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『水槽』  作者: 長月有希


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 世界は、ひどく不潔な泥でできている。

 無遠慮に他者の領域へと踏み入る靴底の汚れ、空気を読まずに吐き出される生温かい言葉の飛沫、自己愛と劣等感が複雑に絡み合った粘着質な視線。それらすべてが混ざり合い、発酵し、強烈な腐臭を放つ泥沼。それが、私の知る社会であり、人間関係という名の終わりのない地獄であった。

 大学という空間もまた、その泥沼の縮図に過ぎない。美しく舗装されたキャンパスの並木道も、最新の空調設備が整った大講義室も、そこに群がる数多の学生たちが無意識のうちに撒き散らす情動の泥によって、常に息の詰まるような湿気と悪臭に満ちている。彼らは、自分がどれほど醜い排泄物を他者に押し付けているかということに無自覚なまま、互いの泥を貪り合い、傷つけ合いながら、不格好な呼吸を続けている。傷つくことを極端に恐れながら、他者を傷つけることにはひどく鈍感な、浅ましく群れるだけの生き物たち。


 だからこそ、旧校舎の三階、北の果てに位置するこの使われていないゼミ室だけが、私にとって世界で唯一の『無菌室』であった。


 ここでは、外界のすべてが濾過されている。

 堅牢な分厚い木扉と、隙間なく閉ざされた磨りガラスの窓。それらが外の世界の喧騒と泥臭い空気を遮断し、この四角い空間にただ静謐な沈黙だけを満たしている。部屋の隅には古びた空気清浄機が置かれているが、この空間の純度を保っているのは、決してそのような機械の力ではない。

 部屋の中央、黒い革張りのソファに深く腰を下ろしている一人の美しい存在。

 鴻巣こうのす美青みあ先輩の放つ、絶対零度の静寂こそが、この部屋を世界から切り離された水槽へと作り変えているのだ。


 私は、部屋の片隅に置かれた冷たいパイプ椅子に背筋を伸ばして座り、膝の上に黒い革張りの手帳を広げたまま、少し離れた場所にいる美青先輩の横顔を恍惚と見つめていた。

 古い時計の秒針が時を刻む微かな摩擦音だけが、等間隔に空気を揺らしている。

 彼女は今、静かな手つきで、自らのために一杯の紅茶を淹れているところだった。

 腰のあたりまで真っ直ぐに伸びた艶やかな黒髪が、磨りガラス越しに差し込む午後の薄暗い斜光を吸い込み、底知れぬ深海のような青みを帯びた闇色に光っている。色素の薄い、白磁のように滑らかな皮膚。その肌には、外の世界の不浄な泥など一滴も触れたことがないかのような清潔感が宿っていた。顔立ちは黄金比で造形された彫刻のように整っており、ぽってりとした血色の良い唇と、それとは対照的な、すべてを見透かすようなけだるげで重たい視線が、威圧感と神々しい色気を同時に放っている。


 白く細い指先が、硬質な陶器のティーカップの持ち手を静かにつまみ上げる。

 無駄な力みがなく、関節の一つ一つが計算し尽くされた軌道を描くその所作は、精巧に作られたからくり人形のようでもあった。ティーカップがソーサーから離れる時も、そして口元へと運ばれる時も、食器同士がぶつかる下品な音は微塵も発生しない。彼女の周囲だけ、重力や摩擦といった法則が全く別の特別なルールで稼働しているかのようだった。


 しかし、彼女は決して無機質な機械や彫像などではない。

 カップの縁に柔らかな赤い唇が触れ、熱を帯びた琥珀色の液体が口腔内へと流れ込む。その瞬間、細く美しい首筋にある小さな喉仏が、滑らかに上下した。皮膚の下には、極細の絹糸のような青い静脈が透けて見えており、彼女の肉体が今、熱い液体を食道へと流し込み、心臓から送り出される血液を全身に循環させているという、生命活動の証左を突きつけてくる。


 彼女は、生きている。

 私と同じように酸素を吸い、熱を消費し、脈を打つ、紛れもない生身の人間なのだ。

 それなのに、彼女の氷のように冷たい瞳の奥には、人間が持つべき情動の揺らぎというものが、何一つ存在していない。

 喜悦も、哀憫も、怒りも、他者への安価な共感も。それらを発生させるための臓器が、彼女の内側だけ初めから綺麗にくり抜かれているかのような、果てしない空洞。

 生きた肉体を持ち、他者と同じように血を通わせながらも、自らの意思で感情という泥を拒絶し、論理と知性だけでこの汚れた世界を俯瞰している。その事実こそが、彼女をただの美しい人間ではなく、人間を超越した『女神』として私の眼球に焼き付けていた。


 もし彼女が、本物の神や天使といった実体を持たない概念であったなら、私はここまで深く彼女に陶酔することはなかっただろう。

 私と同じように、柔らかい皮膚を持ち、血液を流す生身の人間でありながら、この不潔な世界で泥を跳ね除け、純白を保ち続けている。その途方もない精神の孤高に、私は救われたのだ。

 彼女が紅茶を飲み込む微細な喉の動きを見るだけで、背筋に甘い痺れが走るのを自覚していた。私がこの息の詰まる世界でまともに呼吸を許されているのは、彼女が作り出したこの冷たい水槽の中だけだ。彼女の紡ぐ言葉という酸素がなければ、私はたちまち外の泥水に引きずり込まれ、再び絶望の中で窒息してしまう。


 だから私は、この空間を汚すいかなるノイズも許さない。

 彼女の足元に控え、彼女がこれから行う美しい救済の儀式を、ただ一文字の漏れもなく記録し続けるための、最も忠実で清潔な観測機器でありたかった。彼女の視界の端に存在することを許された特権に打ち震えながら、膝の上の手帳に万年筆のペン先を静かに押し当てる。

 部屋の隅に置かれたガラスの花瓶には、純白の百合が活けられている。その冷たく甘い香りが、古い紙とインクの匂いと混ざり合い、肺の奥深くまで清浄な空気を満たしていく。


 ここには、私たちの他には誰もいない。

 ただ、美しさと、それを記録する私だけの閉ざされた世界。

 私は、美青先輩がゆっくりとティーカップをソーサーに戻し、長く美しい睫毛を伏せる所作を、瞬きすら惜しんで見つめ続けた。白い指先が、微かな埃の舞う斜光を横切る。その光景のすべてが、一枚の宗教画のように脳髄へと刻み込まれていく。


 午後三時十五分。

 永遠に続くかと思われた無菌室の静寂が、無遠慮な摩擦によって唐突に破られた。

 廊下から響く、重く引きずるような不規則な足音。それがドアの前で立ち止まる気配。

 真鍮の重いドアノブが不恰好に捻られ、分厚い木扉が鈍い音を立てて押し開けられた。

 敷居を跨いでこの神聖な領域へと侵入してきたのは、私たちの通う大学の、少し見覚えのある女子学生だった。おそらく、他学部の二年生か三年生だろう。

 彼女が足を踏み入れた瞬間、私は無意識のうちに眉間を深く寄せ、肺への吸気を極限まで浅くした。


 持ち込まれたのだ。外の世界の、不浄で生臭い泥が。


 彼女の肩で息をする不格好な呼吸のリズムが、調律されていた部屋の空気を無残に掻き乱す。衣服に染み付いた、市販の甘ったるい柔軟剤と、緊張による微かな汗の匂。そして何より、彼女の全身の毛穴から立ち上る、自己愛と被害者意識が煮詰まったような、粘り気のある感情の熱。

 髪は毛先が不揃いに傷んでおり、視線は落ち着きなく宙を泳いでいる。目元には昨夜から引きずっているであろう寝不足と涙の痕跡が、崩れた化粧とともに醜くこびりついていた。

 すべてが不快だった。この静謐な水槽の中に、突如として放り込まれた異物。

 彼女は、自分がどれほどこの美しい空間を汚染しているかということに微塵も気づいていない様子で、部屋の中央で静かにこちらを見つめる美青先輩の姿を捉えると、縋り付くような卑屈な表情を浮かべた。


「……あの、鴻巣さん、ですか。ここで、どんな悩みでも聞いてくれるって、友達から聞いて」


 女子学生の声は、精神の不安定さからひどく上擦っており、他者にすがりつくことへの浅ましい媚びと、自分の惨めさを認めたくないという見え透いたプライドが交差して、耳障りな不協和音を生み出していた。

 私は、万年筆を握る指先に力を込め、心の中で嫌悪感を噛み殺した。

 どうせ、取るに足らない下劣な泥だ。

 自分が傷つきたくないがために他者に責任を押し付け、誰かに『あなたは悪くない』という免罪符を与えてもらうためだけに、噂を頼りにこの部屋へと迷い込んできた愚かな生き物。

 彼女が美青先輩の清らかな時間を奪うことへの憤りを覚えながら、それでも記録係としての職務を全うするため、手帳の真っ白なページに来訪時間を冷徹に書き入れた。


 しかし、美青先輩は、自らの空間を汚す不快な異物に対し、一切の不快感を示すことはなかった。

 ただ、長く美しい睫毛に縁取られた氷のような瞳を、ゆっくりと女子学生の方へと向けただけだ。


「ええ。お待ちしていました。どうぞ、そちらへ」


 美青先輩の口から紡がれた声は、薄いガラスの表面を滑る水滴のように澄み切って、一切の感情の摩擦を伴わない美しさを持っていた。

 その声を聞いた瞬間、女子学生の肩の強張りが、目に見えて抜け落ちるのが分かった。

 美青先輩の声には、他者の警戒心を瞬時に解きほぐし、深淵へと引きずり込む引力がある。それは、言葉の中に、相手を評価しようとする『人間の熱』が含まれていないからだ。否定も肯定もされない温度の低さが、泥に溺れて傷ついた人間にとっては、すべてを許容してくれる無条件の受容であると錯覚させてしまうのだ。


 女子学生は、見えない糸に引かれるようにしてふらふらと歩み寄り、美青先輩の対面にある来客用のソファへと腰を下ろした。

 膝の上で両手を強く握りしめ、まるで神父に懺悔をする罪人のような、あるいはまな板の上に自ら横たわる魚のような、怯えと期待の入り混じった目で美青先輩を見つめた。


「三年付き合っている、恋人のことなんです」


 女子学生の震える唇から、彼女が抱え込んできた泥の塊が、不格好な言葉となってこの静謐な空間に吐き出され始めた。


 それは、どこにでも転がっている、ひどくありふれた色恋沙汰の残骸であった。

 口から零れ落ちる言葉は、一見すると恋人の心変わりに対する悲痛な嘆きのように装飾されていたが、その実態は、醜悪な自己愛と他責思考が複雑に絡み合った、粘着質な排泄物でしかなかった。

 最近の彼の連絡頻度が極端に減少したこと、週末の約束を理由も曖昧なままキャンセルされたこと、そして彼の視線が自分以外の何かを捉えているような漠然とした不安について、事細かに語り続けた。語り口には、無意識のうちに『私はいかに彼に尽くしてきたか』『私はいかに正しいか』という自己正当化の熱が帯びており、言葉を発するたびにその熱が部屋の空気を重く濁ったものへと変質させていく。


 私は、膝の上の手帳に万年筆を走らせながら、吐き出す言葉の羅列を、ただの無機質な音声データとして記録し続けた。紙の表面を滑るペン先の摩擦音だけが、私の正気を辛うじて繋ぎ止めている。

 語る愛という単語には、いかなる純度も存在していなかった。

 彼が自分の思い通りに動かないことへの苛立ち。自分が費やしてきた三年間という時間が無価値なものとして水泡に帰すことへの恐怖。そして何より、自分から関係を終わらせるという責任を負うことから逃げ回り、誰かに『あなたは悪くない、相手が悪いのだ』と断罪してもらうための、安価な免罪符を求めているだけの卑屈な根性。

 握りしめている綿のハンカチは、掌から滲み出る嫌な汗によって湿り気を帯び、不快な皺を深く刻んでいる。小刻みに震える肩も、瞬きを繰り返す充血した目元も、私にはただ、自らの不幸に酔いしれている滑稽な喜劇の役者にしか見えなかった。


 なぜ、人間はこうも自らの足で立つことができないのか。

 なぜ、自分が抱えきれなくなった泥を、平然と他者の領域へと持ち込み、無断で撒き散らすことができるのか。

 私は、彼女の口から吐き出される二酸化炭素が、この無菌室の百合の香りを汚染していくことに、殺意に近い嫌悪感を抱いていた。呼吸を浅くし、彼女の存在を視界から排除しようと努める。しかし、ひきつった声帯が発する不協和音は、無慈悲に私の鼓膜を叩き続けていた。


「……私、彼のために、サークルも辞めたんです。彼が、私が他の男の人と話すのを嫌がるから。料理だって、彼の好きなものばかり練習して……」


 女子学生は、自らの犠牲を誇示するように、かすれた声で言葉を紡ぐ。

 それは自己犠牲などではない。相手を自分の思い通りにコントロールするための、恩着せがましい投資の羅列に過ぎない。彼女は彼を愛していたのではなく、彼に尽くすことで『愛されているはずの自分』という価値を証明したかっただけだ。その投資が回収不能になりかけている今、投資先を損切りする勇気もなく、ただ途方に暮れて泣き言を並べている。

 私は、万年筆のインクが紙に滲むのを見つめながら、その醜い精神構造を冷徹に解剖し、心の中で切り刻んでいた。


 しかし。

 私のすぐ数メートル先で、その不快な泥の奔流を真正面から浴びている美青先輩は、微動だにしていなかった。

 黒い革張りのソファに深く身を沈めたまま、ただ静かに、美しい顔を女子学生の方へと向けている。真っ直ぐに伸びた背筋は、いかなる外圧にも屈しない彫刻のようであり、テーブルの上に組まれた白磁のような指先は、微かな震えすら見せない。

 長く美しい睫毛に縁取られた氷のような瞳は、女子学生の涙に濡れた顔を、瞬きすら忘れたかのように見つめ続けている。


 その瞳の奥には、女子学生の語る悲劇に対する共感も、同情も、そして私のような嫌悪感すらも浮かんでいなかった。

 あるのはただ、底なしの虚無。

 女子学生が吐き出す生温かい泥の言葉が、美青先輩の冷たい瞳の表面に到達した瞬間、一切の波紋を起こすことなく、音もなく深淵へと吸い込まれて消滅していくように見えた。

 私は、その光景に神聖さを見出し、息を呑んだ。


 美青先輩は、汚れない。

 どれほど醜悪な人間の排泄物を浴びようとも、内側にある静寂は、いかなる不純物の侵入も許さないのだ。彼女の心は、外界の泥を受け入れ、そしてすべてを無効化してしまう、広大な冷たい海。

 私がアルコールで狂ったように拭き上げ、維持しようとしている無菌室の空気は、彼女自身の存在によってすでに完成されている。彼女こそが、この不潔な世界における唯一の濾過装置であり、純白なのだ。


 美青先輩は、女子学生が言葉に詰まり、呼吸を乱すたびに、ほんのわずかに顎を引き、静かな相槌を打つような仕草を見せた。

 口から発せられる言葉はない。ただ、沈黙と視線だけが、女子学生に『私はあなたのすべてを受け入れています』という錯覚を与えていた。

 その無機質な傾聴姿勢は、泥に溺れて傷ついた人間にとっては、肯定として機能する。自分の惨めな言い訳や矛盾だらけの自己正当化を、否定せずに聞いてくれる存在。

 女子学生は、美青先輩の底なしの瞳に自らの醜い姿を映し出しながら、さらに深い内臓の奥底に隠していた泥を、自ら進んで掻き出し始めた。


「……本当は、分かってるんです。彼が、私のことなんて、もう好きじゃないって……」


 女子学生の声が、致命的なひび割れを起こした。

 必死に目を背けようとしていた真実。それを、自らの口で言語化してしまった瞬間、彼女を支えていた細い糸が断ち切られた。


「でも、三年間……私の三年間は、何だったの……。今さら、一人になんてなれない。私がどれだけ我慢してきたか……どうして、私ばかりが、こんな思いを……っ」


 瞳から、ついに大粒の涙が零れ落ちた。

 失われた愛を悼む涙ではない。自分の時間が無駄になったことへの憤りと、誰にも価値を認めてもらえない孤独に対する、自己憐憫の涙であった。

 彼女は、膝の上で握りしめていたハンカチに顔をうずめ、周囲の空気を震わせるような激しい嗚咽を漏らし始めた。肩が大きく上下し、肺から絞り出される空気が不格好な摩擦音を立てる。

 涙と鼻水が混ざり合い、衣服を汚していく。理性が崩壊し、見苦しい感情が剥き出しになる瞬間。

 この部屋の湿度が、彼女の吐き出す熱によって上昇していくのが分かった。私は、その耐え難い不快感に目を背けたくなる衝動を抑え込み、手帳のページにペンを押し当てたまま、美青先輩の顔を見つめた。


 美青先輩は、目の前で決壊した女子学生の姿を、無表情のまま見下ろしていた。

 完璧な造形を保つ顔面には、一本の筋肉の強張りも生じていない。自らの目の前で崩壊を起こしている物体を、正確な観測機器のように見つめているだけだった。

 女子学生の涙は、美青先輩の心を一ミリも揺さぶることはない。彼女の絶対零度の領域において、他者の絶望とは、ただの温度変化を伴う物理現象に過ぎないのだ。


「……鴻巣さん、教えてください……」


 女子学生は、ハンカチからぐしゃぐしゃになった顔を上げ、涙で滲んだ充血した目を美青先輩へと向けた。

 その目は、自らの足で立つことを放棄した人間の、哀れで狂気的な依存の光を帯びていた。


「私、どうすればいいんでしょうか。彼と、別れたほうがいいんですか……? それとも、もう少し待てば、また昔みたいに……。もう、自分じゃ何も分からないんです……助けてください……」


 自分では何も分からない。

 その言葉は、人生の決定権を、完全に他者へと委ねるという降伏宣言に他ならなかった。彼女は、この美しい水槽の底に自ら横たわり、神の裁きを待つ生贄となったのだ。


 無菌室の空気が、完全に停止した。

 古い時計の秒針が時を刻む微かな摩擦音すらも、どこか遠くの世界へ消え去ってしまったかのような静寂。

 私は、息を呑んでその瞬間を待った。

 美青先輩が、テーブルの上に組んでいた白磁のような指先を、ゆっくりと解く。

 ぽってりとした赤い唇が、微かな粘膜の音を立てて開かれる。この不快な泥の塊を、いかに美しく、そして残酷な論理のメスで解剖し、救済という名の儀式を完了させるのか。私は、狂信的な期待に細胞を震わせながら、女神が宣告を下すその瞬間を、瞬きすら忘れて凝視していた。


「あなたは、一つ、根本的な勘違いをしています」


 美青先輩の口から紡ぎ出されたのは、慰めでも、共感でも、ましてや安易な同情でもなかった。

 春の夜気のようにひどく優しく、耳の奥をくすぐるような甘い声色でありながら、女子学生が自らを正当化するために何重にも着込んでいた分厚い自己欺瞞の鎧を、最も薄く鋭利な刃で切開していく、完璧な外科手術の始まりであった。


 女子学生の肩が、見えない打撃を受けたかのように跳ね上がった。瞳に、明らかな混乱が浮かび上がる。


「あなたは今、私に助けを求めました。彼と別れるべきか、待つべきか。自分の人生の選択を、見ず知らずの私に委ねようとしている。それはなぜですか?」


 美青先輩の問いかけは、ひどく静かだった。相手を非難しようとする熱も、道徳的な説教めいた響きも存在しない。ただ、目の前の机に置かれた複雑に絡み合った糸の塊を、法則に従って淡々と解きほぐしているだけだ。それゆえに、女子学生には逃げ道が存在しなかった。


「……え、それは……私が、どうすればいいか、分からなくて……」


「違います」


 女子学生のすがるような弁明を、美青先輩は冷徹な一言で両断した。


「あなたは、自分がどうしたいか、とうの昔に分かっているはずです。彼の心がすでに自分から離れていることも、これ以上縋り付いても惨めになるだけだということも、あなたの本能は正確に理解している。それなのに、別れを切り出せないのは、彼を愛しているからではありません。ただ単に、自分から関係を終わらせるという『悪役』になる責任から逃げ回っているだけなのです」


 その瞬間、女子学生の顔から、血の気が引いていくのが手にとるように分かった。

 身を守るために塗っていた安価なファンデーションの下で毛細血管が収縮し、皮膚が土気色に変色していく。口元が痙攣するように歪み、見開かれた瞳孔が激しく揺れ動いていた。


「ちが、違います。私はただ、彼ともう一度ちゃんと向き合いたくて……」


 女子学生の声は、肺から押し出される空気の量が極端に減少し、惨めなほどに掠れていた。

 無意識のうちに身を守ろうとする本能が、両腕を胸の前で交差させる。しかし、美青先輩の言葉のメスは、すでに肋骨の隙間をすり抜け、最も隠しておきたかった軟らかい内臓にまで到達していた。


「向き合う、という言葉は、非常に便利な隠れ蓑です」


 美青先輩は、ソファの背もたれからゆっくりと身を起こし、さらに深く、冷酷に刃を突き立てた。


「あなたは彼と向き合いたいのではなく、彼に『自分の価値を再確認させるための行動』を強要したいだけです。三年間という時間は、人間の執着を培養するには十分すぎる長さです。あなたが惜しんでいるのは、彼という一人の人間の存在ではなく、三年間彼に尽くし、耐え忍んできた『可哀想で健気な自分自身の姿』なのです」


「あ、ああ……」


 女子学生の喉の奥から、言葉にならない摩擦音が漏れ出した。

 脳内で、自らを被害者として成立させていた論理の塔が、音を立てて崩壊していくのが分かった。自分の愛が偽物であり、ただの卑屈な損得勘定に過ぎなかったという真理を、他ならぬ自分自身が認めてしまったのだ。


「私、彼のために、サークルも辞めたって言いましたよね……。料理だって……」


 女子学生は、水際で足掻くように、犠牲のリストを再び並べ立てようとする。しかし、その声には先ほどまでの自己陶酔の熱はなく、ただ溺れる者が掴んだ藁のようにもろかった。


「それが、あなたの最も見苦しい自己愛です」


 美青先輩の目は、少しの瞬きも許さず、女子学生の網膜の奥を貫き続けた。


「相手が望んでもいない自己犠牲を払い、それを『愛情』というパッケージに包んで押し付ける。そして、見返りが得られないと分かると、裏切られた被害者のように振る舞う。あなたは彼を愛していたのではなく、彼に尽くすことで『愛されているはずの自分』という価値を証明したかっただけ。その投資が回収不能になりかけている今、投資先を損切りする勇気もなく、ただ途方に暮れて泣き言を並べている。違いますか?」


 絶対的な解剖だった。

 私は、部屋の隅のパイプ椅子からその光景を観察しながら、背筋に強烈な歓喜の悪寒が走るのを自覚していた。

 素晴らしい。あまりにも美しい。

 この愚かな泥の塊は、自分が被害者であるという安全な特等席から、他者を断罪してもらうためにこの部屋を訪れた。しかし美青先輩は、その下劣な期待を粉砕し、彼女自身が抱え込んでいる醜悪な加害性と自己愛を、白日の下に引きずり出したのだ。


 女子学生の目に、急速に透明な液体が飽和していく。

 そして、自己欺瞞の表面張力が限界を超え、とめどない涙となって頬を滑り落ち始めた。

 泣き声は、最初は押し殺したものだったが、やがて自らの醜さをすべて吐き出すかのような、激しく見苦しい嗚咽へと変わっていった。鼻水と涙が混ざり合い、顎を伝って、膝の上に置かれた衣服へと落ちていく。呼吸の乱れとともに、肩が激しく上下し、部屋の空気を不規則に震わせる。

 人間が自らの意志を喪失し、最も無防備で生々しい絶望を曝け出す瞬間。

 この部屋の湿度が、彼女の吐き出す熱によって上昇していくのが分かった。その光景は、私にとってはひどく不潔で、目を背けたくなるような醜態であった。しかし、美青先輩は違った。


 美青先輩は、自らの眼の前で嗚咽を漏らし、決壊した女子学生の姿を、ただの一度もまばたきをすることなく見つめ続けていた。

 その色素の薄いガラス玉のような瞳の中には、泣いている人間に対する憐憫も、優越感すらも存在していなかった。

 あるのはただ、底なしの虚無。

 ハンカチを差し出すことも、慰めの言葉をかけることもしない。女子学生が自らの内臓の底に溜まっていた泥をすべて吐き出し、空っぽの肉塊へと還元されるまでの時間を、ただ静寂の中で見守り続けている。

 その姿は、あまりにも神々しく、背筋が凍るほどに美しかった。

 他者の精神をこれほどまでに破壊し、支配しておきながら、彼女自身の内側にはいかなる情動の波紋も起きていない。彼女の心は、外界の泥を受け入れ、すべてを無効化してしまう、広大な冷たい海なのだ。


 どれほどの時間が経過しただろうか。

 やがて、女子学生の激しい嗚咽は、ひどく疲労しきった、空虚な深呼吸へと変わっていった。

 涙と鼻水でぐしゃぐしゃになった顔を両手で覆ったまま、ソファの上で小さく丸まっている。彼女が持ち込んでいた自己愛と被害者意識の粘り気のある熱は、すでに消滅していた。残っているのは、美青先輩の言葉のメスによって自我を解体され、自らの意思ではもう立ち上がることすらできない、ただの空洞の容れ物だけだ。


 彼女が自立心を失い、何かにすがりつかなければ生きていけない状態に仕上がった完璧なタイミングを見計らい、美青先輩は再び、薄いガラスを思わせる声で静かに宣告を下した。


「すべてを、終わらせなさい」


 そのたった一言は、女子学生にとって、暗闇の底に垂らされた救いの蜘蛛の糸であったに違いない。

 美青先輩は、ソファからゆっくりと立ち上がり、女子学生の前に歩み寄った。そして、彼女の涙に濡れた頭の上に、その白磁のような手をそっと置いたのだ。

 美青先輩の冷たい指先が、女子学生の傷んだ髪に触れる。その瞬間、女子学生の肩の強張りが、魔法のように解けていくのが見えた。


「あなたは今、自分自身の醜さを認め、すべての執着から解放されました。他者に自分の価値を委ねる愚かさを知った今のあなたは、この部屋の空気のように、清らかです」


 美青先輩の声は、まるで賛美歌を歌う聖母のように、肯定感に満ちていた。

 私はその言葉を聞きながら、自らの胸の奥が熱くなるのを止められなかった。先輩は、自らの手で相手の皮膚を剥ぎ取り、内臓を引きずり出した後で、その血まみれの傷跡を自らの美しい純白の衣服で覆い隠してあげるのだ。


「もう、自分を偽るための安価な関係にすがりつく必要はありません。今日、彼との関係を終わらせなさい。私が、あなたのその決断を肯定してあげます」


 肯定してあげる。

 その響きを持った言葉が、女子学生の鼓膜を震わせた瞬間、彼女の身体から最後の抗力のようなものが抜け落ちていった。

 自らの頭に置かれた美青先輩の冷たい手の上に、自分の両手を重ね合わせ、祈るように深く額を擦り付けた。


「……はい。はい……ありがとうございます。私、別れます。今日、絶対に……」


 女子学生の声には、もはや迷いは微塵も残っていなかった。

 自ら考えることを完全に放棄したのだ。自分の人生の選択を、自分を解剖し、破壊したこの美しい神へと委ねることで、責任という重圧から逃れる道を選んだ。

 顔には、涙と化粧の残骸が醜くこびりついているものの、その瞳には憑き物が落ちたような、不気味なほどの多幸感が浮かんでいた。

 自分の最も見醜い部分を暴かれたはずなのに、自分が『救われた』と心から錯覚している。美青先輩の冷徹な論理の刃によって切り刻まれ、中身を書き換えられたに過ぎないというのに、彼女はこの無菌室の支配者に陶酔し、感謝を捧げているのだ。


 私は、その支配と服従の儀式を目の当たりにし、手帳を握りしめる指先が微かに震えるのを感じていた。

 これこそが、私が信仰する鴻巣美青という存在の、真の美しさだ。

 相談者の悲しみや苦悩に安っぽい共感など決して示さない。ただ、相手の自我を論理で解体し、空っぽになったところに自分の言葉という新しい酸素を与える。人間が自らの意志で選択し、もがき苦しむことの無意味さを教え、ただ彼女の言葉に従うことの安らぎを与えるのだ。

 人間は、自分で考えるから泥に塗れる。自分で選ぶから傷つく。

 ならば最初から、すべてをこの冷たく美しい水槽の中に投げ出してしまえばいい。彼女という濾過装置を通した言葉だけを吸い込んで生きていけば、私たちはもう二度と、外の泥水に溺れて苦しむことはないのだから。


 女子学生は、何度も深く頭を下げ、足取りも軽く部屋を出て行った。

 扉の向こうに消え、重い木扉が閉ざされた後、無菌室には再び、完璧な静寂と、冷たい百合の香りが戻ってきた。


 美青先輩は、自らの手についた見えない汚れを拭き取るような素振りすら見せず、ただ静かに元の革張りのソファへと戻り、すっかり冷めきった紅茶のカップを再び手に取った。

 窓からの斜光が横顔を照らし、陶器のような肌が白く発光しているかのように見える。内側には、先ほどまでの激しい解剖劇の熱など、微塵も残っていない。ただ、変わらぬ虚無があるだけだ。


 私は、急いでパイプ椅子から立ち上がり、部屋の隅に置いてあったアルコールの入ったスプレーボトルと清潔な布を手に取った。

 そして、女子学生が座っていた来客用のソファへと向かい、彼女が残していった不浄な涙の痕跡や、体温の残滓を、狂信的な手つきで拭き上げ始めた。

 スプレーボトルから噴射される細かいアルコールの粒子が、空気中に残っていた泥の匂いを殺菌していく。布で革の表面を強く擦る摩擦音だけが、静謐な空間に小気味よく響いた。


 この部屋に、外の世界の泥は一滴たりとも残してはならない。

 美青先輩の作り出す無菌状態を、私が守り抜かなければならない。

 私は、自分がこの残酷な解剖実験の共犯者であるという真実には一切気づかないまま、ただ美青先輩という女神の足元で、共に清らかな空気を呼吸ができる喜びに、深く陶酔しきっていた。


 ソファの拭き上げを終えた私が、アルコールの匂いが微かに残る指先を胸の前で組み、美青先輩の方を振り返る。

 美青先輩は、冷たい紅茶を一口飲み込んだ後、ゆっくりとその長い睫毛を上げ、私の方を見つめた。

 すべてを見透かすような、重たく、冷たい視線。

 その視線に射抜かれた瞬間、私の心臓が警鐘のように大きく跳ねた。自分が彼女の完全な世界の一部として認識されているという優越感が、細胞の隅々にまで甘い麻酔となって浸透していく。


 外の世界がどれほど不潔な泥にまみれていようとも、私にはこの場所がある。

 私を救い、私に呼吸を与えてくれる、この静謐な解剖室がある限り、私は永遠に清らかなままで生きていけるのだと。

 私は、その信仰に身を委ね、神に向かって祈るように、静かに、深く微笑みを返した。

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