いぬ
普段、使っていない北の対屋以外の場所の掃除を終えた面々は、干してあった畳をそれぞれ自分が住まう場所へと荷物と一緒に運んでいった。
こういう時は男手がたくさんあると本当に助かる。今まで女しかいなかったため、何かと不便な時もあったのだ。
寝具などは向こうで使っていたものを持ってきているようだが、几帳や円座は足りないため、新しく買わなければならないだろう。他にも揃えていかなければならないが、特になくても気にしないのか、それともあるもので楽しんでいるのか、幼い兄弟達にとっては新しく住まう場所の方が気になるらしく、東の対屋から寝殿、西の対屋を何度もぐるぐる回っていた。
「姫様、お膳を運んでも宜しいでしょうか?」
夕餉の準備が出来たことを知らせにきた夕凪が御簾をくぐってやって来る。
「えぇ。あぁ、そうね……。それなら、台盤所から一番近い西の対屋で……」
言葉を言いかけたその時、外で子ども達が騒ぐ声がしたのだ。
雪子と夕凪は顔を見合わせ、何事かと簀子近くまで出てみると、庭で騒いでいたのは兄弟達と志木だった。
その中には小さな犬を抱えた睦明もいる。
「どうしたの?」
雪子が声をかけると、皆一斉に振り返った。
「いやぁ、それが……」
明次が口を開く前に睦明が頭を下げる。
「姫様っ! あの、ごめんなさいっ!」
よく見ると、その犬の首には緋色の紐が結ばれていた。飼い犬なのだろう。
すると、全ての様子を見ていたのか七尾が傍までやってきて、雪子に耳打ちしてくる。
「皆で蹴鞠をしようと、入れていた唐櫃を開けたら小夏丸が入っていたんです。……多分、睦兄がこっそり入れていたんだと思います」
「そうなの……」
目の前までやってきた睦明は泣きそうな声で必死に訴えてくる。
「実は前のお屋敷で、犬を飼っていて……。でも、こっちに移るなら、どうしても連れてきたかったんですっ」
「睦明、小夏丸は貴明に世話を頼むって約束しただろう?」
騒ぎを聞きつけたのか、西の対屋で荷物の整理をしていた一成が困った顔で階まで降りる。
「でもっ、でもっ……」
何か理由があるのだろう。
雪子は睦明の目の前に座って、にこりと笑う。
「どうして連れてきたいと思ったのですか?」
優しくそう問いかけると、睦明は一成の顔を気にしながら、静かに答えはじめた。
「あの……小夏丸は、本当はとても頭の良い子なんです。でも、向こうの女房は犬が嫌いな人が多くて……。従兄弟の兄上は置く事を許してくださったんですけど、もし少しでも吠えたりするだけで、寝殿の殿にとても酷く仕打ちされるんです。何もしなければ吠えたりしませんっ! 絶対に意地悪されて、怒ったから吠えたんです!」
早口になっている口調には、悔しさが紛れていた。
彼なりに、この犬を守りたいと思ってここへ連れてきたのだろう。
「触っても、大丈夫かしら」
「え? あ、はい。怒らせるようなことがなければ噛んだりしないので……」
驚かせないように雪子は小夏丸の顎を優しく撫でる。白毛で瞳はまん丸の小夏丸は大人しく尻尾を振っているだけで、特に暴れたりなどしない。毛並みも綺麗で整えられているのは、きっと大事に育てられてきたのだろう。
「床に上げるのはあまり出来ないけれど、ここの庭なら好きに放していていいと思うわ」
優しくそう告げると泣きそうだった睦明は溢れそうなほど笑顔になる。
「良かったなぁ、睦!」
明次が睦明の頭に手を置いて、髪をぐしゃぐしゃにしながら撫でる。睦明は小夏丸をぎゅっと抱きしめたまま何度も頭を下げながら、ありがとうございますと呟いた。
他の兄弟も少しほっとしたような表情で胸を撫で下ろしていた。
「……でも、夜は寒いだろうし、囲いと屋根くらいは作った方がいいかもしれない」
ぼそり、と今まで一度も言葉を話さなかった三成が皆に提案する。
「そうだな。そういえば、小竹さんが貰って来た板が余っているなら、それで作ればいいか」
「それなら、布を入れて暖かくしてあげようよー」
「小夏丸にご飯はありますか?」
とことこと成久が雪子のもとへやってくる。睦明だけではなく、兄弟皆で小夏丸を可愛がっていたのだろう。
「えぇ、ありますよ。確か、今日は鰯の干物があったので、それを粟と一緒に混ぜたものをあげましょうね」
「はいっ」
「では、皆さんもそろそろ屋敷の中に入ってください。夕餉の膳は西の対屋に運びますので、手が空いている方は台盤所までお願いします」
雪子の声に各々が階を上って、台盤所へと向かう。
最後に残ったのは雪子と一成だけであった。
「……すみません、犬を連れてきてしまって……」
「いえ、大丈夫ですよ。小夏丸、大人しくて良い子ですから。……とても可愛がられているんですね」
「えぇ、まぁ……。元々は捨て犬だったんです。それを睦明が拾ってきまして、皆の弟のように可愛がっていました。……ですが、たまに心無い者が小夏丸をいじめるのです。兄弟達はそれが嫌でしたから」
「それなら、わたくしもきっと無理でも連れてくると思います」
秋の色へと変わりつつある庭を見つめながら、静かに答える。
子ども達の声はそれほど遠くはないはずだが、二人で言葉を交わしているといつも周りの音が消えてしまう。
「ありがとうございます、置いて下さって」
隣に立つ一成は口元を緩め、穏やかにそう告げる。その言葉は小夏丸のことを言っているのかそれとも自身のことを言っているのかは分からない。
「一成様のご兄弟は皆、良い方ばかりです。わたくしが今まで出会ってきた人達がまるで嘘のよう……」
いつもは日々の糧を得るために、縫い物の仕事を色んな所から引き受けて、その日を凌ぐことだけを考えて生きていた。
だが、今日は違う。
丸一日、掃除や片付けしかしていないはずなのに、なぜか充実感があった。
「……何かあったら、誰にでもいいので申しつけ下さい。私の兄弟は動くことが好きなものばかりですので……。あぁ、あと、私と明次、三成の出仕の時間は早いですので、朝に軽めの食事をお願いしても宜しいでしょうか」
「畏まりました。宿直などもございますか?」
「えぇ。私も兄弟も宿直の日にちがずれる時がありますので、その時は事前に言っておきますね」
秋は日が暮れるのが早い。
ふと思えば、昨日の今頃の時間に自分と一成は出会ったのだ。たった一日で、まさかこんな風に生活が始まるとは昨日の自分なら微塵も思っていなかっただろう。
「では、わたくし達も西の対屋へ参りましょうか」
「姫君もですか? 寝殿で召し上がられるのかと思っていました」
少し驚いたように一成は自分の方へ振り返るが、そこに困惑の色はない。雪子は小さな笑みを浮かべて一成だけに聞こえる声で囁くように言った。
「えぇ。……一人で食べるよりも、皆さんと一緒に食べたいのです」




