第54話 追っていたもの
雨が止んだ昼下がり。
ストックホルムの駅構内で、ミラが腕時計を見た。
「どうする? まだ連絡船の運行は延期って表示されてる」
オリビアが首を振る。
「おそらく今日はもう、ビルカへ向かう連絡船は動かないと思う」
オレはなんとなく空を見上げて呟いた。
「なあ、ミラ。オリビア」
「ん?」
「オレ、なんとなく……今日行ける気がするんだ。ビルカ」
ミラとオリビアは顔を見合わせた。
「どうやって?」
「もう連絡船が出ないんだよ」
「だよな。でも──行ってみないか、港まで」
ミラがキョトンとした表情でオレを見る。
「変なの。連絡船が出ないのに? しかも着く頃には暗くなってくるよ」
「ああ、だよな。オリビアはどう思う?」
「翔が行きたいなら、行ってもいいけど……」
「じゃあ、行ってみようぜ」
──オレは半ば強引に港へ向かった。
ミラが言った通り、ビルカへ向かう連絡船はなかった。
静かに閉じられた桟橋へのゲート。
ミラが呟く。
「ほら。仕方ないね。明日出直そう」
その……はずだった。
「あれは?」
オリビアが薄暗くなった海を指差す。
小さなボート。
一隻だけ、不自然に浮かんでいた。
「あんなボート、あったっけ?」
オレはニタリと笑って、二人を振り返る。
「翔くん、まさか……あれで?」
ミラがオレを見る。
オレは少しだけ笑った。
「他に選択肢あるか?」
桟橋のゲートは、出港禁止の赤いランプが点滅している。
「やっぱ無理だよ、翔くん」
ミラが小さく言う。
「戻ろ──」
オリビアも頷く。
「たしかに。これは窃盗になる。明日にしよう」
そりゃそうだ。
焦ることはない。
でも──なんか体が言うこと聞かねえんだ。
オレは、なんとなくゲートに手をかけた。
ギィ……
「開いた」
「いや、でも……」
「翔くん、さすがにそれは……」
その時、オレ達の間をふわりと人影が割った。
「──遅かったわね」
「え!?」
美しいブロンドの長髪が海風になびく。
わずかに体の輪郭に沿って輝く、金色のオーラ。
ミラが叫んだ。
「フレイヤ様!」
「アースガルドに向かってる。違う?」
「そうだけど、なんであんたが……」
フレイヤは一瞬目を閉じ、笑みを浮かべた。
「ヴァナヘイムは、あなたの選択を支持します」
オレはキッパリ言った。
「頼んだ覚えはねえ」
フレイヤは視線を落とした。
「そ」
ミラが慌てる。
「しょ、翔くん!」
するとフレイヤはボートを指差して、にこりと笑った。
「このボートは私の。たまたまビルカに行こうとしていた。そして今──たまたまあなた達と出会った。ということでは、どう?」
オレの返事を待たず、ミラが即答する。
「お願いします! フレイヤ様!」
「おい、ミラ!」
「いいの!」
その横で、オリビアはフレイヤからすっと視線を逸らした。
フレイヤはオリビアに向かって手を伸ばす。
「オリビア・エル・ヴァンガード。あなたにも会いたかった。さあ、乗って」
その瞬間、オリビアの瞳が揺れた。
オレ達はフレイヤのボートに乗り、夜の海を渡った。
船上。
フレイヤはハンドルを握っている。
オリビアはその横顔を何度も見る。
そして、その度に視線を逸らした。
そんなオリビアの様子を見えているかのように、フレイヤは背を向けたまま口を開いた。
「私は、あなたのことも見ていたわ。オリビア」
オリビアは視線を落とす。
「……」
「そっくり、アリスに。でも、持っているものがまるで違う」
オリビアは何も言わなかった。
沈黙の中、冷たい風がオレ達の顔を叩く。
長い沈黙の後、オリビアは指輪を見つめながら口を開いた。
「アリスは、ヴァナヘイムを……あなたを信じていた」
全員の視線がオリビアに集まる。
指輪を握る指に力がこもる。
爪が、わずかに食い込んだ。
「あなたは妹を……なぜアリスを見限ったの?」
フレイヤはすぐには答えなかった。
風の中で、ただ静かに前を見ている。
「……見限ってはいないわ」
その一言だけだった。
オリビアの肩が、わずかに揺れた。
「じゃあどうして? あの日、アリスに力を与えることを止めたの? 離れるなら、せめてあの瞬間じゃなければ……アリスは死ななかった。答えて!」
フレイヤは目を閉じた。
「アリスは、あの瞬間、自ら神技を捨てた。ヘルヘイムではなく、ミッドガルドに銃口を向けたアリスは、その瞬間、ヴォルヴァであることをやめた。だからそれ以上、私の力が届かなかった」
オリビアはフレイヤを睨む。
「そんなはずない! アリスは、ヴァナヘイムを、あなたの意思を追っていた! そのアリスが、ヴォルヴァをやめるなんて、ありえない!」
水面に揺れる船の上で、フレイヤはオリビアの前に静かに膝をついた。
「アリスが心の奥底で追っていたのは、私の意思じゃないわ」
そう言うと、フレイヤはオリビアに向かって静かに手を伸ばした。
頬に触れたその指が、わずかに震える。
オリビアの体が、わずかに強張る。
「あの子が追っていたのは──あなたの背中よ、オリビア・エル・ヴァンガード」
「なっ……」
「アリスの圧倒的なカリスマは、あなたの存在があったから。人々はあなたの存在を通してアリスの元に集まった。アリスは、いずれあなたが人々の中心になることを知っていた」
「そんなこと……ない。アリスは……」
「オリビア。アリスはあなたと一緒にいたかった。神々の秩序とミッドガルドの間で揺れるあなたを支えたかったの。ただそれだけ」
「じゃあ、なぜヴォルヴァを……力を手放したの?」
フレイヤは、瞳の奥を覗くようにじっとオリビアを見つめながら言った。
「それは、私の口からあなたに伝えない方がいいと思うわ」
その時、オリビアの指輪が淡く緑色に光った。
「アリス……」
「理由はいらないんじゃない? アリスは今もあなたを支えてる。アリスは今も、あなたと共に生きてる。違う?」
オリビアの瞳が赤く染まった。
でも、涙は流れなかった。
「オリビア、私はね……ヴォルヴァとしての彼女も、人としての彼女も、そしてあなたの妹としての彼女も、全部愛してた。それをあなたに伝えたかった」
オリビアは何も言わず、静かに頷いた。
フレイヤは立ち上がると、暗闇の向こうに目を向けた。
「着いたわ」




