三
私が今、この旧西棟三階の無菌室で吸い込んでいる空気は、一切の不純物を含まない冷たい酸素である。
しかし、私の肺の奥底にへばりついている粘膜は、かつて自分がどれほど致死量の泥水を飲み込み、汚物にまみれて窒息しかけていたかという過去の記憶を、正確に記憶している。
人間は、圧倒的な恐怖や苦痛を前にすると、脳の防衛本能が働いて記憶を薄れさせると言う。だが、それは嘘だ。本当に精神を削り取るほどの絶望は、視覚や聴覚といった表面的な器官ではなく、嗅覚や触覚、そして内臓の痙攣という生々しい生理反応として、肉体に永遠の呪いのように刻み込まれる。
私にとって、高校三年生の春から夏にかけての数ヶ月間は、世界が色彩を失い、ただひたすらに腐臭のする泥沼の底で、重力に押し潰されながら這いずり回っていただけの、果てしない地獄であった。
私の通っていた地方の公立高校は、山と田園に囲まれた閉鎖的な環境にあり、生徒たちの間に形成される社会構造もまた、陰湿で逃げ場のない檻のようであった。そこでは、一度でも集団の同調圧力から外れた者、あるいは理不尽な悪意の標的として選別された者は、二度とそのカーストの最下層から這い上がることは許されない。
私がその標的に選ばれた理由は、今となってはどうでもいいほど些細で、無価値なものであった。誰かの機嫌を損ねた、視線の交わし方が気に食わなかった、あるいはただ単に、群れを維持するための共通の『生贄』が定期的に必要だったという、動物的な本能の産物に過ぎない。
決定的な排除の始まりは、五月の連休明けの、ひどく湿度の高い月曜日の朝であった。
私が重い足取りで教室の引き戸を開け、三十人以上の生徒がひしめき合う空間へと足を踏み入れた瞬間。私という個体は、物理法則を無視して、この世界から『存在しないもの』として処理された。
私の網膜に映る彼らは、確かにそこで呼吸をし、机を寄せ合って雑談を交わし、笑い合っている。しかし、私がその群れの中を通り抜け、自らの座席へと向かって歩を進めても、誰一人として私に視線を向ける者はいない。私が歩く軌道上だけ、まるで忌まわしい汚物が通過するのを避けるかのように、不自然な空白が生まれる。
それは、ただの静寂や無視といった生易しいものではなかった。
三十人分の悪意と拒絶が、高い密度を持った『気圧』となって、私の全身の皮膚を四方八方から容赦なく圧迫してくるのだ。彼らが放つ生温かい体温、制服に染み付いた市販の安価な柔軟剤の匂い、そして未成熟な肉体が発散する酸っぱい汗の臭気。それらすべてが混ざり合った教室の空気が、私という異物を肺の奥から排斥しようと、目に見えない巨大な壁となって迫ってくる。
息が、吸えない。
私は、教室の中を自らの席まで歩くその十数秒間の間に、酸素の供給を絶たれた深海魚のように、肋骨の内側で心臓を激しく収縮させていた。
そして、自らの座席に辿り着いた私を待っていたのは、無言の暴力の祭壇であった。
木目の剥き出しになった古い机の表面に、黒く、太く、そしておぞましいほどの執念を込めて書き殴られた、無数の文字の群れ。
殺意、嘲笑、そして私の存在そのものを根底から否定する排泄物のような言葉の数々が、机の天板を埋め尽くしていた。しかし、私の精神を最も深く抉り取ったのは、その文字の意味ではない。
油性インクの、強烈な化学溶剤の匂いであった。
密閉された空間で大量に消費された油性マーカーの匂いが揮発し、私の鼻腔を暴力的に突き刺す。トルエンやキシレンといった有毒な溶剤の悪臭が、古い木材の匂いと混ざり合い、強烈な吐き気を誘発する。その匂いは、彼らがこの文字を書き殴るためにわざわざキャップを外し、冷酷な笑みを浮かべながらペン先を木目に押し付けていたという『時間と労力』を、私に否応なく想像させた。
私は、震える指先でその机の表面に触れた。
油性のインクは、木の繊維の奥深くまでどす黒く浸透しており、表面をいくら削り取ろうとも決して消えることはない。ペン先が強い筆圧で押し付けられたことによって生じた、木材の微細な凹凸とひび割れ。そのささくれ立った触感が指の腹を擦るたび、何十人もの人間が私に向けた悪意の質量が、直接血管の中へと流れ込んでくるようだった。
私がその席に力なく腰を下ろすと、周囲の空間から、微かな、しかし明確な嘲笑の気配が波紋のように広がった。
彼らは声を出して笑うことはない。ただ、顔の筋肉を醜く歪め、眼球の端だけで私という惨めな汚物を観察し、その絶望の表情を自らの優越感の糧として貪っているのだ。
私は、インクの悪臭が立ち上る机の上に両腕を置き、ただひたすらに自分の呼吸の音だけを聞きながら、時間が過ぎ去ることだけを祈り続けた。
しかし、悪意という泥水は、日を追うごとにその水位を増し、私の首元まで達しようとしていた。
机の落書きは、序章に過ぎなかった。
数日後、私が登校して上履きに履き替えようと下駄箱を開けた時のことだ。
私の白いキャンバス地の上履きは、どす黒く濁った水に浸り、無残な姿で放置されていた。
それはただの泥水ではない。花瓶の中で何日も放置され、植物の茎がドロドロに腐敗して溶け出した、強烈な腐臭を放つ死水であった。
有機物が腐っていく、むせ返るような生臭さ。カビと細菌が繁殖したその緑褐色の液体が、上履きの布地に染み込み、底のゴム材と分離し始めている。私は、その異臭に胃液を込み上げさせながら、震える手でその濡れた布の塊をつまみ出した。
指先に伝わる、冷たく、ひどく粘り気のある感触。腐った植物の破片が、皮膚にべったりと付着する。
その日の私は、濡れた靴下の上から直接冷たい廊下の板張りを歩くことを余儀なくされた。足の裏から、体温が急速に奪われていく。硬く冷たい床の感触が、一歩踏み出すごとに足の骨に響き、自分が人間としての尊厳を剥奪された奴隷であるかのような惨めさを増幅させた。すれ違う生徒たちは、私の足元を見て顔をしかめ、汚物を避けるように大きく道を開ける。私は、自らが発する腐臭に怯え、極限まで背中を丸めながら、ただ視線を床に落として歩き続けることしかできなかった。
直接的な暴力も、徐々に日常を侵食し始めた。
休み時間に廊下を歩いていると、すれ違いざまに肩を激しく打ち据えられる。いかなる感情の起伏も見せない、冷酷で事務的な作業のような体当たり。鎖骨に鈍痛が走り、バランスを崩して硬いリノリウムの床に膝を打ち付ける。
擦り剥けた皮膚から微かに血が滲み、鉄の匂いが鼻を突く。
しかし、周囲の人間は誰一人として私を助けようとはしない。彼らは、転倒した私の姿を網膜に映しながら、まるで道端に転がる無機質な石ころを跨ぐように、一切の歩みを止めることなく通過していく。
私は、冷たい床に手をついたまま、自分がこの世界において『透明な存在』になっていることを痛感していた。私が痛みを感じようと、血を流そうと、彼らにとってそれは風景の一部に過ぎない。他者の痛みに対する無関心。それこそが、打撃そのものよりもはるかに鋭利な刃となって、精神の最も深い部分を切り刻んでいた。
私が頼るべき最後の防波堤は、大人たちであったはずだ。
しかし、彼らの存在が、私を絶望の底へと叩き落とし、肺から最後の酸素を奪い去る決定的な引き金となった。
六月の雨が降り続く、鬱屈した午後のことだった。
私は、限界に達した精神を引きずり、職員室の奥にある生活指導の小部屋で、担任の男性教師と向かい合って座っていた。
狭い部屋の中には、安価なインスタントコーヒーの焦げたような匂いと、長年染み付いたタバコのヤニの臭気が充満し、ひどく息苦しかった。窓ガラスを打ち付ける雨の粒が、外の世界との隔絶を強調している。
担任教師は、くたびれたスーツの袖を捲り上げ、手元の出席簿と成績表の束を意味もなく揃えながら、私の方を一度も見ようとはしなかった。彼の視線は、常に私の肩越しにある虚空か、あるいは机の上の無機質な紙の束に向けられていた。
「それで、神宮。お前がクラスで孤立していると感じるのは、お前自身の被害妄想じゃないのか?」
教師の口から吐き出されたその言葉には、面倒な仕事を早く片付けたいという官僚的な怠慢と、自らの責任を回避しようとする大人の醜い自己防衛が煮詰まっていた。
私は、自らの机が油性ペンで埋め尽くされていること、上履きに腐った水が入れられていたこと、廊下で意図的に突き飛ばされていることを、震える声で必死に訴えた。しかし、私の口から出た言葉は、彼にとってはいかなる重量も持たない、ただの耳障りなノイズとして処理されていた。
「証拠はあるのか。誰がやったか見たわけじゃないんだろう。みんな受験前で気が立ってる時期だ。お前も、もう少し周囲と協調性を持つ努力をしないと。クラスの輪を乱すような態度は、お前自身の内申にも響くぞ」
協調性。努力。内申。
彼が並べ立てるそれらの単語は、私という人間の痛みを無視し、ただ組織の平穏を維持するための、空虚で不潔な呪文であった。
彼は、私の痛みに向き合うことを最初から放棄している。いじめという面倒な問題が自らのクラスで起きているという事実を認めたくないがゆえに、すべての責任を『私自身の協調性の欠如』という枠組みの中に押し込めようとしているのだ。
私は、教師のその濁った眼球を見つめながら、自らの内側で、何か決定的なものが音を立てて砕け散るのを感じた。
大人も、社会も、誰も私を救ってはくれない。
彼らにとって私は、守るべき一人の人間ではなく、ただ自らの保身と日常を脅かす不快なエラーコードに過ぎないのだ。
私は、両膝を強く握りしめ、冷たい雨の降る外の世界と、このヤニ臭い部屋の空気の狭間で、孤立していることを悟った。
肺の奥にまで入り込んでいた僅かな酸素が、教師の吐き出す二酸化炭素によって押し出され、真空状態へと変貌していく。
私の魂は、この日、完全に死滅した。
外の世界には、私を生かすための空気など一滴も存在しない。
私は、底なしの泥水の中で自ら呼吸を止め、ただ静かに腐敗していく自分の肉体を、暗闇の中で抱きしめることしかできなかったのだ。
大人という防波堤が、ただの泥の塊に過ぎなかったことを悟ったあの日から、私の世界を構成するすべての物理法則は、その性質を変容させてしまった。
重力はこれまでの数倍の質量を持って骨格にのしかかり、呼吸をするたびに肺に流れ込む空気は、水飴のように粘り気を帯びて気道を塞ごうとする。視覚が捉える色彩はすべて灰色のフィルターを通したように濁り、太陽の光すらも、皮膚を温めるのではなく、ただ細胞の腐敗を促進させるための有害な放射線としてしか機能しなくなった。
私は、自分が生きながらにしてすでに死亡している、という矛盾した、しかし揺るぎない真理を抱えながら、高校の教室という名の霊安室へと毎日通い続けていた。
精神の崩壊は、決して劇的な悲鳴や狂乱を伴って訪れるものではない。
それは、静かで、緩やかな『機能の停止』の連続であった。
最初に異常をきたしたのは、食物を摂取するという、生物としての最も基本的な欲求の喪失である。
昼休みになると、私は誰の視線にも触れないよう、校舎の最上階にある最も人通りの少ない女子トイレの個室へと逃げ込み、冷たい便座の上に座って母親が持たせた安価な菓子パンを口に押し込んでいた。しかし、口腔内の粘膜はすでにすべての水分を失っており、唾液腺はいかなる消化酵素も分泌しようとはしなかった。
乾燥したパンの生地を前歯で削り取り、奥歯ですり潰す。その作業は、まるで味のない古紙や段ボールの破片を噛み砕いているかのような、無機質で苦痛に満ちた摩擦でしかなかった。いくら咀嚼しても食物は食道を通り抜けるための滑らかさを得ず、私は備え付けの水道の蛇口から生温かい水を直接胃に流し込むことで、強引に固形物を体内に投棄し続けた。
便器の奥から立ち上るアンモニアの刺激臭と、それを誤魔化すために置かれた安価な芳香剤の人工的なレモンの香りが、狭い個室の空気をひどく不潔に満たしている。
私は、その吐き気を催す悪臭の中で、ただ自らの生命を維持するためだけの無意味な給油作業を繰り返しながら、自分の肉体が急速にただの『物質』へと還元されていくのを感じていた。
鏡に映る自分の顔は、もはや私の知っている私自身のものではなかった。
頬の肉は削げ落ち、眼球は落ち窪んで、その周囲にはどす黒い色素が死斑のように沈殿している。唇から血の気は失せ、髪は水分と油分を奪われて、枯れた植物の蔓のようにパサついていた。
私は、水道の冷たい水で顔を洗いながら、そのひどく惨めな死体の顔を、全くの他人のものを観察するような冷徹な視線で見つめ返した。
悲しみは、もう一滴も残っていない。怒りも、絶望すらも、すでに内臓からは枯渇していた。残っているのは、ただひたすらに、自分が呼吸を続け、心臓の筋肉を収縮させ続けていることに対する、果てしない疲労感だけだった。
七月に入ると、暴力的なまでの真夏の熱気が、閉鎖された教室の空気をさらに重く、腐敗した泥沼へと変質させていった。
窓の外からは、無数の昆虫たちが羽を擦り合わせて発する、脳髄を直接突き刺すような高周波の摩擦音が、絶え間なく教室内に侵入してくる。天井で首を振る扇風機は、生温かい空気をただかき回すだけで、誰の汗も乾かそうとはしない。
私の机の上には、依然として油性インクで書き殴られた悪意が刻まれたままであり、時には椅子の上に、誰かが噛み捨てたガムの塊や、汚れた消しゴムの屑が意図的に撒き散らされていることもあった。
しかし、私はそれらを見ても、もはやいかなる感情の波紋も起こすことはなかった。
悪意の言葉はただの幾何学的な模様に分解され、汚物はただそこにあるという物理現象としてのみ処理される。私は、消しゴムの屑を素手で無造作に払い落とし、インクの悪臭が染み付いた机の上に両腕を乗せ、虚ろな眼差しで黒板の文字を書き写すだけの自動機械と化していた。
周囲の生徒たちは、相変わらず私を透明な汚物として扱い、視界の端で醜い群れを形成していた。
彼らは、大きな声で笑い合い、他者の噂話に花を咲かせ、小さな優越感と劣等感の間を慌ただしく反復横跳びしている。汗を流し、唾液を飛ばし、赤い血を全身に巡らせながら、不格好に生命を燃焼させている。
私は、その光景を、まるで分厚い防弾ガラスの向こう側で行われている、ひどく滑稽な三流の喜劇を観劇するような眼差しで見つめていた。
彼らの内側には、いかに醜悪であろうとも、確かに『生きようとする熱』が存在している。他者を蹴落としてでも自らの安全圏を確保しようとする、動物的な生存本能の執着。私には、それがひどく羨ましくもあり、同時に、吐き気がするほど悍ましくも感じられた。
彼らは、自分がどれほど不潔な泥にまみれ、他者の尊厳を踏みにじりながら呼吸をしているかという事実に、永遠に気づくことはないだろう。その無知と鈍感さこそが、彼らがこの泥水の世界で溺れずに泳ぎ続けるための、最も強靭な浮袋なのだ。
私には、その浮袋が初めから備わっていなかった。
あるいは、度重なる摩擦と暴力によって、とうの昔に破裂させられてしまったのか。
どちらにせよ、私の肉体はすでに限界比重を超え、泥沼の最も深い底へと沈み切っていた。これ以上、この生温かい泥水の中で彼らの排泄物を肺に吸い込み続けることは不可能であった。
死という選択肢が、脳内に論理的な結論として浮かび上がってきたのは、一学期の終業式を数日後に控えた、灰色の雲が空を低く覆い尽くす蒸し暑い午後のことだった。
それは、劇的な発作や、感情の決壊による衝動的な行動ではなかった。
長年使い古してすべての部品が摩耗しきった機械が、自らその電源ケーブルを引き抜くような、冷徹で静かな自己完結のプロセスであった。
これ以上、痛みを先送りにして肉体を維持することに、いかなる投資価値も存在しない。
私は、放課後のホームルームが終わると同時に、誰の視線にも触れないよう静かに教室を抜け出した。下駄箱で、かつて腐った水を注ぎ込まれ、微かにカビの臭気を放つ上履きから、すり減ったローファーへと履き替える。
学校の正門を抜けても、足は自宅のある方向へは向かわなかった。
家に戻ったところで、この決定的な欠落を埋めてくれるものは何一つ存在しない。両親は私の顔色の変化にすら気づかず、ただ日常という名のベルトコンベアの上で、無意味な会話を再生産し続けるだけだ。
私の足は、自らの意志というよりも、重力と傾斜に導かれるようにして、町の郊外へと続く長い下り坂を歩き始めていた。
向かう先は、山と森の境界線に横たわる、巨大で淀んだ湖であった。
アスファルトから立ち上る湿った熱気が、制服のブラウスを肌に張り付かせ、不快な摩擦を生む。しかし、私は立ち止まることも、汗を拭うこともしなかった。歩幅は一定で、呼吸は浅く、視線はただ足元の白線だけを正確に捉え続けている。
すれ違う自動車の排気ガスの匂いや、遠くで鳴り響く踏切の警報音すらも、意識の表面を滑り落ちていく。世界からすべての意味が剥離し、ただ『空間』と『物体』だけがそこに存在しているという、圧倒的な虚無。
脳内を支配していたのは、湖の水の中に自らの肉体を沈めるという、具体的な物理的ビジョンだけであった。
水は、この世界で唯一の、完璧な溶剤である。
あの底知れぬ暗さを持った冷たい水の中に、自らの質量をすべて投げ出せば、どうなるか。
肺に大量の泥水が流れ込み、酸素の供給が絶たれる。苦痛は数分間で終わる。その後は、すべての細胞の結合が解け、私の肉体はゆっくりと確実に分解されていく。
あの油性インクの悪臭も、上履きに染み付いた腐臭も、担任教師の部屋のヤニの匂いも、すべてが水の中に溶け出し、無効化される。骨も、肉も、記憶も、そして『神宮沙耶』という無価値な存在を形成していたすべての泥が、あの広大な水の中で希釈され、最後には透明な無へと還元されるのだ。
それこそが、私にとっての唯一の『浄化』であった。
自らの存在をこの世界から消去すること。
他者の悪意を浴び続ける標的としての役割を、自らの手で終わらせること。
私は、その究極の救済を目前にして、乾き切った唇の端をわずかに歪め、ひどく惨めな笑みを浮かべていた。
坂を下り切ると、アスファルトの道は途切れ、鬱蒼と茂る木々に囲まれた未舗装の獣道へと変わる。土と腐葉土の匂いが、鼻腔を重く満たす。
木々の隙間から、鉛色の空を反射して鈍く光る、巨大な湖の水面が見え隠れしていた。
風は全く吹いておらず、水面はいかなる波紋も起こさずに、ただ静かに、私の肉体を飲み込むための口を大きく開けて待っている。
私は、茂みを掻き分け、湖岸のぬかるんだ泥の上に立った。
ローファーの底が泥に沈み込み、冷たい水分が靴下を通して足の裏へと伝わってくる。
肩から提げていた学生鞄を無造作に地面へと落とした。制服のポケットから、何の意味も持たなくなった携帯電話を取り出し、それもまた泥の中へと投げ捨てる。
世界との接続を証明するすべての鎖を断ち切った。
あとは、この肉体を一歩前に進め、水底へと沈むだけだ。
私は、濁った湖水を見つめながら、最後の酸素を肺の奥深くまで吸い込んだ。その空気には、死の匂いと、永遠の静寂への約束が満ちていた。
しかし。
濁った湖水へ向かって自らの重心を傾け、この忌まわしい世界との接続を完全に切断しようとしたその刹那。
背後の空間から、腐葉土と泥にまみれたこの郊外の景色には存在するはずのない、冷たく透き通った声が、私の鼓膜を正確に貫いた。
「水に入れば、あなたの肉体よりも先に、その衣服が微生物と泥の粒子によって修復不可能になりますよ」
それは、入水を制止する人間の声ではなかった。
命の尊さを説く道徳的な響きも、見ず知らずの他者を案じる安価な同情の熱も、そこには一切含まれていない。ただ目の前で起きようとしている物理的な事象の結果を、客観的な事実として提示しただけの、無機質で氷のような音声。
しかし、そのいかなる摩擦も伴わない言葉の質量が鼓膜を震わせた瞬間、湖へと傾いていた身体の重心は、見えない強靭な糸で引き戻されるようにして停止した。
私は、酸素を失いかけていた肺でひどく不格好な呼吸を一つ挟み、泥に沈んだローファーの底を引き剥がしながら、ゆっくりと背後を振り返った。
鉛色の空から降り注ぐ鈍い光の下、生い茂る木々の緑がどす黒く沈殿する湖畔の空間に。
一人の、信じがたいほどに美しい存在が立っていた。
年齢は、当時の私より少し上に見えた。私服姿であったため、どこかの大学生だろうかという程度の推測しか機能しない。
腰のあたりまで真っ直ぐに伸びた艶やかな黒髪が、湿気に満ちた重苦しい空気を切り裂くように、一切の乱れなく背中を覆っている。色素の薄い、白磁のように滑らかな皮膚。真夏の暴力的な湿度と熱気の中にあって、彼女の肌には一滴の汗も浮かんでおらず、毛穴という生物的な器官すら存在しないかのように、神聖なまでの清潔感を保っていた。
黄金比で造形された顔立ちの中心にある、ぽってりとした血色の良い赤い唇。そして何よりも私を射すくめたのは、長く美しい睫毛に縁取られた、そのガラス玉のような瞳であった。
彼女のけだるげで重たい視線が、泥にまみれた私の姿を上から下まで、ただ純粋な『物体』として観察している。
その視線には、自殺を図ろうとしている少女に対する驚きも、憐憫の情も存在しない。
私は、自分がまるで、精密なガラス細工で構築された異次元の彫刻を前にしているかのような錯覚に陥った。彼女の周囲だけ、この泥臭い世界の重力や湿度が無効化されている。彼女の放つ冷気が、足元の腐葉土の腐敗すらも凍結させているように見えた。
「……誰、ですか」
ひび割れた唇から、砂を噛むような掠れた音声が漏れた。
彼女は、問いかけに答えることなく、優雅な足取りで私の方へと数歩近づいた。彼女の履いている黒い革靴の底が、ぬかるんだ泥を踏みしめているはずなのに、その純白の足元が汚れることは決してないような不変性を感じさせた。
「あなたこそ、こんな不潔な場所で、自らの細胞を不必要に停止させようとして、一体何をしているのですか」
彼女の問いかけは、静かで、冷徹だった。
通常の人間であれば、ここで『死んではいけない』と感情的に抱きしめてくるか、あるいは面倒に巻き込まれることを恐れて立ち去るかのどちらかだ。しかし、彼女はそのどちらでもなく、私の死という事象を『不必要で非効率な行為』としてのみ断定した。
その一切の感情を排した冷たさが、私の内側に固く閉ざされていた絶望の蓋を、いとも容易くこじ開けた。
誰にも理解されない。誰にも届かない。そう諦めきっていた内臓の底から、黒く濁った泥水のような感情が、言語の形をとって制御不能な勢いで溢れ出し始めたのだ。
「……もう、疲れたんです。学校に行っても、誰の目にも私は映らない。机には死ねって書かれて、靴には腐った水を入れられて……先生も、親も、誰も私を助けてくれない。息をしているだけで、みんなが私を不潔なゴミみたいに扱うんです……。私がここにいる意味なんて、どこにもない……生きていたって、泥水を飲まされるだけなんだから……っ」
私は、見ず知らずの美しい彼女に向かって、自らの惨めな排泄物をすべて吐き出していた。
涙腺が崩壊し、目から熱い液体がとめどなく溢れ、鼻水と混ざり合って顎を伝い落ちる。両腕を抱きしめ、肩を激しく震わせながら、呼吸困難に陥るほどの嗚咽を漏らした。
醜い。あまりにも醜悪な姿だ。完璧な美しさを持つ彼女の前に、このような不潔な感情の汚物を撒き散らす自分が、ひどく悍ましく感じられた。彼女はきっと、私の見苦しい狂乱を見て、顔をしかめて軽蔑し、そのまま踵を返して去っていくに違いない。
私は、自らの絶望の告白が、再び他者からの拒絶という形で終わることを覚悟し、きつく目を閉じた。
しかし。
予想に反して、彼女の口から紡がれたのは、軽蔑でも、安っぽい同情でもなかった。
「……なるほど。あなたは、初歩的な論理の誤謬に陥っているのですね」
薄いガラスの表面を滑るような、その静謐な声。
私は、息を呑んでゆっくりと目を開けた。
彼女は、顔を涙と鼻水でぐしゃぐしゃにした私の姿を、ただの一度もまばたきをすることなく、底なしの虚無を湛えた瞳で見つめ下ろしていた。
「あなたは、学校という限定的で閉鎖された空間のルールを、世界そのものだと錯覚している。そして、まだ脳の機能すら成熟していない、群れることでしか自己を保てない未熟な霊長類たちの『評価』に対して、自らの生命と等価の価値を付与してしまっている」
彼女の言葉は、私の悲しみに寄り添うものではない。
私が抱えていた『いじめによる苦痛』という複雑に絡み合った感情の塊を、物理法則に従って論理的に分解し、その構造の矛盾を容赦なく暴き出すための、精緻なメスの刃であった。
「彼らがあなたを排除するのは、あなたに非があるからではありません。彼ら自身の存在がひどく空虚であるため、集団の均衡を保つための『下等な標的』をシステムとして必要としているだけです。それは単なる動物的な生存本能の欠陥であり、あなたの存在価値とは何ら因果関係を持たない、低俗な化学反応に過ぎません」
彼女は、一歩、また一歩と私に近づき、その美しい顔を私の視線の高さへと合わせた。
彼女から、冷たく透き通った百合の香りが漂ってくる。泥と腐葉土の悪臭が、彼女の周囲だけ無効化されている。
「他者の悪意などという、実体のない不確かなエネルギーのために、あなたの心臓の機能を停止させ、この高度に複雑な肉体を水底のバクテリアに明け渡す。それは、あまりにも理にかなっていない、究極の非効率です。大人たちがあなたを救わないのも同じこと。彼らは自らの日常の平穏というシステムを維持するのに必死なだけであり、そこにあなたを救済するプログラムが初めから組み込まれていなかっただけです。システムに欠陥があるのなら、あなたがそのシステムの中で絶望する必要はどこにもありません」
彼女の言葉は、私の傷口を温かい手で包み込んでくれるようなものでは決してなかった。
むしろそれは、激しく出血し、化膿して熱を持っている私の軟らかい内臓に、『氷』を直接押し当てるような行為であった。
しかし、そのいかなる温度も持たない論理の冷たさが、私の精神に奇跡的な麻酔作用をもたらしたのである。
悲しみ、怒り、絶望、そして他者への執着。私を苦しめていたそのすべての熱が、彼女の言葉の刃に触れた瞬間、急速に冷却され、機能停止していくのを感じた。
「あなたは、泥水を飲まされているのではありません。泥水の中で必死に呼吸をしようとあがくから、苦しいのです」
彼女は、ついに私の目の前まで距離を詰め、その白磁のような美しい手をゆっくりと持ち上げた。
「彼らの評価など、無価値なノイズとしてすべて切り捨てなさい。自分の頭で考え、他者に理解を求めるという不毛な行為を放棄すれば、この世界は驚くほど単純で、清らかな場所になります」
彼女の冷たい指先が、涙と泥に汚れた私の頬に、そっと触れた。
その瞬間。
全身を支配していた重力が、消滅した。
他者の体温というものは、本来であれば生温かく、時に不快な湿気を伴うものだ。しかし、私の皮膚に触れた彼女の指先は、まるで氷の結晶のようにひどく冷たく、そして圧倒的な清潔感に満ちていた。
彼女の指が私の頬を撫でたその軌跡から、細胞にこびりついていたあらゆる不浄な泥が、瞬時に殺菌され、浄化されていくのが分かった。
「私が、あなたのその無価値な環境をすべて無効化し、あなたが生きているという事実だけを肯定してあげます」
肯定してあげる。
彼女のぽってりとした赤い唇から発せられたその宣告は、私の脳髄の最も深い部分にまで到達し、そこで永遠の楔となって打ち込まれた。
痛みが、消えた。
呼吸が、できる。
世界から、泥の臭いが完全に消え去り、ただ彼女の放つ冷たい百合の香りだけが肺を満たしていく。
私は、自分が救済されたのだと、狂おしいほどの歓喜とともに理解した。大人も、教師も、社会のシステムすらも与えてくれなかった安全圏を、この美しい神は、たった数行の論理と、一撫での氷のような指先だけで、構築して見せたのだ。
私は、自らの意思で生きるという苦痛に満ちた泥の道を歩くことを、この泥沼の岸辺で永遠に放棄した。
自らの脆弱な自我を解体し、彼女という虚無の海へとすべてを投げ出すこと。それこそが、私に与えられた唯一の、最高の救済なのだと深く錯覚したのである。
私は、頬に触れる彼女の冷たい手に自らの両手を重ね合わせ、その場に崩れ落ちるようにしてひざまずき、声を上げて泣いた。
それは、もはや絶望の嗚咽ではない。自らを縛り付けていたすべての鎖から解放され、支配者の足元で安らぎを手に入れた、狂信者の恍惚の涙であった。
泥沼の岸辺で、鴻巣美青という神から『救済』の宣告を受けたあの日。
私は、自らの命を絶つために赴いたはずの薄暗い湖畔から、別の生き物へと変態を遂げて帰還した。
彼女が去り際に残していった、名前と、現在所属している大学名。その無機質な文字列の響きだけが、脳髄の最も安全で強固な金庫の中に収められ、私を生かすための唯一の動力源となった。
翌日から、高校の教室における私の日常は、表面上は何一つ変化していないように見えた。
相変わらず机には油性インクによる汚劣な呪詛が書き殴られ、上履きは隠され、すれ違いざまの暴力や、耳を塞ぎたくなるような嘲笑の言葉が周囲を取り巻いていた。
しかし、私の内側にある世界認識のフィルターは、美青先輩のあの絶対零度の論理によって書き換えられていたのである。
彼らが私に向けて放つ悪意は、もはや皮膚を貫通して内臓を傷つける刃としては機能しなかった。彼らが顔を歪めて私を嘲笑う姿は、知能の低い未成熟な霊長類が、自らの群れの均衡を保つために本能で繰り返している、無意味で滑稽な『動物的反射』の羅列にしか見えなくなったのだ。
私は、インクの悪臭が漂う机の上に分厚い参考書を開き、周囲の喧騒を無価値な環境音として遮断した。彼らが私の椅子を蹴り上げようとも、頭上からゴミを降らせようとも、眼球はただ印刷された数式と英単語の羅列だけを正確に捉え続けていた。
彼らへの怒りも、悲しみも、一滴も湧き上がらない。彼らのような不潔な泥水に自らの感情の熱を消費すること自体が、美青先輩の説いた『究極の非効率』に他ならないからだ。
私が目指すべき場所は、美青先輩が呼吸をしている、あの大学のキャンパス以外に存在しなかった。
しかし、それは当時の惨めな学力からすれば、到底不可能な、物理法則を無視するような跳躍を要求される目標であった。
美青先輩が所属しているのは、全国でも屈指の偏差値を誇る名門大学である。地方の公立高校の底辺で泥に塗れていた私が、残り半年という限られた時間の中でその城壁を越えるためには、常軌を逸した代償を支払う必要があった。
私は、自らの肉体を、脳内に知識を詰め込むためのただの『使い捨ての容れ物』へと作り変える決断を下した。
それは、受験勉強などという生易しい言葉で表現できる行為ではなかった。
一つの目的のために肉体を極限まで痛めつける、狂気に満ちた宗教的な苦行、あるいは自己破壊を伴う儀式であった。
睡眠という生物としての基本的な欲求を削り取った。一日の睡眠時間を三時間に固定し、深夜の自室で、蛍光灯の青白い光の下、机に齧り付くようにして文字の海へと潜り続けた。
眠気が脳の機能を麻痺させようとすると、カフェインの錠剤を大量の冷水とともに胃の奥へと流し込んだ。化学物質が胃壁を荒らし、強烈な吐き気と胃酸の逆流を引き起こす。自室のゴミ箱に未消化の胃液を嘔吐しながら、口元を拭うこともせずにペンを握り直した。
硬質なペン先が紙の繊維を削り取る摩擦音だけが、深夜の静寂の中で延々と反復される。
右手の指には硬く醜いペン蛸が幾重にも形成され、皮膚が破れて微かな血が滲んでも、私はその痛みを脳内で無視した。背骨は不自然な姿勢で長時間固定されることにより悲鳴を上げ、眼球の毛細血管は限界まで拡張して、白目の部分は常に赤黒く充血していた。
肉体が崩壊していく音を聞きながら、私はひどく歪んだ悦びを感じていた。
髪は抜け落ち、肌は乾燥して粉を吹き、女性としての生理機能はとうの昔に停止した。栄養失調と極度の疲労によって、立ち上がるたびに強烈な眩暈が視界を明滅させる。
しかし、その肉体的な欠損と疲労のすべてが、私にとっては、内側にこびりついていた『泥』を削り落とし、美青先輩のような無機質で清らかな存在へと近づいていくための、神聖な浄化のプロセスであった。
肉体が限界を迎え、気を失いそうになるたびに、網膜の裏側には、あの湖畔で私を見下ろしていた美青先輩の美しさと、氷のような指先の感触が鮮明に蘇る。
彼女の冷たい空洞の一部になるためなら、この凡庸で不潔な肉体など、いくらでも擦り切れて構わなかった。自分の脳細胞の皺の一つ一つに、彼女のいる場所へ辿り着くための論理と知識を刻み込むこと。ただそれだけが、私の生命を維持する唯一の理由となっていた。
周囲の人間たちは、狂ったように参考書に向かい続ける姿を見て、最初は気味悪がり、やがて私の存在を視界から排除した。
両親すらも、深夜に奇声を上げながら自らの頬を殴りつけて眠気を飛ばし、吐瀉物の匂いを漂わせながら机に向かう私の異常性に恐怖を抱き、部屋に近づくことすら放棄した。
私は、世界から孤立した。
だが、その孤立は、かつての泥水の中での窒息とは全く異なるものであった。それは、美青先輩という神への純度を高めるための、隔離された『無菌状態』の完成であったのだ。
やがて季節は凍てつくような冬を越え、自らの肉体を薪として燃やし尽くした狂気の果てに、奇跡は論理的な結果として出力された。
私は、美青先輩と同じ大学の、合格通知を手にした。
その紙片を見た瞬間、私の中に湧き上がったのは、達成感や喜びといった人間らしい感情ではなかった。ただ、ようやく神の足元へひれ伏すための通行手形を手に入れたという、重苦しいまでの安堵、それだけであった。
四月。
私は、真新しいスーツに身を包み、広大な大学のキャンパスの土を踏みしめていた。
桜の花びらが風に舞い、新入生たちの希望に満ちた喧騒と、生温かい体温の匂いが空気を満たしている。私は、その春の陽気と他者の放つ泥臭い熱気を極限まで肺から締め出しながら、一直線に、キャンパスの北の果てに位置する、古びた旧西棟へと歩を進めた。
美青先輩がどこにいるのか、確証があったわけではない。
しかし、私の研ぎ澄まされた嗅覚が、この不潔な世界の中で唯一、濾過された冷たい空気の存在を正確に嗅ぎ取っていた。
人気のない旧校舎の階段を上り、三階の最も奥にあるゼミ室の前に立つ。
分厚い木扉の隙間から、冷たく、そして甘い百合の香りが漂ってくる。
私は、激しい心拍を強制的に静め、震える指先で真鍮の重いドアノブを回した。
木と金属の擦れ合う鈍い音とともに、扉が開かれる。
磨りガラス越しに差し込む午後の斜光の中。
黒い革張りのソファに深く腰を下ろした、あの存在がそこにいた。
腰のあたりまで伸びた艶やかな黒髪、白磁のように滑らかな皮膚、そして、いかなる感情も温度も持たない、色素の薄いガラス玉のような瞳。
湖畔で出会ったあの日から、何一つ変わらない、時間と物理法則を超越した完璧な美しさが、私の眼球を直接射抜いた。
美青先輩は、扉を開けて立ち尽くす私を見ても、少しの驚きも示さなかった。
ただ、その長く美しい睫毛をわずかに持ち上げ、けだるげな視線で私の輪郭を正確になぞる。
「……あの日の泥は、すべて落としてきたようですね」
薄いガラスの表面を滑るような、その無機質な声。
彼女は、私が誰であるかを記憶し、そして私が自らの肉体を破壊してまでこの場所に辿り着くことを、初めからすべて計算し尽くしていたかのような、支配者の顔をしていた。
その言葉を聞いた瞬間、全身の細胞から、残っていた人間としての最後の自我が気化して消え去った。
「はい。私は、あなたの言葉以外の一切を、自らの内側から排除いたしました」
鞄を床に落とし、彼女の座るソファの足元へと歩み寄った。そして、いかなる迷いもなく、冷たい床の上に両膝をつき、深く頭を垂れた。
「私を、この美しい空間の隅に置いてください。あなたに持ち込まれる外の世界の不純物を拭き取り、あなたの紡ぐ絶対的な真理を記録し続ける、ただの観測機器として、私をお使いください」
狂信と服従の誓い。
私が自ら、人間としての自由と尊厳を放棄し、彼女という冷たい空洞の一部になることを切望した瞬間であった。
美青先輩は、足元にひれ伏す私を見下ろし、いかなる熱も持たない静かな声で、ただ一言、私の新しい存在意義を定義した。
「……いいわ。あなたのその潔癖な狂気は、私の無菌室を維持するための優れた防壁となるでしょう。今日から、あなたは私の記録者であり、この部屋の番人です」
彼女の冷たい視線が、私の頭頂部を貫く。
その支配の感触に、私は激しい歓喜と陶酔の震えを止められなかった。
こうして、泥水の中で溺死するはずだった神宮沙耶という脆弱な生き物は完全に消滅し、鴻巣美青という神に仕え、この閉ざされた水槽の空気を永遠に清浄に保つための狂信的な歯車が誕生したのである。
私は、自分がこの息の詰まるような冷たいガラスの箱の中でしか生きられない、致命的な欠陥生物に成り果てたことを至上の幸福として抱きしめながら、部屋の隅に置かれたパイプ椅子へと、静かに歩みを進めた。




