29、ただ勝利を
日が昇る頃には、雨は降りやむ兆しを見せていた。
雨音が、空気の質感が、あるいは適応により身につけた第六感がヒデカツにそれを知らせていた。
不思議なまでに心は落ち着いている。明鏡止水の境地とまではいかないが、緊張や恐怖はほとんど消えていた。
昨夜のうちに作戦は立てておいた。戦う場所も、確実にトドメを刺すための手順も完璧に決めてある。
ルーネがいなければ成り立たない作戦だが、ルーネの協力さえ得られれば確実に勝てる。
窓の外には薄暗闇の街並がある。夜明け前の冷たい空気は不安を覚えさせるものだが、今のヒデカツには身体が冷えてちょうどよかった。
「……本当に俺は手伝わなくていいのか? こういっちゃなんだが腕っ節はそれなりに――」
「気持ちだけありがたく受け取っとくよ。その代わり、オレが失敗したらルーネやフェリアを頼む」
声を掛けてきた店主にヒデカツはそう答えた。
「そうか……骨は拾ってやる、やりたいようにやってきな」
「ああ、ありがとう」
礼を述べると、ヒデカツはコップの水を飲み干す。
覚悟は決めた。手順は全て頭に入っている。武器も腰に差して、装備も完璧だ。
問題はない。考えるべき事は全て昨夜のうちに考えてある。もし何か問題があれば敗北は避けられないが、そうならないためにできることはした。
なかば、自棄のようなものだ。こうなればなるようににしかならないというのがヒデカツの心境だった。
「――旦那様、お待たせいたしました」
「…………おう」
階段から降りてきたのはルーネ、手にしているのは彼女にとっての武器である白枝の杖だ。
「……あれ、お兄ちゃんとお姉ちゃんどこかいくの?」
「あ、ああ、ちょっと、あー、買い物にな」
瞼を擦りながら階段から顔を出したフェリアにヒデカツはそう言い繕う。
これから戦いにいくとは彼女には教えられない。すべてを彼女が知るとすれば、何もかもが終わった後だ。
「でも……二人とも怖い顔してるよ……?」
「そんなことないさ。ちょっと緊張してるけどね」
嘘をついても、二人の変化は子供であるフェリアにもはっきり分かる。
二人が帰ってくることはもうないのではないか、そんな不安が幼い心に強く焼きついていた。
「……ちゃんと帰ってきてね」
「…………ああ、約束するよ」
それを拭い去るように、ヒデカツは確証のない約束を口にする。正しくはなくとも、今はその言葉が必要だった。
「……じゃあ、行ってくるよ」
「おう、行ってこい」
ドアを開けて、二人は街へと出る。決意に満ちた背中は店主にはひどく見慣れた眩いものだった。
◇ ◇ ◇
早朝の街を二人は足早に進む。戦場として選んだのはすでに無人となった街の東側だ。遮蔽物が多く、戦いやすくはある。
薄暗さは味方だ。霧の身体で人間と同じように五感があるとは思えないが、少なくとも誰かに見られる心配は少ない。
「……しつこいけど、本当にいいのか? 命懸けだし、君を守れるとは保証できないし、報酬もないぞ」
「はい、構いません。私の運命は旦那様と共に」
最後の確認をするヒデカツに、ルーネは毅然と答える。
ヒデカツがこれまで感じていた違和感や強がりはそこにはない。今の彼女は素のままでヒデカツに接している。
彼女の強固な信念は生来のものだ。傷付いてもなお進み続けるからこそ彼女はヒデカツに出会うことができた。
「……そうか。その、ありがとうな」
「…………礼を申し上げるなら私のほうです。旦那様は私を救ってくださいました。身体だけでなく心も」
東側に繋がる門の前でルーネは立ち止まる。
ここから一歩踏み出せば、戦場だ。一度戦いが始まれば悠長なことはしていられない。
「……旦那様は、私にお聞きになりたいことはないのでしょうか?」
「……聞くべきことは聞いたからな。けど、話したいことがあるなら聞くよ」
ルーネの心中を察して、ヒデカツが促す。
ルーネがしようとしているのは告解だ。人生においてたった一つだけ犯した罪をヒデカツに打ち明けようとしていた。
「……私、実は……」
「ゆっくりでいいよ。時間は……まあ、あんまりないけど」
焦る心を押し殺して、ヒデカツは続きを待つ。
「……わ、私、砂漠で死のうと思ったんです。人や生き物には私を殺せなくても砂漠の熱なら……そう思ったんです……」
「……うん、そうじゃないかと思ってた」
ルーネの告白をヒデカツは静かに受け止める。
彼女があの砂漠で何をしていたか、ヒデカツとて考えなかったわけではない。
乏しい食料と水、ヒデカツの見た限りルーネの乗っていた馬車には生き残るための手段が決定的に欠けていた。
そこまで考えたところで、ヒデカツは思考を止めていた。
ルーネが何をしようとしていたかは分かっていても、その事情を知る気はなかった。
だが、今は違う。互いに背中を預けあう以上、ルーネの事情を背負う責任がヒデカツにはあった。
「……十八歳になっても運命を見つけられなかったら、誰にも見つからない場所で一人で死のうと決めてたんです。恥ずべき事であるのは分かっていました、でも、これ以上は探せないと思って……」
気持ちが分かる、とは言えない。
ヒデカツには自ら命を絶とうと考えた経験はない。どのような状況であれ、自分の人生に一定の満足感を抱いてきた。
ゆえに、想像することしかできない。何の慰めにもならない言葉をかけるのはヒデカツの主義ではなかった。
「諦めていたんです。生きることも、運命も、なにもかも……だから、魂を焼かれるのも当然だと思って……」
表情にあるのは罪の意識ではなく過ぎ去った昔を思い出す寂寥感だ。その選択に後悔はない。運命と、ヒデカツと出会えた以上間違いではなかったのだから。
「……でも、旦那様は、ヒデカツ様は私を見つけてくださいました。あの広い砂漠で貴方だけが私を見つけてくれました」
眼帯を外したルーネは精一杯の微笑みを、ヒデカツに向ける。
あの瞬間に望みは叶っていたのだ。まだ望むことがあるとすればこの奇跡の継続、そのためならばどんなことでもできる。
「だから、私の命も、心も、旦那様のものです。旦那様が戦われるのなら私も共に戦います」
「…………運命共同体ってことか」
すべてを聞き届けたヒデカツは、静かに天を仰ぐ。ルーネはすでに命も心も託していた、覚悟を決められていなかったのはヒデカツのほうだ。
「おっちゃんの言うとおりだったな。自分の手で守るほうがいい」
宙をにらんで、拳を握り、静かに笑う。
もし言葉を尽くしてルーネを遠ざけたとしても彼女はきっと戻ってきただろう。
か弱く見えても彼女は最後には立ち向かう人間だ。
ならば、共に戦うほうがいい。自分自身のために、ルーネのためにもそれが最善だと今は信じられる。
ぽつぽつと降る雨が頬を叩く。雲の切れ間からは灼熱の太陽が顔をのぞかせていた。
「……オレも君を見つけられて良かった」
「は、はい、私も旦那様で、ヒデカツ様で良かったです!」
最初は予言だけの繋がりだったかもしれないが、今は違う。長い月日を過ごしていなくても、それでも互いを理解している。
ヒデカツにとってはこの世界で得られた最初の仲間、ルーネにとって暗闇に生まれた暖かな陽だまり。認識と意味は異なっても、お互いが必要だという事はハッキリしていた。
雨はもうじき降りやむ。そうなれば戦う。そして、勝つ。すべきことはただそれだけだ。




