二
旧校舎の三階の最も奥に隔離されたこの静謐な無菌室には、明確な季節の変化や、外の世界と連動した時間の概念というものが一切存在しない。
分厚い石膏の壁と、隙間なく閉ざされた二重の磨りガラスによって外界の喧騒から切り離されたこの四角い空間は、常に一定のひんやりとした温度と、乾燥した湿度に保たれている。窓の外で新緑がむせ返るような生命力を誇示しようとも、あるいは梅雨の重たい湿気がキャンパスの空気をアスファルトの腐臭とともに沈殿させようとも、ここではただ冷たく透き通った百合の香りと、壁に掛けられた古い振り子時計の秒針が空気を切り裂く無機質な摩擦音だけが、永遠の円環のように反復されている。
この部屋は、生きている人間の生々しい呼吸や体温を拒絶する、巨大なガラス製の標本箱であった。
しかし、外の世界の時間は確実に腐敗を伴いながら流れており、それに引き寄せられるようにして、この完璧な標本箱には、絶え間なく新しい『泥』が運び込まれてくるようになった。
最初の相談者であったあの女子学生が、自らの執着と自己愛を美青先輩の言葉のメスによって解剖され、涙と鼻水とともにすべての自我をその足元に明け渡して去っていったあの日。彼女が外の世界でどのような顔をして己の救済を吹聴したのかは定かではないが、それ以降、この使われていないゼミ室には、まるで甘い腐臭に群がる羽虫のように、数え切れないほどの迷える人間たちが列をなして訪れるようになった。
彼らが持ち込んでくる泥の種類は、実に様々であり、そしてそのすべてが吐き気を催すほどに凡庸であった。
ある日の雨の午後に現れたのは、四人組の友人グループの中で自分だけが疎外されているのではないかと怯え、被害妄想に囚われた一年生の女子学生だった。
彼女の衣服からは、自らの不安を他者の嗅覚を麻痺させることで誤魔化そうとする、市販の安価で甘ったるい香水の匂いと、他者の顔色を常に窺う緊張から生じる、粘り気のある汗の臭気が混ざり合い、部屋の清浄な空気を暴力的に淀ませた。彼女は、自分がどれほど周囲に気を遣い、友人のために自己犠牲を払ってきたかを、上擦った声で延々と語り続けた。通信アプリの返信速度の遅延、視線の交錯の欠如、自分だけが知らされていない隠語の存在。彼女が列挙する悲劇の証拠は、どれもこれも自らの極小の自意識を肥大化させただけの、取るに足らない排泄物でしかなかった。
またある日の夕暮れ時に訪れたのは、画面の向こう側に存在する虚像のアイドルに自らの全財産と生活のすべての時間を捧げ、ついには大学の必修単位すら落としかけているという二年生の男子学生だった。
彼の落ち窪んだ眼窩と、極度の睡眠不足によって黄色く濁った眼球は、自らの空虚で無価値な人生から目を背けるために摂取し続けた、大量のカフェインと自己欺瞞の末路を醜く曝け出していた。彼は、自らがそのアイドルを応援することがいかに尊い行為であり、自分の人生のすべてを懸けた純粋な『愛』であるかを、痙攣するような早口で正当化し続けた。
友人関係の軋轢。推し活という名の緩慢な自傷行為。将来への漠然とした不安。親の期待に対する重圧。
彼らが口々に訴える悲劇は、どれもこれも外の世界の泥沼の底にいくらでも転がっている、底の浅い自己憐憫の羅列であった。
彼らは皆、自らが傷ついた悲劇の唯一の主人公であると固く信じて疑わず、この美しい部屋の中央の革張りソファに座る美青先輩に向かって、自らの抱える不潔な泥を平然と吐き出した。自分がどれほど可哀想であるか。他者がどれほど自分を理解してくれないか。世界がいかに理不尽であるか。その自己陶酔に満ちた言葉の波は、時に激しい怒りの形相となり、時に見苦しい嗚咽となって、無菌室の空気を激しく震わせた。
私は、部屋の片隅に置かれた冷たいパイプ椅子に背筋を伸ばして座り、膝の上に広げた黒い革張りの手帳に彼らの醜態を万年筆で記録しながら、絶えず胃の奥を這い回るような強烈な嫌悪感と戦っていた。
他者に自分の存在価値を委ねておきながら、期待した見返りが得られないと被害者ぶって泣き叫ぶ浅ましさ。自らの足で立ち、自らの責任で泥を被ることを放棄し、誰かにすがりつくことでしか呼吸ができない脆弱な精神。彼らが持ち込む生温かい感情の熱は、私自身の過去の凄惨な傷を無遠慮に抉り出す猛毒でもあった。
しかし、その果てしなく続く泥の奔流の只中にあって、鴻巣美青先輩という絶対的な濾過装置は、ただの一度としてその完璧な処理能力を狂わせることはなかった。
美青先輩は、どれほどヒステリックに泣き叫び、理不尽な感情をぶつけてくる相談者を前にしても、その長く美しい睫毛をわずかに揺らすことすらしない。
友人関係に絶望し、見捨てられる恐怖に泣きじゃくるあの女子学生に対しては、同情を交えない極薄のガラスのような声で、こう言い放った。
「あなたは、その友人たちを愛しているのではありません。集団に所属しているという安全な箱庭の安心感を、一方的に消費しているだけです。自らの内側にある空洞を、他者の肉体と時間で埋めようと搾取するから、拒絶された時に傷つくのです。初めから、あなたのその底なしの孤独を埋められる人間など、この世界には存在しないという事実を、今ここで受け入れなさい」
虚像に人生を捧げ、自らの行為を愛だと錯覚して現実逃避を続ける男子学生に対しては、氷のように冷たい視線を貫きながら、こう宣告を下した。
「自己の存在価値の決定的な欠如を、決して手の届かない他者の強烈な光を利用して補完しようとするのは、悪質で卑怯な搾取です。あなたは彼を応援しているのではない。彼という反論してこない安全な偶像を隠れ蓑にして、自らの無価値な現実の泥沼から逃亡し続けているだけです。その醜い逃避行動を『愛』という美しい言葉でコーティングして正当化するのは、直ちにやめなさい」
美青先輩の言葉のメスは、常に相手の最も隠しておきたかった、最も見醜く軟らかい内臓を正確に切り裂いた。
彼女の解剖には、相手を励まそうとする熱も、社会の規範に沿って更生させようとする道徳的な目的も一切含まれていない。ただ、複雑に絡み合い、腐敗を始めている人間の自意識というバグを、物理法則に従って論理的に分解し、その構造の醜さを本人の目の前に綺麗に並べて見せているだけなのだ。
残酷なまでの客観性。一切の情動を排した無温度。
だからこそ、相談者たちは皆、自らの急所を貫かれた痛みに耐えきれず、例外なくこの革張りのソファの上で激しい涙を流し、決壊した。自らを守るための自我の防護壁を完膚なきまでに破壊され、自らの意思では立ち上がることすらできない、空っぽの肉塊へと解体されるのだ。
彼らは顔をぐしゃぐしゃにし、自らの愚かさと醜さを突きつけられて、呼吸困難に陥るほどの嗚咽を漏らす。
しかし、その絶望の底に突き落とされ、自我が死滅した直後。
美青先輩が彼らの頭にそっと白磁のような手を置き、『あなたが自らの醜さを認めたその決断を、私がすべて肯定してあげる』という新しい酸素を与えると、彼らは皆、一様に憑き物が落ちたような、不気味な恍惚とした表情を浮かべた。
彼らは、自らの脳髄を書き換えられたことにも気づかず、自分が『救済された』のだと深く錯覚する。涙を流しながら神への感謝を口にし、晴れやかな顔でこの部屋を去っていく。自らの意思で生き、自らの足で泥を歩くという苦しみから解放され、美青先輩の言葉という餌なしでは呼吸ができない、完璧な飼い犬に成り下がったことにも気づかずに。
その光景が反復されるたび、私は美青先輩の底知れぬ異常性と、神聖なまでの完全性に深く打ち震えていた。
彼女は、他者の精神を破壊し、作り変えるという恐るべき外科手術を毎日平然と反復しながらも、彼女自身の内側にはいかなる疲労も、泥の蓄積も生じていないのだ。
血の通った普通の人間であれば、他者の重い相談を連日受け、激しい情動の起伏を至近距離でぶつけられ続ければ、必ず精神的な摩耗を起こす。他者の痛みに無意識に共振し、一緒に苦しみ、その熱に当てられて自らの輪郭を削り取られていくのが人間の脆弱な器官の限界だ。
しかし、美青先輩の皮膚は、どれほど大量の泥水を浴びようとも、常に抜けるような純白を保っていた。彼女の呼吸のリズムは一ミリも乱れず、陶器のような肌の下を流れる静脈は、規則正しく冷たい血液を循環させ続けている。
彼女にとって、目の前で人間が泣き叫び、人生に絶望し、そして自らにひれ伏す姿は、ただの『物理的な事象の推移』に過ぎない。自らが構築した計算式に数値を入力し、想定通りの結果が出力されることを冷徹に確認する。ただそれだけの作業に、感情という不純物が入り込む余地など、彼女の内側の広大な虚無には初めから存在していないのだ。
他者の絶望を啜りながら、一切の共感を持たずに処理し続ける。
その機能美と冷徹さこそが、彼女を人間を超越した神の座へと押し上げていた。
「沙耶。その者の記録は、すべて正確に終わったかしら」
静寂を取り戻した無菌室に、極薄のガラスを滑るような美青先輩の声が響いた。
神宮沙耶。
それが、私の名前だった。
外の世界では、誰からもまともに呼ばれることのなかった、無価値な文字の羅列。高校時代、泥水のような教室の中で同級生たちから徹底的に無視され、あるいは嘲笑とともに不潔な汚物として扱われていた、脆弱でひどく凡庸な私の個体認識番号。
親も、教師も、社会の大人たちも、誰も私のその名前に『人間としての尊厳』を与えてはくれなかった。外の世界において、神宮沙耶という存在は、ただ他者の悪意を吸収して腐敗していくためだけに用意された、息をするためのゴミ箱でしかなかったのだ。
しかし、この静謐な解剖室において、鴻巣美青という絶対的な女神の美しい唇から紡ぎ出されるその四文字の音声は、私に全く異なる意味を与えてくれる。
彼女が私の名前を呼ぶ時。それは、外の世界の泥にまみれ、呼吸の仕方を忘れて窒息しかけていた過去の私が完全に死滅し、この完璧な水槽の管理者としての新しい命を与えられたことを証明する、承認の刻印であった。
私は、手帳の上を走らせていた万年筆を静かに置き、居住まいを正して、部屋の中央に座る美しい神へと向き直った。
「はい、美青先輩。本日の記録は、一文字の欠落もなく、すべて正確に完了いたしました」
私が自らの声帯を震わせ、平坦に調律された音声を紡ぎ出すと、美青先輩は黒い革張りのソファに深く身を預けたまま、その美しい顎をわずかに引いた。
窓枠を切り取るようにして差し込んでいた夕暮れの斜光が、時間の経過とともにその角度を鋭くし、彼女の艶やかな黒髪を赤銅色に染め上げている。彼女は、手元の冷めきった紅茶のカップからゆっくりと顔を上げ、その長く美しい睫毛に縁取られた瞳を、真っ直ぐに私の方へと向けた。
視線が、交錯する。
その瞬間、私の下腹部の奥底から、脳髄の先端までを直接冷たい指先で撫で上げられるような、甘く、そして背筋が凍るほどの悪寒が這い上がってきた。
鴻巣美青という人間の放つ視線には、生身の人間が他者に向ける『評価』や『関心』といった、体温を伴う熱が一切存在しない。
普通の人間であれば、他者を見つめる時、そこには無意識の感情の膜が張られる。相手を好意的に見ているのか、警戒しているのか、あるいは見下しているのか。眼球の微細な動きや瞳孔の収縮によって、その人間が隠し持っている内面の温度が必ず外部へと漏れ出してしまうものだ。
しかし、彼女が人間を見つめる時、その色素の薄いガラス玉のような瞳の奥には、そのような人間らしい感情の膜が初めから完全に欠落している。彼女の眼差しは、精密機械の複雑な設計図を論理的に読み解くような、あるいはショーケースの中に陳列された無機物の耐久性や構造を無感情に測定するような、冷徹で物理的な重量だけを伴っていた。
彼女は、私の顔を見ているのではない。
私の皮膚の下に隠された骨格の歪み、血管の配置、そして脳内に構築された脆弱な自我の構造を、高性能な光学機器のように、ただ純粋な『情報の集合体』として読み取っているのだ。
他者を、感情を持った一個の人間としてではなく、分解可能な『モノ』として貫く、その絶対零度の威圧感。
それは、人間が本来持っているはずの倫理や道徳といった社会的な皮膜を剥ぎ取った後に残る、原初的で残酷な『支配者の色気』そのものであった。
物理的な接触など一切必要ない。ただ彼女のそのけだるげで重たい視線に射抜かれるだけで、見つめられた者は自らの内側にある最も見醜い部分、最も隠しておきたかった自己欺瞞のすべてを白日の下に晒されたような錯覚に陥り、羞恥と恐怖に精神を侵犯されていくのだ。
先ほどまでこの部屋で泣き叫んでいた相談者たちも、皆等しくこの恐るべき視線に貫かれた。
彼らは、自らが武装していたはずのプライドや被害者意識が、彼女の瞳の表面で一切の波紋も起こさずに無効化されていくのを感じ取り、無意識の恐怖に晒された。自分が一人の尊厳ある人間として扱われていないという本能的な気付き。自分という存在が、彼女の冷大な知性の前では、ただの解剖用の標本としてしか認識されていないという力の差。それに耐えきれず、彼らは自ら自我を破壊し、彼女の足元にひれ伏して涙を流すことしかできなくなったのだ。
しかし、今、私に向けられている彼女の視線は、あの愚かな相談者たちに向けられていたものとは、わずかに、しかし決定的に異なっている。
私は、自らの網膜を焼くような彼女の視線を受け止めながら、心臓が肋骨の内側で警鐘のように脈打つのを感じていた。
相談者たちは、彼女の構築した計算式を証明するための一時的な実験体であり、用が済めば新しい酸素を与えられて外の世界へと放逐される、消耗品でしかない。彼らは、自らが解剖されたことにも気づかず、愚かにも彼女を恩人だと錯覚して去っていく。
だが、私は違う。
私は、この部屋の隅のパイプ椅子に座り、彼女が行うすべての残酷な奇跡を記録し、この無菌状態を維持することを許された、ただ一人の永続的な観測者なのだ。
美青先輩の冷徹な色気を帯びた視線が、私という物体を正確に捉え、その深淵のような瞳孔の奥底に私の姿をはっきりと映し出している。
自分が、この神聖な怪物に『特別な所有物』として認識され、その視野の片隅に存在し続けることを許容されている。
その事実が、私の中に歪んだ優越感を、猛烈な勢いで培養していく。
外の世界で泥に塗れ、他者の顔色を窺いながら惨めな呼吸を続けているキャンパスの学生たち。そして、自分の足で立つこともできずにこの部屋に逃げ込み、美青先輩に内臓を引きずり出されて泣き叫んでいたあの相談者たち。彼らと私とは、根本的に存在の次元が違うのだという選民意識が、私の全身の血管を駆け巡り、脳髄を痺れさせる。
彼らは、不潔な泥だ。
しかし私は、美青先輩という純白に仕えるための、清らかな器なのだ。
私は、自分を見つめる美青先輩の視線から逃れるどころか、さらに深く自らの精神をその眼差しの底へと沈み込ませていった。自らの自我を明け渡し、彼女の冷たい空洞の一部として同化していく過程に、私は耐え難いほどの悦びと安堵を感じていた。
「あなたのその潔癖な記録のおかげで、私の証明はより完璧なものになるわ」
美青先輩の口から紡がれたその言葉は、私にとって、世界を構成するいかなる物理法則よりも重く、絶対的な真理として鼓膜を震わせた。
私の証明。
その言葉の響きに、私は陶酔の吐息を漏らした。彼女は、自らの言葉がどれほど完璧に他者の泥を浄化し、傷ついた魂を救済できるかという『神聖な奇跡』を証明しようとしているのだ。そして、その奇跡が本物であることを証明するための記録者として、他でもないこの私を選んでくれた。
私は、彼女の言葉の裏にある慈愛の深さに打ち震えていた。私に見えているのは、外の世界の不浄な泥をすべて浄化し、迷える人間をあるべき場所へと導く、聖母の光だけだ。その光の傍らに立つことを許された自分自身の、誇らしくも狂気的な優越感が、肺の奥を熱く満たしていく。
「光栄です、美青先輩。外の世界の不純物が、先輩のこの神聖な時間をこれ以上汚すことのないよう、私はこれからもすべてを正確に書き留めます」
私は、胸の前で革張りの手帳を強く抱きしめながら、祈りを捧げる信徒のように深く頭を下げた。
自らの口から出た言葉が、いかに常軌を逸した狂信に満ちているかなど、疑う余地もなかった。
この閉ざされた空間こそが、私の世界のすべてだった。
外の世界には、私を傷つけ、貶めようとする無数の悪意が泥水のように渦巻いている。あそこに戻れば、私は再び呼吸の仕方を忘れ、他者の顔色を窺いながら排泄物を飲み込むだけの惨めな人生に引きずり戻されてしまう。
でも、ここには美青先輩がいる。
彼女のあの冷徹な視線に射抜かれ、彼女の紡ぐ氷のような言葉を書き留めている限り、私は神の庇護下にある特別な存在として、清らかなまま生きていくことができる。自分の頭で考え、苦しみ、泥臭い選択をする人間の生など、もう二度と必要ない。私は、自らの意志や感情という臓器をすべてこの水槽の底に沈め、ただ彼女の足元で酸素を与えられることだけを、狂おしいほどに切望していた。
美青先輩は、深く頭を下げる私の頭頂部を、やはりいかなる温度も持たない視線で静かに見下ろしていたに違いない。
窓の外では西日が落ち、キャンパスを覆う夕闇が徐々に深さを増していく。
しかし、この無菌室の中だけは、時間の経過も、外の世界の腐敗も、一切の影響を及ぼすことはない。
私は、美青先輩という美しさと、彼女の視線がもたらす冷酷な支配の感触に、深い安堵の吐息を漏らした。
私の精神は、すでにこの部屋の冷たい空気以外では一秒たりとも呼吸ができない、完璧な洗脳状態へと仕上がっていた。そして私は、その自らの緩やかな窒息を、至上の幸福であると固く信じ切っていたのだ。
この無菌室に持ち込まれる外の世界の泥は、常に悲哀や自己憐憫の形をとっているとは限らない。時としてそれは、極度に煮詰まり、発酵し、制御不能な爆発を伴う強烈な『怒り』や『憎悪』という熱量の塊となって、この静謐な空間を暴力的に蹂躙しようと試みることがあった。
その日の午後にやってきたのは、同じ学部の友人に裏切られたと主張する、ひどく痩せ細った三年生の女子学生であった。
彼女は部屋に入るなり、来客用の革張りソファに座ることも拒否し、部屋の中央で全身の筋肉を硬直させたまま、堰を切ったように激しい感情の奔流を吐き出し始めた。彼女が持ち込んだのは、最も親しいはずの友人に対する、劣等感と嫉妬が複雑に絡み合った黒黒とした憎悪であった。
自分がどれほど真面目に生き、どれほど他者に配慮して身を削ってきたか。それにもかかわらず、要領よく立ち回るだけの友人がすべての評価と愛情を奪っていくことへの、血を吐くような理不尽さの訴え。
彼女の口から絶え間なく発射される言葉は、悲しみというよりも、世界全体に対する呪詛そのものであった。彼女の眼球には不気味なほどの毛細血管が走り、極度の興奮によって顔面は醜い赤黒さに染まっていた。肺から空気を押し出すたびに声帯が限界を超えて引き攣り、尖った摩擦音が鼓膜を直接突き刺してくる。彼女が激しく腕を振り回すたびに、衣服に染み付いた体臭と、怒りによって急速に分泌された酸っぱい汗の臭気が、部屋の空気を乱暴に掻き回した。
それは、まともな人間の精神を瞬時に削り取るほどの、すさまじい負のエネルギーの暴走であった。
私は、部屋の隅のパイプ椅子の上で、万年筆を握る指先の関節が白く変色するほどに力を込め、自らの呼吸を意図的に浅くしてその光景を睨みつけていた。
不快だった。ただひたすらに、不潔で、悍ましかった。
彼女の吐き出す自己正当化の怒りは、私から見れば、自らの無価値さを世界に突きつけられたことに対する、幼児のような癇癪に過ぎない。自分自身の足で歩く努力を怠り、ただ『真面目に生きている可哀想な自分』という安価な特等席に座り続けていれば、いつか誰かが報酬を与えてくれると信じていた愚か者の末路だ。
彼女のその生温かい、粘り気のある感情の飛沫が、この清浄な無菌室の百合の香りを汚染していくことに、私は明確な殺意すら抱いていた。今すぐ立ち上がり、彼女の口を物理的に塞いで、この神聖な領域から引きずり出したいという衝動が、血管を煮えたぎらせる。
しかし。
その狂乱の只中にあって、怒り狂う女子学生からわずか二メートルの距離に座る美青先輩は、信じがたいほどの『静止』を保っていた。
美青先輩は、黒い革張りのソファに深く腰を下ろし、両手をテーブルの上に静かに組んだまま、いかなる防御の姿勢をとることもなかった。
通常、生身の人間であれば、これほどまでに強烈な他者の敵意と興奮状態を至近距離で浴びせられれば、本能的な防衛機能が働く。無意識に身体を後ろに引いたり、表情を強張らせたり、あるいは相手をなだめようと両手を前に突き出して物理的な距離を詰めようとするはずだ。他者の放つ異常な熱量に巻き込まれ、自らの体温や心拍数も否応なく上昇してしまうのが、生物としての逃れられない生理反応である。
だが、美青先輩の肉体には、そのような人間らしい反射機能が一切存在していなかった。
彼女の長く真っ直ぐな脚は優雅に組まれたままであり、テーブルの上の白磁のような指先は、微かな震えすら見せない。透き通るような皮膚には一本の粟も生じておらず、規則正しい静かな呼吸のリズムは、秒針の刻みと同じように、一ミリの狂いもなく保たれていた。
彼女は、物理的な距離を詰めることも、相手から遠ざかることもしない。
ただ、そのけだるげで重たい視線を、狂ったように腕を振り回す女子学生の眼球の奥へと、真っ直ぐに、無機質に突き刺しているだけだった。
「どうして私ばっかり、こんなに苦しまなきゃいけないんですか! あの子のせいで、私の大学生活は全部滅茶苦茶になった! 許せない、絶対に許せない!」
女子学生の声が限界まで張り裂け、彼女の口から飛んだ唾液の飛沫が、テーブルの表面に落ちる。
その最も感情が沸点に達した瞬間、美青先輩のぽってりとした赤い唇が、ごくわずかに開かれた。
「あなたは、彼女を憎んでいるのではありません」
一切の熱を持たない、極薄のガラスのような声。
その声の音量は決して大きくはなかった。しかし、その絶対零度の響きは、女子学生が撒き散らしていた灼熱の怒号を、一瞬にして凍結させてしまった。
女子学生の喉の奥で、引き攣った言葉が不格好に詰まる。
「憎悪という感情は、相手への過剰な執着であり、裏を返せば極端な依存です。あなたが本当に許せないのは、友人の存在ではない。彼女という鏡の前に立つことで、自分がいかに空っぽで、誰からも必要とされていない無価値な存在であるかという事実を、直視させられてしまうことなのです」
美青先輩の言葉は、怒り狂う猛獣を檻に閉じ込めるための鞭ではなく、相手の急所を無痛のまま切り裂く、精緻な外科手術用のメスであった。
彼女は、慰めない。同調しない。そして、声を荒げることもしない。ただ、女子学生が自らを被害者として成立させるために構築していた脆弱な論理の城壁を、一切の感情を交えずに、根本から解体して見せたのだ。
「あなたは『真面目に生きてきた』という自らの行動を、他者からの評価と愛情を得るための通貨としてしか認識していなかった。しかし、その通貨はこの社会において全く価値を持たなかった。あなたの怒りは、自らの価値が暴落したことに対する恐怖の裏返しに過ぎません。その惨めな責任転嫁を、憎悪という仰々しい言葉で装飾するのは、直ちにやめなさい」
残酷なまでの客観性と、絶対的な断定。
その言葉が、空間を支配した瞬間、女子学生の身体に起きた劇的な変化を、私はこの目ではっきりと目撃した。
先ほどまで部屋の空気を焼き尽くすほどの熱量で怒り狂っていた彼女の顔から、急速にすべての血の気が引いていく。膨張していた筋肉の緊張が解け、彼女の細い両膝が、自らの体重を支えきれずに力なく折れ曲がった。
彼女は、糸を切られた操り人形のように、その場に崩れ落ちた。
そして、自らの醜悪な内面をすべて白日の下に晒されたことに対する原初的な羞恥と、自らを支えていた偽りの自我が崩壊したことによる絶望に包まれ、両手で顔を覆って激しい嗚咽を漏らし始めたのだ。
怒号は、惨めな泣き声へと変換された。他者を攻撃するための刃は、彼女自身の手首を深く切り裂く絶望へと裏返されたのだ。
私は、その一部始終を観察しながら、畏敬の念に全身の細胞を震わせていた。
物理的な距離を一切詰めることなく。相手の感情に一ミリも寄り添うことなく。ただ、自らが座る絶対的な領域から発する『言葉の質量』だけで、他者の暴走する情動を完全に制圧し、解体してしまったのだ。
美青先輩にとって、人間の感情の爆発など、どれほどの熱量を持っていようとも、所詮は計算式で処理可能な一過性の物理現象に過ぎない。
私には、美青先輩のその無機質で冷酷な振る舞いが、外の世界のいかなる不純物をも無効化してしまう、広大な海のように見えていた。
どんな泥水が流れ込もうとも、どんな灼熱の炎が投げ込まれようとも、彼女という虚無の海は、決して温度を変えることなく、すべてを音もなく飲み込んでしまう。
彼女のその冷たさこそが、この不潔な世界における究極の『優しさ』なのだと、私は狂信的に錯覚していた。
人間が自らの意志で怒り、嘆き、苦しむことなど、この神聖な水槽の中では何の意味も持たない。ただ、彼女の論理の前に自らの矮小な自我を明け渡し、完全に解剖されることだけが、唯一の救済へと至る道なのだ。
床に座り込み、涙と鼻水に塗れて自らの愚かさを懺悔し続ける女子学生を見下ろしながら、美青先輩は依然として、長い脚を組み、白磁のような両手をテーブルの上に静かに置いたままであった。
その完璧な静止と、いかなる温度も持たない視線。
私は、自分がこの底なしの冷たい海の一部として存在することを許されているという歪んだ喜悦に酔いしれながら、膝の上の手帳に、神が下した解剖の記録を、ただ一文字の漏れもなく刻み込み続けていた。
床に崩れ落ち、自らの醜さを曝け出して泣きじゃくる女子学生に対し、美青先輩は最後の仕上げとも言える美しい宣告を下した。
それは、怒りによって自我を肥大化させていた彼女から、自立して思考する能力を奪い去り、永遠にこの水槽の底へと沈めるための、極めて甘く残酷な呪いであった。
「あなたのその孤独と、誰からも必要とされていないという惨めな真実を、私がすべて肯定してあげます。もう、他者の愛情を乞うために、自分を偽って真面目に振る舞う必要はありません。あなたはただ、ここで自らの無価値さを認めたその瞬間だけ、清らかな存在になれるのです」
その言葉が、女子学生の鼓膜を震わせた瞬間。
彼女の身体から、怒りや憎悪、そして自らを守ろうとする最後の自尊心すらもが、水に溶ける泥のように完全に抜け落ちていった。
彼女は、涙と鼻水で顔をひどく汚したまま、ゆっくりと顔を上げ、ソファの上に君臨する美青先輩の姿を仰ぎ見た。その瞳には、先ほどまでの血走った狂乱の光は微塵も残っていない。自らの内臓をすべて掻き出され、その空洞に美青先輩の言葉という新しいルールを詰め込まれたことで、彼女は完全に『救済された』と錯覚したのだ。
彼女は、床に両手をついたまま、まるで神の御使いに平伏する狂信者のように、何度も何度も深く頭を下げた。
「……ありがとうございます。私、自分がどれだけ馬鹿だったか……ようやく分かりました。鴻巣さんに話を聞いてもらえて、本当に、よかったです……」
その声には、不気味なほどの多幸感が満ちていた。
自らの精神を徹底的に破壊され、他者に思考を明け渡したというのに、彼女はそれを『至上の安らぎ』として受け入れている。自分で考え、自分で選択し、その結果として傷つくという人間本来の痛みを放棄したことで、彼女は一時的な、極めて人工的な麻酔状態に陥っているのだ。
女子学生は、ふらつく足取りで立ち上がると、深く一礼をしてから、重い足取りで部屋の出口へと向かった。
真鍮のドアノブが回り、分厚い木扉が開かれる。廊下側の薄暗い照明が、一瞬だけこの部屋の床に四角い光の網を投げかけるが、それも扉が閉ざされると同時に切断された。
堅牢な木と金属が噛み合う鈍い衝突音が響き、外界の空気は再び完璧に遮断された。
無菌室に、静寂が戻ってきた。
私は、部屋の隅のパイプ椅子から立ち上がり、一切の躊躇なく、いつもの清掃用具の置かれた棚へと向かった。
手に取るのは、高濃度のエタノールが充填されたスプレーボトルと、純白の清潔な布。
私は、女子学生が座ることすら拒否し、その前に立って唾液を散らしたテーブルの周辺へと歩み寄った。空中に漂う、彼女の怒りと悲惨な自己憐憫が発酵したような酸っぱい体臭を、私の肺は極度の嫌悪をもって拒絶していた。
私は、スプレーボトルの引き金を引き、無色透明の化学薬品を空中に、そして革張りのソファや木製のテーブルへと容赦なく噴射した。
微細なアルコールの粒子が、部屋の空気を乱暴に切り裂く。
鼻腔を突き刺す鋭利な薬品の匂いが、女子学生が残していった不浄な熱を、細胞レベルから殺菌し、無効化していく。
私は、純白の布を手に、テーブルの表面を狂ったような力で拭き上げ始めた。布の繊維が木材の表面と擦れ合い、規則正しくも暴力的な摩擦音を立てる。女子学生の飛沫、彼女の靴底が持ち込んだ見えない泥、彼女が吐き出した醜い二酸化炭素の残滓。そのすべてを、私自身の物理的な力によってこの世界から消去しなければならない。
私のこの行為は、単なる部屋の清掃などではない。
それは、美青先輩という絶対的な女神の聖域を、外の世界の不純物から守り抜くための、最も神聖で重要な『防衛の儀式』であった。
私は、布を押し付ける自らの両手に全体重をかけながら、激しい陶酔感に全身を震わせていた。
この部屋を訪れる人間たちは皆、自分が持ち込んだ泥の重さに耐えきれなくなり、美青先輩にそれを押し付け、浄化してもらおうとする。彼らは、自分がどれほど不潔な排泄物をこの美しい空間に撒き散らしているかという自覚すら持たない、浅ましく愚かな生き物だ。
彼らは解剖され、中身を空っぽにされて、また外の泥沼へと帰っていく。
しかし、私は違う。
私は、自分の泥を美青先輩に押し付けるような厚かましい真似はしない。私は、彼女の足元に控え、彼女の領域を侵す泥を自らの手で拭き取ることで、彼女の完全な無温度を維持するための『機能の一部』として存在しているのだ。
私がこの部屋の空気を清浄に保つからこそ、美青先輩はどんな泥水が流れ込もうとも、決して汚れることなく、その絶対零度の美しさを証明し続けることができる。私は、彼女の美しい解剖実験に不可欠な、最も優秀で忠実な共犯者なのだ。
テーブルとソファの拭き上げを完了し、最後に床の上の見えない埃までもを布で絡め取ると、私は荒くなった呼吸を整えながら、部屋の中央に君臨する美青先輩の姿を仰ぎ見た。
美青先輩は、私がどれほど必死に部屋を消毒しようとも、その作業を手伝うことも、労いの言葉をかけることもない。
彼女はただ、黒い革張りのソファに深く身を預け、長く美しい睫毛を伏せたまま、静かな呼吸を繰り返しているだけだった。
窓の外の夕闇はすでにキャンパスを飲み込み、旧校舎の薄暗い照明だけが、磨りガラス越しに彼女の白磁のような横顔を冷たく照らし出している。その完璧な造形美には、先ほどの狂乱の劇の余韻など微塵も残っていない。彼女の内側にある広大な虚無は、いかなる情動の摩擦も起こすことなく、また次の物理現象(相談者)が訪れるのを、無機質に待機しているのだ。
私は、手にしたアルコールの染み込んだ布を胸の前で強く握りしめながら、自らの内側に生じている、ある決定的な『変質』を静かに自覚していた。
もう、後戻りはできない。
私の精神は、この旧西棟三階の、完璧に調律された無菌室のルールに、細胞の髄まで作り変えられてしまっていた。
外の世界には、自由がある。自ら思考し、選択し、他者と関わり合いながら人生を構築していく権利がある。しかし、その自由は同時に、泥に塗れ、悪意に晒され、他者からの評価に怯えながら不格好な呼吸を続けなければならないという、耐え難い苦痛と責任を伴っている。
私は、その責任を負って生きるための筋肉を、とうの昔に喪失してしまった。
同級生の悪意に晒され、誰も味方になってくれないという孤独の泥水の中で溺れかけていた私を、美青先輩がこの冷たい水槽の中に拾い上げてくれたあの日から。私は、自分の足で立ち、酸素を求めてあがくことを完全に諦めたのだ。
この部屋の空気は、人間が本来吸うべき自然の大気ではない。
美青先輩の絶対的な論理と、冷徹な虚無によって濾過された、人工的で、純度が高すぎるガスだ。
このガスを吸い続けていれば、人間は自らの痛みに鈍感になり、自分で考えるという苦痛から解放される。美青先輩の言葉という餌を与えられ、彼女の視線によって管理されている限り、私は世界で最も安全な場所で、永遠に清らかなまま生きていくことができる。
しかしそれは同時に、私がこの水槽の外では、もはや一秒たりとも呼吸ができないという致命的な欠陥生物に成り果てたことを意味していた。
私は最近、大学の講義に出るためにこの部屋を出て、人がごった返すキャンパスの並木道を歩くたびに、深刻な眩暈と吐き気に襲われるようになっていた。
すれ違う学生たちの、無意味な笑い声。自意識を肥大化させた会話の残骸。衣服から立ち上る生温かい体温と、香水や整髪料の入り混じった不潔な臭気。
外の世界に満ちているそのすべてが、私にとっては肺を焼き尽くす猛毒に感じられた。
私は、講義室に座っている間も、食堂の隅で一人食事をしている間も、ただひたすらに呼吸を止め、この無菌室へと帰還するまでの時間を耐え忍んでいるに過ぎなかった。私の肉体は外界にありながら、私の精神の『鰓』は、すでに美青先輩が供給する冷たい水の中でしか酸素を取り込めないように、完全に退化し、そして進化してしまっていたのだ。
閉じた世界。
私は、自分が透明な分厚いガラスの壁に四方を囲まれた、狭く冷たい水槽の中に完全に閉じ込められていることを理解していた。
しかし、そこから逃げ出そうという意志は、私の内側には全く存在しなかった。
むしろ私は、そのガラスの壁を自らの手でさらに分厚く補強し、外の泥水が一滴も入り込まないように狂信的な目張りを行い続けている。自分が一生この箱庭から出られない囚人であることを、至上の幸福であり、選ばれた者の特権であると狂おしいまでに錯覚していた。
美青先輩のあの氷のような瞳に見つめられ、彼女の無機質な言葉を書き留めるだけの、空っぽの観測機器。
それが、神宮沙耶という人間の、完成された美しい末路であった。
古い振り子時計が、時刻を知らせる無機質な重低音を響かせた。
私は、アルコールの布を元の棚へと丁寧に戻し、再び自分の指定席であるパイプ椅子へと腰を下ろした。
そして、革張りの手帳を両手で抱きしめるようにして膝の上に置き、暗闇に沈みゆく部屋の中央で、彫刻のように静止している美青先輩の絶対的な横顔を、ただ静かに、恍惚と見つめ続けた。
私の肺が、この部屋の冷たく乾燥した空気を、深い安堵とともに吸い込む。
私は、自らの意思でゆっくりと、そして完全に窒息していく。




