つとめて
寅の刻に目が覚めた雪子は昨日の出来事が一瞬、全て夢だったのではないかと錯覚した。
外はまだ夜明け前で薄暗いが、夜目が利くので周りに何を置いているのか分かる。
衣桁にかけていた長袴と袿を手にとり、手探りのまま着替えて、櫛箱から櫛を取り出して鏡を見ないまま手早く梳いていく。
今日も動くことが多いかもしれないため、腰辺りで紅紐を使って髪を軽く括ってから廂へと出て、蔀を少しだけ上げてみる。
遠い向こう側では空がほんのりと白んできているようだ。
とりあえず、出仕すると言っていた一成たちを起こしてきた方がいいのか迷ったが、西の対屋へ向かう渡殿を通っていると、微かに足音が聞こえた。
その足音は雪子に気付いたのか更に近づいてくる。
「あ……もう、起きていらっしゃったんですね」
一昨日の日暮れに見た時と同じ束帯姿で一成が軽く会釈してくる。
「おはようございます。いつもこのくらいの時間帯に起きるのですか?」
「いえ……出仕の時間はお早いと聞きましたので、準備のお手伝いをしようかと……」
「あぁ、そうだったのですか。それは少し惜しい事をしました」
「え?」
一成は悪戯をした子どものように小さく笑う。
「ですが、もし私が寝坊していても姫君が起こしに来てくださるなら、安心して寝坊できそうですね」
「それは……」
からかう口調で一成はそう話すが雪子は小さく俯いて視線を逸らした。台盤所へ向かう途中だったのだろう。一成の隣を雪子は並んで進んでいく。
「私ども兄弟は早起きの者が多いのです。まぁ、三成は少し寝坊しやすいのですが、じきに明次が起こしてきます。そういえば、昨日の夜はよく眠れましたか?」
「えっ? あっ、はい……」
「それは良かった。うちの弟達があまりにも嬉しくて夜遅くまで騒いでいましたから」
「ふふっ……でも、声は微かに聞こえていました。とても楽しそうでこちらとしても嬉しい限りです」
七尾と八代は夕凪と小竹と同じ東の対屋で休んでいたが、こちらも年が近い者同士で話に花が咲いていたのではないだろうか。
「一成様はよくお休みになられましたか?」
「えぇ。弟達を寝かしつけていたら、いつの間にか寝ていました」
台盤所へ行くと、鼻に温かい匂いがかすめる。
そこでは小竹と浜木が朝餉の準備をしていた。
「あ、姫様……と、一成様、おはようございます」
「おはようございます。朝餉は出来ていますが、召し上がられますか」
「はい。あぁ、お膳は自分で運びますよ。……そろそろ弟達も起きてきますので」
「分かりました。姫様も召し上がられます?」
小竹が膳を一成へと渡す。
今日は粟のお粥に焼いた鰯、瓜の漬物と干し蕪の羹のようだ。
本当ならば、貴族の地位である一成達には白米を食べさせたいが、何せ今の自分には手が届かないもののため、仕方がない。
「膳を運ぶのを手伝ってから食べるわ」
すると足音が次々に聞こえ始める。
最初は夕凪達がやってきて、出仕しなければならない明次が三成を引きずるようにしてやってくる。寝起きが悪いのは本当らしい。最早、寝ている状態である。
「おはようございまーす。良い匂いですねー!」
「あぁ、おはよう。ほら、三成はちゃんと起きなさい。七尾、八代、お膳を運ぶのを手伝いなさい」
「はい」
幼い少女達は率先して膳を運んでいく。その物音で起きたのか、寝ていた弟達と一緒に志木まで起きてきた。どうやら、昨日は一緒に寝ていたらしい。
「ほら、顔を洗って来い、顔を!明悟!そっちは寝殿だぞー!台盤所はこっちだ!成久!目を瞑ったまま歩くな!」
良明が下の弟達を両手に抱えるようにしながら、台盤所まで連れてくる。
「おや、皆起きてしまったのか。お前達はもう少し、寝ていても構わないよ。昨日は遅くまで起きていただろう?」
再び膳を取りに来た一成が苦笑しながら寝ぼけている弟達の頭を撫でていく。
「だって、一兄たちが起きてるのに、俺達だけが寝てるのもなぁ……。それに今日は志木と一緒に草むしりしなきゃいけないからな。ここの屋敷は広いから、気合入れていかないと」
どうやら今日は屋敷全体の草むしりをしてくれるらしい。中々、手が回らない所を嫌な顔せずにやってくれるのでとてもありがたい。
「では、私達の留守中は弟達をよろしく頼むよ。あと姫君の言うことをちゃんと聞くこと」
「分かってるって。ほら、早く朝餉を食べないと遅くなるぞ」
「そうだな……。それでは、お先に朝餉を頂きますので」
そう言って一成は西の対屋へ戻っていく。
「全く、いつまでたっても一兄の心配性は直らねぇなぁ」
独り言のようにそう言うが、その顔は満更でもなさそうである。
「姫様、草むしりのほかに何か仕事があったら、何でも言って下さい。下の弟達が言う事聞かなかったら、叱ってやってもいいんで」
良明は一成が去っていった方向を見ながら、深く溜息を吐く。
「お手伝いして下さるのはとても助かります。でも、折角なので、好きな事をしていて構わないんですよ」
「……姫様は優しいな」
聞こえるか聞こえないかくらいの小声で、良明が呟く。
「え?」
「じゃあ、草むしりが終わって、庭を綺麗にしてから小夏丸を置いておく小屋でも作ろうかなー」
雪子が運ぼうとしていた膳を良明はひょいっと取り上げてしまう。
「……姫様にお願いがあるんだ」
「なんでしょうか」
歩みを止めて、良明はこちらを振り返る。
「俺達、向こうじゃ、あまり好きな事が出来なかったんだ。……あの場所にはどうしても人の目があったから」
その言葉が人事ではないように思えて、雪子は唇を小さく噛む。
「明悟は動き回ることが好きだし、睦明は勉強するのが好きなんだ。七尾と八代はまだ、縫い物も香合わせも楽器も出来ないからやりたがっているし、成久は誰かと遊ぶ事が好きだ」
兄弟の事をよく見ているのだろう、その横顔は一成にそっくりだった。
「だから、もし、皆がこれをやりたいって言ったら、やらせてもらえると嬉しい」
ずっと、我慢してきたのだろう。
本来、彼らの立場ならば、遠慮も我慢もいらないはずなのに、幼い時から動きに制限が付けられていることは本当に窮屈だと思う。
「……勿論です。ここでは、誰も咎めたりはしませんから」
「うん」
そう返事する良明の表情は明るく、世話焼きの兄の顔ではなく、一人の少年としての表情をしていた。 膳を運んでいる後ろ姿を見送りながら、雪子は知らないうちに拳を握り締めていた。




