームで味を整えてますからポテトのピュレって言うと思いますよ」
「そうなんだ。堀口、詳しいな」
「たまたま知ってただけです」
「そうか。案外といっちゃ失礼だが、堀口はいい奥さんになりそうだな」
「それだけはないです」
「まあ、そういうのは個人の自由だけどな」
「ところで、先輩はその辺のこと、どう考えてるんですか?」
「俺も堀口と同じで、それはない」
「そうなんだ」
「だって、趣味が趣味だろ?」
「確かに!」
「ハハハハ」「フフフフ」
その日は東京駅から山手線の電車に乗って上野まで行き、そこで汽車に乗り換えて浦和まで帰り、そこから浦和高等学校まで歩いた。
「それじゃあ、堀口」
「それじゃあ」
穴を抜けて公園前で堀口と別れた。堀口はこれから帰るの大変だ。あいつもこの辺に引っ越せばいいのに。さすがにそれはやり過ぎか。
後日。理研では堀口の作った資源地図の写しを作り、満鉄東京支社を通じて、満鉄本社のある大連に同じく本部を構える満鉄の地質調査所に写しを送った。
日本橋三越の風景
https://www.youtube.com/watch?v=glwQfZMyfR0




