第55話 神なんか一人でいい
潮の匂いが、強くなっていた。
夜の港は静かだった。
灯台の光が、一定の間隔で海をなぞっていた。
「……私は、ここまで」
フレイヤが立ち止まった。
オレ達の少し前。
岸壁の端で、海を背にして振り返る。
「先は、“神の道”よ」
軽く笑って言った。
でも、その声はほんの少しだけ硬い。
ミラが眉をひそめる。
「一緒に来ないの?」
フレイヤは首を横に振った。
「私が行くと事が難しくなるわ。ここから見ているわ。行ってらっしゃい」
その瞬間──
風が、止まった。
波の音が、一瞬だけ消える。
そして、フレイヤの姿がふっと揺らいだ。
まるで、そこに“最初からいなかった”みたいに。
「……消えた」
ミラが呟く。
オリビアは無言で前を向く。
「行こう」
オレ達はブリッジ・オブ・ガルズに向かって歩き出した。
「あ」
ミラが指差した先、歩道の真ん中に尻尾を振るルンリスがいた。
まるで、オレ達を待っていたかのように。
ルンリスは当たり前のように、オレ達を導いた。
「ルンリスは、オレ達を拒否してない?」
「そうみたいだね」
しばらく歩くと、あの丘が見えた。
ミラが息を漏らす。
「ブリッジ・オブ・ガルズ」
オリビアが呟く。
「ビフレスト、本当に現れるのか」
オレは歩を進めた。
「行こうぜ」
ブリッジ・オブ・ガルズ。
ルンリスが、壊れた石畳の真ん中にちょこんと座ってこちらを振り返った。
オレはため息を吐いた。
「静かすぎるな。何もねえ……」
その瞬間、ルンリスの背後に白い霧がふわりと立ち上り、輪郭を形作った。
同時に、空気が重くなりオレ達の体を締め付けた。
「誰だ?」
《神格反応:検知》
現れた白銀の鎧が、夜の闇の中で静かに光を放った。
長身。揺るがない直立。
まるで大地に打ち込まれた杭のように、微動だにしない。
すべてを見通しているように、ただ静かにこちらを射抜いていた。
手にした槍は構えられていない。
それでも、そこにあるだけで“越えてはならない境界”を示していた。
──神が、立っている。
オリビアとミラが口を開いた。
「ビフレストの番人」
「ヘイムダル」
ヘイムダルと呼ばれた神は静かに、そして重く口を開いた。
「去れ、ワイルドブラッド。ここは通れぬ」
「関係ねえ。どけ」
ヘイムダルは、オリビアに視線を移した。
「ヴォルヴァ。ワイルドブラッドなどと行動を共に、一体何をしておる。役目を果たせ」
オリビアの眉がピクッと動いた。
「……」
「テュールの声を聞く者が、混沌を呼び込むか」
オリビアは押し黙っていた。
「ヴォルヴァの本懐を忘れれば、お主はただの人に過ぎぬ」
槍がわずかに傾いた。
「混沌をもたらすワイルドブラッドに手を貸すのは、神への裏切りぞ」
「裏切り……」
「そうだ」
ヘイムダルは、ミラに視線を移す。
「ワイルドブラッドを神話に近づけるとは、なんたる過ち。お主の行為は、世界の均衡を崩し、神話を──世界を傷付ける」
ミラは反論した。
「世界は……ラグナロクによって終わるんでしょ? だったら傷付けるも何もない。違いますか?」
「ヴォルヴァが、その程度の理解でどうする? お主らは、神の声を聞く者。神話の行く末に踏み込む者ではない。さあ、そのワイルドブラッドを連れて、去れ」
オレは大きくため息をついた。
「話は終わったか?」
ミラとオリビアがオレを振り返った。
「長えんだよ、てめえの話は。おっさん」
「ワイルドブラッド」
「てめえの理屈は聞くに値しねえ。ただ、黙ってそこを退け」
「翔くん……」
「いいか、てめえら神は正しくねえ。てめえらが正しいなら、神なんか一人でいい」
「ほう」
「勝手な神々の言うことなんか、聞く価値ねえってことだ」
オレはヘイムダルを指差した。
「てめえらの理屈のせいで、神話の狭間で死んでいるヴォルヴァがいる。傷付いてる人間がいる。そんな神話なんかいらねえんだよ」
ヘイムダルは息を吐いた。
「低俗な反論だ」
「黙れ。ミラとオリビアの代弁をしてやる。てめえら勝手な神の言い分なんかもう聞いてらんねえんだよ。聞いた挙句、ラグナロクだと? ふざけんな。今度は、お前らが聞く番だ」
オレは拳を握った。
視界が緑に染まる。
「もういい──そこどけ」
オレは低く構えた。
「どかねえなら、ぶっ飛ばす」
オレの横でミラが呼応するように小さく呟いた。
「ヴァルキリー」
ミラの手に白銀のレイピアが舞い降りる。
ヘイムダルは、ミラに視線を移した。
「解せぬ。なぜヴァルキリーなどがヴォルヴァに力を貸す」
ミラはキッパリ返す。
「知らない。でも──気に入らない」
ヘイムダルはミラを見下ろした。
「ヴァルキリーのヴォルヴァ如きが──我々を否定するか」
「オーディン様が、ガラムウプサラで私を操ったこと。そして戦いの盤上を勝手に閉じたこと。あれはやりすぎ。謝って」
「オーディンが? ──お主……まさか」
「それだけは、問いに行かせてもらうから。オーディン様に!」
その横で、オリビアが地面に手を伸ばした。
「テュール──」
ヘイムダルの眉がピクリと動いた。
「アースガルドのヴォルヴァが、このヘイムダルに剣を向けるか?」
オリビアは真紅のロングソードを握った。
「ヴォルヴァは……神の操り人形じゃない」
オリビアは一歩、前に出る。
「だから、私は選ぶ」
一瞬だけ、翔を見る。
「世界も神も関係ない……」
剣を構える。
「……私は、翔を助ける」
「そういうことだ、おっさん」
「北欧神話──お前ら神々は、傲慢だ」
「なんだと?」
「だからラグナロクなんてもんが起きるんだろ」
「ワイルドブラッド……貴様、終末は神々のせいだと言いたいのか?」
「ああ、そうだ」
一歩、踏み込む。
「避けられないとか言っといて──楽しんでるだろ、お前ら。いや、むしろ──てめえらは、その思想の中でしか存在出来ねえ」
「その誤解、罪深い。ワイルドブラッド、貴様は大きな勘違い──」
「もういい……黙れ、おっさん! てめえの御託はもういらねえ! オレはもうわかってる。てめえら神が変われねえこともな」
一歩、踏み込む。
「オレはお前をぶっ飛ばしてでもアースガルドに行く──ワイルドブラッドだ」
風が止まり、雨が止んだ。
「……道を開けろ」
さらに一歩。
「てめえは、自然に逆らうな」
「……自然、か。よかろう」
ヘイムダルは槍を静かに構えた。
「ならば──越えてみせよ」
オレは思わず笑った。
「はは、おっさん。言いたいことがあるのは、オレ達だけじゃねえみたいだぜ」
その瞬間、オレ達の背後で黒い霧が渦巻いた。
地面が揺れ、闇夜の黒がさらに濃くなる。
《敵性存在:検知》
ヘイムダルが唸る。
「ヘルヘイム、か」




