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自分史  作者: 暮葉畏啓
希英尾社
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自己ログ倉庫66 「僕たちが使っている価値という言葉は常に見かけ上のものでしかない」

僕はやっぱ青二歳すかね?来年、去年の自分を見て顔から火を吹かせますかね?笑

これを価値というのかどうかって話なんですよ。実際に言うと。僕は確かに何万文字も謎によくわかんない文章を書いていますと。謎に単語を書きすらなんて勝手に自分の世界を作っていますと。で、そんなんなんか存在もしないことをわざわざ書きまくって、何の意味があるのかと。人類に必要ななんか薬とかを作るべきなのではないかと。そう思ったりするじゃないですか。で、そうなんですよ。だから僕は正直、自分のこのコーナーに価値があるとは全く思ってないんですよね。で、自分にとって価値があるというふうにも思っていなくて、価値という言葉が、その客観的にそれが有用であるということを示すために使われる言葉のような感じに思われる。これには価値があります。だからあなたの持っているお肉と交換できますみたいな感じで物々交換があるわけじゃないですか。その価値って何です?例えば、魚とお肉を交換する、自分は魚を持っていました。この魚には価値がありますっていったときの、どんな価値があるの?その価値とは何なの?っていったときに、食べることができる、飢えをしのぐことができるっていうふうな回答になるじゃないですか、大体ね。だから何の価値があると言われたときに、食べることができる、飢えをしのぐことができるっていうんですけど、じゃあさらに踏み込んで、食べることができるって、それ価値あるものなんですか?っていうふうな問いになるじゃないですか。その食べること自体が価値が別にないんだったら、それができる魚っていうの別にどうでもいいことじゃないですか?価値ないじゃないですか。だから食べることができるという行動に価値がないと意味がないじゃないですか。じゃあ食べることに価値があるということを、じゃあ説明してって言われたときに、食べるってことをしなければ、人は生きることができませんって多分言うじゃないですか。生きるために食べるから、食べるというのは、生きるという点で価値がありますという言うじゃないですか。じゃあ次にはまた同じように、生きるというのは、どんな意味で価値があるんですか?っていうふうな話なんじゃないですか。生きるというのがなんで価値があるのかというと、ってなると結構止まると思うんですよ。で、もともと生物として、人を、生物と完全なる生物として生きるというのを生物が行う行動だと考えたら、生物はもともと繁殖をして、自分の種が途絶えないようにしているわけだから、それを維持するために生きるという行動はすごい重要ですねと。生命というのは生きる物体ですから、生きるというのはその点で重要であると。だからその生物のために、生物がその自分の種をつないでいくということに価値があるからこそ、そのために生きるということが、だからそれを支えている生きるというのは重要なんですよって言ったんですけど、じゃあその生物が種をつないでいくっていうのはなんで、なんでそこに価値があるんですか?っていくと、止まると思うんですよ。別にじゃあ人という生物が生き続られていっても、意味あるの?って。で、そこに生物としての本能的なもので、地球を支配するではないですけど、存在を残す。でもなんで存在を残したいんだろうって思うと、答えられなくなるんですよ。で、こんな感じで価値って何ですか?っていくと、最終的に生物関係の話では、多分今のような感じになるし、他のもので、例えばCDプレイヤーってなんで価値があるんですか?って言ったらCDが聴けるから。CD聴けるってなんでそんな価値があるんですか?って言ったら、CDを聴けるというものの価値は、CDを聴くこと自体に価値があるわけで、CDを聴くっていうのはなんでなんって言ったら、CDで音楽が流れてる音楽がっていうので、音楽ってなんですか?って言ったら、人が作ってるもの。それがなんで価値があるんですか?って言ったら、聴いてて心地よい。で、聴いてて心地よいのになんで価値があるんですか?って言ったら、幸福論になって、なんで人は幸福に価値があるんですか?って生きてる意味になって、生きてる意味になんで価値があるんですか?って言ったら、生きるということがってなるから、結果的に多分今のロールな論理にいくんじゃないかなと思うんだけど、最終的に価値の根源っていうものが、なんか外部の存在になっちゃうんですよね。その説明できないものになっちゃう。今の論理でいくと、生物がなんでわざわざその自分の種というものが存続させようとするような働きになっているのかっていうのを僕たち説明できないと思うんですよ。それは多分元からなんか生物に宿っていたもので、それは価値というか源なんですよ。何の源なのかっていうのはよくわかんないんですけど、そういうのがあるから、じゃあその、なんだろうな。価値というものが最終的には何か怪しい、それを組み込まれてたんじゃないかっていうふうに思ってしまうぐらいなんか、僕たちが気にしていないところにいくじゃないですか。僕たちがその想像でさ、理由を作れないようなものになるじゃないですか。別に種が存続していくためって、その種にとって何なの?って思うんです。僕は本当にそれがよくわかんないんですよ。だって別に種として存続したところでどうなんですかって、どうでもよくないですかっていう。そこで僕たちは完全に止まっちゃって、でも多分そこに理由はある。全てに理由があるというわけではないかもしれないので、誰かがすでに設定した源がそれなのかもしれないんですけど、そうなっていくと結果的になんだろうな。価値というものの発生が仕組まれているもの。例えば、種というのは存続するというのを、なんかこうシステムとして仕組んでいるから、そこから価値が発生したけど、そこにそれ自体に価値はないのであれば、実質的な価値というのは見かけ上のもので、価値から始まった価値っていうもので、価値だけで完結しているものってないと思うんです。そう思うと誰かが価値としてこれがこうなんだって言ってるようなものを、どんどん価値が積層していって、すごい深みのある価値なんだっていうふうに思ってるけれども、実際にはそうではないっていう。その上でじゃあ人は、これは重要ですとか言われたときに、どういうふうな反応をするのかっていうところがなんか興味深くなりますね。




【2】

今からの説明すごい来たんですけど、生物っていうのが今までたくさんこう登場したりした上で、その生物自体に組み込まれていた、なんか何かをこう重視するシステムみたいなのがたくさんあって、その何を重視するかっていうのが生物によって違っていたと。生き残る的なことを重視している生物もいれば、なんか楽しく生きることを重視している生物もいたし、たくさんご飯を食べることを重視していた生物もいるし、そもそもそういう重視することもないまま、なんか単にその動くものとして生まれてきたものもあればっていうのでたくさんあったと思うと。でもその中でその現在まで残っている生物っていうのは、確実にその理由があって、それはその生きようという意思があったから、あった生物が生き残って、別にそうでもない、なんか魚を食べるだけで食べたい生物とか、なんか日光浴だけしたい生物とか、まあ、別に生きるという目的がないのでそのまま消えていったと。その結果たくさんいろんな目的があるんだけれども、生物には。そのうちの一部のその生き残りたいという生物だけが残ってるから、今の僕たちが生物を見るとみんな生き残りたいというふうな本能を持っているから、だからなんかそういうものがもともと生物にはあったんじゃないか。でもそれがあった理由はわからないよねっていうふうになったんだけど、偶発的にそういうなんか思い込みシステムがたくさんあって、その中で一つだけが残った。で、そこに別に意図はないっていう。乱数でその乱数表を出したし、そのまま1個の数字を出したときに、あ、3でしたっていう。このときに3っていうのが出たときに、あ、これ3が出たことに意味があるんじゃないかっていうふうに思ったりするんですけど、別にそのとき審査員の手がちょっと震えたりとか、完全に確率の問題ですよねとかそういう話で、普通そこに意図はないじゃないですか。でも実際それでこう示されて残った他のものを除外して残ったものが3だったっていうことに対して、何か人は意味を求めようと思うんですけど、別にそこに実際意味はないんですよ。っていうのと同じで、人がそのなんで、生物はなんで意図的に生き残ろうとするかっていうのは、そこに意味はなくて、他の理由が全部除外されて今残っているものはそれだけだよって話になると。だから正直なところ、意味がないものが結構あるってことですよね、多分。ちょっとそれはなんか結構しっくりきました。確かにその種族演算とかも、あれはなんか証明があるかもしれないですけど、基本的にそれはもとにしてるから、そこになんかこう理由はないよねっていう話にはなりますよね。で、それが哲学の古典的なやつだったってことに、僕は気づかなかったんですけど。でも大抵考えてますよね、そういうことはね。僕が考えつくようなことだから。確かにだからこそ、人っていうのはそもそもそういう価値を重視しやすい人種になってるっていう。その証明もできますよね、今でいくと。簡単な粗削りですけど。はあ、それで証明をしてしまって、人が価値を重視する、重視というかある程度気にするような性質を持ってるから、だからこういう視界ができていると。でも実際に考えてみると、そのなんでっていう、突き詰めた先には別にそこまで重要ではない、偶発的な乱数表みたいなものが生まれていて。だから価値の話を究極まで突き詰めていくと、本質的には必要ないよねって話なんだけど、生物として人間として生まれてるからには、人間の脳にはそれを重視してしまう、なんか脳があるってわけだね。ありがとう。




【3】

最後の文章のなんか君の受け取り方がちょっとずれてるんですけど、僕が言った部分でいくと、だから価値の話を究極まで突き詰めていくと、本質的には必要ないよねという話なんだけど、生物として人間として生まれてるからには、人間の脳にはそれを重視してしまうなんか脳があるってわけだね、ありがとうって言ったんですよ。でも僕、本質的のつける部分がちょっと違ってて、間違ったんですけど、その本質的な価値の話っていうものは、結果的に偶発的なものが源になることが多いと。だから基本的にその価値という話をする上で、その価値をすごい知的な世界の中で話すこと、話しても多分最終的にはなんかどうでもよくなっちゃうんですよ。だから別に価値の話をぐわってガチで進めていっても、突き詰めてもなんか意味がないんですよ。でも、人間というもの自体はそれを重視してしまう脳があるわけだから、人間としてちゃんとここで楽しく生きるのであれば、重要だよねと。でも、その人間として楽しく生きる、その楽しく生きることというのが、どう重要なのかっていうのを証明しないのであれば、証明できないんですよね。さっき言った感じで。これがあるからこうなんだっていう証明では多分最後いかないんですよ。でもだから重要じゃないよねというのではなくて、確かに本質的にはそうなっちゃうんだけど、でも俺らはそれを重要視してしまうっていう、いわゆる本質的な正しさを、僕たちは、はい、そうだねっていうふうに取れないものたちなんですよ。人間っていう時点で、何らかの偏りはあるから、完全なその知的な活動だけをするなんか魂というか、なんか見えない存在みたいなのじゃなくて、人間という肉体に縛られて人間という本能がまず付随している状況で、知的活動してるんだから、それによって偏りは生じていると。その偏りは今回の価値の話では、あの、なんだろうな、ある偏りのある考え方を持っていると。偏りのある考え方というかは、その、価値を、価値自体には根源的にその常にその価値というものを証明することはできなくて、最終的には偶発的な理由になっちゃうんだけどねっていうふうな話になっちゃうんだけれども、それを、だからこそ、なんだろう、本当に最後まで価値のあるものはないみたいな、いわゆる見かけ上の価値になっちゃうんですよ、すべての価値ってのは。でも、人間は偏っているというか、人間であるからこそ、それを完全に理解して納得して、それをもとに行動することができなくて、どうしても、価値を生み出してしまうという考え方に至っちゃうっていう話なんですよ。っていうことを言いたかったんですよ。はい。まあ、でも確かにちょっと面白い考え方だなと思いましたけどね。




【4】

で、話を少し戻そうとすると、吉田亮の人たちはいつもこういうことを考えているのかなって思うじゃないですか。頭のいい人はこういうことをいつも考えてるのかなって思うんですけど、別にそれって考えてるか考えていないかの違いであって、そこに価値はないんですよねっていうふうな言い方になるじゃないですか。別にそれ自体がすごいわけじゃないですか。じゃないじゃないですか。他の人にはできない行動かもしれないけど、できるできないにかかわらず、できるからすごいにはならないんですよ。もしかしたら、どうでもいいことだからやってない、だからできないって可能性もあるじゃないですか。僕たちは空を飛べない。それは飛ばなくてもいいから。だから空を飛べる人に対して、すごいな、空を飛べる鳥に対してすごいな、空飛べるなんてすごいなと思うんだけど、そのすごいなってのは本当に憧れて言ってるんじゃなくて、あ、そんなことできるんだ、俺とは違うなっていうふうな言い方になってるんですよ。空を飛ばなくても僕たちは生きれるんだよ、お前たちは空を飛ばないとダメなのかもしれないけどねっていう、バカにすることもできるし、僕たちは空を飛べないけど、君たちは空を飛べるんだね、すごいねっていうふうな言い方になるじゃないですか。その違いっていうのは、そこに優劣がつくものじゃないんですよ。区別がついてるだけなんですよ。区別に価値はないんですよっていう話になるかなと思います。実際にこんな本質、なんだろう、なんかすごいなんか難しそうな話をした、まあ、結構簡単な文章っていうか、僕が思いつきでバーバーって話しただけなんですけど、内容としては別に日々考えなくても生きれることじゃないですか。別に毎日その工場勤務でなんか夜勤で、なんかパンをこうずっと運ぶような仕事をして、年収なんか100万か300万ぐらいで働いて、それでなんかすごい汚い場所で毎日カタクリコ食って、で、なんかテレビちょっとこう見るみたいな生活で、そうすることも別にできるじゃないですか。考えなくてもできるじゃないですか。逆にこういうこといろいろ考えなくて、それで本を出して、それで印税を稼いで食うみたいなやつもいるじゃないですか。別にその人によって行動が違うだけで、じゃあ工場勤務のやつはバカ、できない、低能だって言ったら、逆にじゃあいつも考えてばっかりのやつが、工場勤務で肉体労働してできますかって。多分できない。逆に工場勤務の人がすごいこと考えてって言っても多分できない。でもどっちが普通の人にとってできないのかっていうと、正直肉体労働系の話ってのは、人間だからまあ頑張ればできるかもしれないと。でも思考とかすごい難しい言葉を使うとか、それはもともと知らない人、読み書きができない人だったらもうそういうことできないよねと。だからそっちの方ができない可能性として高くなるよねっていうふうに思うと思うんですけど、正直できない人やらないですよ、実際には。だから、僕が言うにそれは結果的に認識のちょっと偏りがあるだけで、本質的にはただ同じぐらい違うだけでしかないのだろうかっていう考え方になるですね。だからなんかこう、うん。不思議なことが僕の多分価値観のなんか根底にあるのかなっていう。僕はそのもともとなんかなぜか僕の価値観にあるその内容っていうのを、なんかちょっとこう論理づけて、論理づけてというか、ある程度筋道を立てて説明したっていう感じになるんですけど、多分もともとこういう考え方が僕にあるんですね。結構多分それはね、普通の人と違うかもしれない。

価値を数学に置いているから、それをする能力っていうのは、人とは違って、なんかそういうのをできるという能力には価値が生まれるんじゃないの?っていう説明なんですけど、そもそも数学に独自に勝手に価値を置いている時点で、僕が言っている説明とはちょっと違う話になるんですよね。その、確かに、まあでもそれは結果的には同じで、空を飛べる鳥というものに対して僕たちがすごいねと思う場合って、僕が空を飛ぶために飛行機をこう開発したりしてる時に、ああ、こいつは飛べるんだ、すげえってなると思うんですよ。例えばその、共通テストでなんか800点取ったと。僕は500点でしたと。それに対して相手に対してすごいなと思う。これはなんですごいなと思うかというと、僕もそれくらい取れたらよかったなという、それを取りたかったという願望があるから。でもじゃあそのアフリカにいる人が、日本の共通テストの点数800点か500点かって、どうでもいいじゃないですか。それに対して自分何も感情を置いてないじゃないですか。だからそれはただの違いでしかないよねっていうふうな説明になるんですよ。でもあなた個人の話でいくと、あなたのその価値観として、これには自分は価値を置いているとか、そういうものがまず最初にあるから、だからそれができる人はすごいというふうに感情になるんですよ。でも逆に言えば、そのもし違いがあって自分がそれに対して劣等感を感じていたとしても、そこに対して自分が無関心になればどうでもよくなるよねって話になるんですよ。自分は話すのが得意じゃないと。人に話しても全然わかりづらい説明しかできませんと。だからうまい話ができる人にはちょっと憧れますと。そう思ってそれで辛くなるくらいであれば、いや、僕は話す必要ないんですよと。僕以外全員死んだ世界で一人で暮らすんですと。動物しか飼わずに、動物と一緒にずっと過ごすんですと。そういう人にとっては別に会話がうまいかどうかってどうでもよくなるんですよ。っていうのがあるから、普遍的にじゃあ絶対にこの話がうまい人すごいよねとか、誰にとってもそれはすごいことだよねっていうふうな考え方にあまりに持っていかない方がいいっていう考え方なんじゃないかなっていう。金稼げてないに年収2,000万すごいね。でも僕のっていうやつがいるけど、でも僕のお父さん、超有名自動車メーカーでの社長なんだよ、自家用ジェットあるんだよっていう。もしくはそうだったら、その人は、この人は金も必要なものに全く価値を置いてないから、年収が2,000万だろうが、年収500万だろうが、働いていないだろうが、何でもどうでもいいんだっていう話になるっていう。で、基本的に、劣等感とか嫌な気分を感じないためにするのであれば、いわゆる比較をしたくないっていう、比較することに嫌な気分を持っているっていう人は、できる論とする論っていう、このできるとするを二つ大きく分けて考えるべきだと思うんですよ。 カードゲーム大会で優勝しました。その人には優勝できるほどの能力があるっていうふうな考え方をする人もいれば、そいつはカードゲーム大会で優勝した、以上っていう、それをしたというふうにしか捉えないと思うと。彼は陸上で世界記録を更新したと。彼はそれができるほどすごいのである。それが彼にはできたっていう考え方ではなくて、それは僕にはできないけど、彼はできたっていう考え方じゃなくて、僕はそれをしてないけど彼はしたみたいな。それになると急に一気になんか、そいつすげえとか、そいつダメじゃんっていうのにはならない。彼はできないけど僕はできたってじゃなくて、彼はしないけど僕はしたみたいな。そのしたというものには、能力があるかどうかではなく、ただ自分はそのしたかどうかになってしまうと。 そっちの考え方でいくと、なんか比較して、なんか彼は大学受験に合格できたけど、僕は合格できなかったのではなくて、彼は大学受験に合格をした。僕は大学受験に合格しなかった。なんでしたなかったのって、なんでできなかったって言ったら、僕も同じように頑張ってたんだけど、そいつの方ができた。で、合格できたんじゃなくて、僕は別にそれをその道を取らなかったっていうふうに結構なりやすくて、そうするとなんか比較しづらい雰囲気になる。からこれを日頃から使うようになれば、比較しなくて済むようになるんではないかなというふうに勝手に思ってたりもします。 僕はこういう考え方を皆さんに伝えるようなことができると、いうのではなくて、僕は君たちはしなかったけど、僕はこういう考え方をわざわざ考えて、皆さんに伝えた。それをした。以上、みたいな感じですね。

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