自己ログ倉庫49 「第二の棲家 静かな気持ち」
いや、セカンドライフしたいなと思ったんですよ。そのね、あの、僕が見たのはどこだったか覚えてないんですけど、あの、限界集落って言葉があるじゃないですか。その限界集落をインタビューした動画があって、情報番組で、それ、特集を見たんですけど、割となんか結構否定的に書かれていたりやする、問題として扱ってくるみたいな感じ、扱われてたんですけど、僕はそれになんかね、純粋にいいなと思っちゃったんですよね。なんかその村に一人しか住んでいませんっていう状態を、いわゆる特例みたいなものを取材してたんだけど、そこへ出てくる家と橋とね、その家の前にコンクリートのアスファルトの道路があって、それをこうカーブ状に曲がってるんですよ。で、ガードレールがあるんですけど、反対側がそのカーブ状のその内側の方に、円形の水、川みたいな、いわゆるそのカーブの内側にまた川が沿って流れてるんですけど、そのね、川のね、流れの音がね、良くてね、風情あるなと思ってね。なかなかいいなと思ったんですよね。そこは雪が降るので、僕は雪降ってほしくないので、岐阜県ぐらいがいいなと思ってるんですけど、割とありだなと思って。まあ、正直なんか、僕はその前からその将来ほぼ必ず引っ越生活して岐阜県のそういう集落に行くんだ、まあ限界集落はあれですけど、ある程度のそういうゆっくりできそうな場所に行きたいみたいなことを思ってたんですけど、あのね、現役は厳しいなと思ってたんですよ。だから40代とかでですけど。調べていく中で、だいぶお安くいけるのではないかというふうになりだして、正直僕はね、リフォームとかしなくていい立てなんですよ。
その限界集落に住んでるその一人の男性の家を見たんですけど、なんでしょうね、あの和室みたいなんですけど、空間を区切ってるのがそのなんかステンドガラスっていうんですか、あの筋が入ってるというか、そういうガラスで、それのガラスのなんか扉、引き戸で、それで空間閉じきってて、その台所の方がなんかいわゆるだいぶ古めの、なんていうかな、大きな台所でなんかでっかいなんか食洗機があるみたいな。
で、その台所の前になんか大きな机と椅子があってみたいな。で、その台所の空間の1個前はなんかリビング、まあ畳があって、でなんかちゃぶ台みたいなのがあって、でなんかその引き戸とかの、いわゆる100%壁じゃない通路になり得るような壁側の方に、壁側の端っこに炭に、なんか棚とか、なんか衣装ダンスとかをこう置いていて、っていう雑な感じ。それこそ本当にのんのんびよりのあの、のんのんびよりがそういうのを模してるというか。なので、なかなかすごいなって思って、そののんのんびよりを模してるのに、そののんのんびよりのあの家に惹かれる俺は多分、実際その実写の絵、その実写の姿を見ても僕は結構いいなと思ったタイプなんですよ。
うん。
正直そういうのでいいなって、多分買い付けとかもあんまりしなくていいと思うから、割といいな、行けそうだなと思って。僕が今考えてるのはセカンドライフっていうので、えっとね、あの第二の家ですね。毎週土日になんかそっちに行って、まあちょっとその都市の方からご飯とかも一緒に持ってって、そこで食って、で、俺僕車大学1年生なので、長野県で貸して、免許取るんで、それであの車で行き来してっていう。まあその結婚相手と一緒に行くみたいな感じが最高なのかなっていう。
僕が多分サイバーセキュリティ系にこのままだと行くと思うんですよ。で多分その系でやるんで、最悪リモートでもなんとかなるのかなと思ったりするんですけど、僕は都会の方へ住むとなると、まあ準都会だろうなと思うので、はい、関西の自宅地なのかな。まあそこら辺に住むとして、ですかね、みたいなのをこう、高校3年生のなんか受験生の頃に考えて、なんか思ってるっていう状況ではありますけど、はい。
僕ね、すごいさ、理系でさ、サイバーセキュリティ系のさ、すごい情報をさ、大量に扱う感じのさ、未来に尽きそうな人間なのにさ、思われるかもしれないけどさ、正直さ、最近はね、供給過多なんですよね。供給過多すぎて、みんなはその昔に比べて情報がたくさんあると思いがちなんですけど、情報の本質は全く変わってないし、逆に減少してるような気も思うんですよね。そうね。
なんだろうな。かなり犠牲的な動物になりかけているのではないかっていうふうに僕は思ってるわけですよ。人って動物なわけで、僕はそのグレートジャーニー、関野吉晴っていう人のYouTubeチャンネルで、彼がグレートジャーニーとしてNHKで放送していたやつを、再放送的な感じで本人が出してるんですよね、解説付きで。
それで僕はなんかそれを見て、アンデス山脈のなんか暮らしとか、ギアナ高地の動画とか、資料動画とか、あと古代インカのお祭り、投石戦争とか、石を投げる戦争っていうの、投石戦争、命懸けの戦争、命懸けの祭りなんですけど、そういうのを見ていく中で、今までというよりかは、最近流行っているコンテンツとは趣旨がだいぶ違うんですよね、そういったものっていうのは。知的好奇心をかき立てるというのもありますけれども、どちらかというと、遠いところを知るっていうものなんですよね。
遠いところというのが、僕の中では幻想世界というものに行き着くんですけど、アニメとかに比べて、インカ帝国の日常の風景とか、そういったものはリアリティがあるんですよね。当たり前ですけど、現実に存在してるわけですから。リアルなんですよ。でも僕たちにとっては現実味がないんです。先ほどリアリティがあると言ったんですけど、どちらかというとリアルがあって、逆にリアリティがないんですよ。
リアルではあるんだけども、僕たちにとってはリアリティがないっていう。逆にアニメとかはリアルではないんだけど、リアリティがあるっていうものなんですよ。僕は、最近のコンテンツで言うと、本当に中身のないものもありますけど、中身があるものでも、リアルが存在するものってあんまりないんですよね。リアルが存在しているというのを主要な要素とはせずに、恐怖心をかき立てたり、いわゆる心のずれみたいなのものを誘発させて、消費させるようなものが多くて、その我々の感情を揺さぶらない程度の中身で、リアルであってリアリティがないっていうものは、そこまでないんですよね。
で、そのグレートジャーニーの関野吉晴の旅動画は、まあ稀なのかな、珍しいのかな、貴重なのかなと思うわけです。これが先ほどの話とどういうふうにつながるのかっていうことに対して、皆さん疑問に感じてると思うんですけれども、リアルがあってリアリティがないっていうものが、本来の理性がそこまでなかった時代の動物の割合が高かった人間における重要な要素だと思うんです。
それもちろん伝承とかは昔からありましたし、あれはリアルもリアリティもないんですよ。でもありそうで面白いし、現実の自分の町の近く、村の近くの林とか山とかに対して、物語性を帯びさせて、そこにエフとかまた他の感情を持たせるという意図があって、そういうのが伝承ではありますけれども、インカ帝国の動画を見て、僕はそういう伝承とかそういったものを感じているのではなくて、単純に知的好奇心が満足する、満たされるような快感もあるんですけども、極めて限定的に単刀直入に言うのであれば、僕はその旅動画を見ることによって、静かな気持ちになるんですよ。
その静かな気持ちというのは、幻想世界を見たときと同じような感じで、その世界に入り込むことができるんですね。それはリアルだから。というのも、それがリアルであるということは、知識としては知ってるんですが、僕はそれを直接見たことがないから、どうしてもリアルでないように思えてしまう。でも実際にリアルとして存在するからこそ、リアリティはあるんですよ、その世界の中では。僕にとってのリアリティではないんですけども、その世界の中では正しくつながっていて、長時間見ているとそれに気づくんですよね。それと自分の中でのリアリティというものの範囲が広くなるんですよ。それが楽しいんですよね。
幻想世界、アニメを見るときも同じで、最初はなんなんだこの世界観って思うんですけど、長時間見ているうちに、あ、こういう世界もあるんだな、リアリティとして存在するんだなっていうので、僕のリアリティにおける範囲が広がるんですよ。範囲が広がることに対して喜ぶことはないんですけども、リアリティが広がって、さまざまな世界の価値観や雰囲気、または人生観などに触れて、吸収ではないですが、適応することによって、この静かな気持ちというものを何度も体験することができるわけですよ。この静かな気持ちというのは、僕はかなり好きなものであって、思いを馳せる、それは恐怖心をかき立てるような動画や、リアリティでしかない作品では感じられないものなんですよ。
作品側が僕らに意図的な感情変化を流させようという最初から意図があって行っているという背景がなく、僕らがその世界に能動的に入り込んで、思考して、感じて、適応する、人をする、そして静かになっていくっていうのは、最近のものではあまり感じられない表現だし、感情だし、それが僕にとってはかなり大事な気持ちなんですよね。で、この静かな世界という、静かな気持ちというものは、僕がさっき言った第二のふるさとで、より長時間余裕に浸れるものになりやすいと思うんですよね。消費速度が速い社会が今の現在ですが、僕は正直消費速度が速いことに何の意味も感じてないですよね。
それは、その消費速度が速いというのは、その消費物の中身よりかは、その特性だけを見て、その特性を消費してるんですよね。その消費物が何をもとに描かれているのかを自分で探して、その消費物の背景にある大きく広がっている世界というものを知って、入り込んで、感じて、適応するというのを、そのステップはできないんですよね。そうなると、僕が言っていた静かな気持ちというものは生まれなくなるんですよね。正直それは嫌なんですよね。
であるならば、消費の速い社会というものを、僕が味わわなければいいという結論に至るわけですよ。そうなったときに、都市部の喧騒から離れた穏やかな時間が流れる、純、純というよりかは田舎ですが、岐阜県あたりの雪があまり降らない田舎でもいいですが、そういった場所に、正直別荘という形でセカンドハウスを設けられたらいいのかなと、そう思う次第であります。
いくつかというか、その結論以外の仮定の部分、君がまとめた仮定の部分が、ほぼすべて若干ずれがあるので、少し正したいと思うんですよね。まず大前提として言うんですけど、僕が作品を見るとき、いわゆる幻想世界を知るときに、楽しみであるものは、そのアニメの世界、いわゆる幻想世界がこういうふうに存在するんだというものを知る快感っていうふうに君はまとめてたんだけど、そうじゃないんだよね。えっとね、僕が楽しんでるのは、その自分のリアリティの地図が広がる瞬間ではないんです。
これ多分僕、さっきもちゃんと否定してたんですよね。これはその結果というか、並行して勝手に動いている、いわゆるある種の回路であって、僕が楽しいと思うのは、この後なんですよ。静かな気持ちという感情を感じるからなんですよね。で、君がその後に、普通未知の世界を知る快感をワクワクする、興奮する、刺激的と表現されることが多い。でも君は逆に静かになると言っているって言ってるんだけど、僕が静かになるという気持ちを感じるのは、未知の世界を知るときじゃないんですよ。未知の世界を知るぞっていうときは、確かにワクワクするし、興奮するよ。刺激的だよ。
それだって自分の知らない、自分のリアリティの範囲にはないものが、そこには存在していて、最初はそこにリアルもリアリティも感じてないんだけど、長時間いることによって、リアリティを感じるようになる、その世界に適応することができる。それはいいことなんだけれども、その後に静かな気持ちはあるんだよ。そこでその世界に順応した結果、自分がその能動的にその世界に入り込んで、感じて、動いて、目利きして、それで静かな気持ちを得るんですよ。その後に。その静かな気持ちというのは、その世界に思いを馳せた後に、いろいろ体験をして、いろんなアクションを行うんですけど、最終的には一段落して、小休止が行われるんです。そのときに静かな気持ちを感じるんですよ。
で、この静かな気持ちを感じたときに、ようやく、自分はこの世界に慣れたんだなっていうふうに思うんですよ。わかるかな?そのあまり表に出ない人が、壇上に登ったりしたときに、結構ね、声を張り上げるんですよね。で、そのときは慣れてないんですよね。慣れていないから自分を大きく見せようとしてるんですよね。激しく動いて、気持ちをかき消そうとしてるんですよね。
でもその後に劇が終わって、幕が下りたと、少し安心するじゃないですか。でもそのときも胸の高鳴りは続いていて、完全な静かな気持ちにはならないですね。翌日、撤収のために、誰もいない壇上に登ったときに、多分感じるんですよね。慣れたっていう思いを。それが多分静かな気持ちっていうのと、僕の思っているその気持ちとだいぶ似てるのかなと、いい候補なのかなと思うんですけど。
なので、未知の世界を知る快感というのは、確かに僕は持ってます。ワクワクするし、刺激的だなと思います。でも僕が静かな気持ちというものを一番に挙げているのは、僕が一番静かな気持ちを感じるときが好きだから。で、かつ、静かな気持ちを感じるときというのは、知る快感の後なんですよね。
っていうのがまず一つ目の訂正。もう1個なんですけど、君がなんか、僕がしているその行動、日間していることとして、すべて一つの世界に長時間滞在してその内部の論理を理解するっていうのがあるんですけど、論理じゃないんですよね。雰囲気であったり、流れであったり、言葉であったり、見え方であったり、音とか、それだと思うなんですよね。論理を理解するっていうのは、おこがましいんですよね。
論理っていうのは、一種、知性を持った人間が扱える要素なんですよ。でも動物にはそれが扱えませんと。そのときに、じゃあ世界を理解するためには論理しかないのかっていう問いになるんですが、動物は別に論理がなくても理解してるんですよ。ということは論理だけで、論理を使わずとも世界を理解できる。でも論理を使っても世界を理解できる。ってなると、やっぱりどこかに相互が生まれるんですよね。論理を使っても理解できるし、論理を使わなくても理解できるという部分は、もちろんあると思いますが、逆に言うと論理を使わなければ理解できない世界もあります。
でも、論理を使わずに動物として見ることでしか理解できない部分もあるんですよ。で、僕はどちらかというと、一つの世界に長時間滞在することっていうのは、その内部の論理を理解することではないんですよ。僕は割と、よくMPノートであったり、感想とか考察を書いているので、1話を1回見るだけで、だいたいその中でのテーマ性とか、演出の理由とか、展開の作り方とか、狙いとか工夫とかは、だいたいわかるんですよ。で、このわかるという、このわかった内容というのは、内部の論理なんですよ。
こういうふうにしたかったから、こうしてるんだろうなっていう。でも、それは一つの世界に長時間滞在することで得られているものではないんですよ。短時間で得られるんですよ。僕が言って長時間滞在することによって言ってるものは、論理では見ることのできない世界の要素なんですよ。そこまでわかってくれたら、多分僕の言ってることがわかったんじゃないかなと思いますね。
【3】
そう考えた時に、僕がある単一のものにはまりやすいというのが、結構証明できるんですよね。僕のこの考え方が正しいのかわかんないんですけど、正しさはないので、あれなんですけど、最近の風潮とはちょっとずれてるんですよね。でも僕は結構ね、僕自身の自己分析をずっと続けていく中で、見つかった僕の特性なのかなというふうに思ってるんですよね。はい。もう決めつけることはやめようとかさ、なんかそういうなんか一般論的なものを何にでも使えるような言葉はあるんですけど、うん。
決めないと動けないものもありますし、その場合によるんですよね、本当に。今回のこれに関して言うと、そう思い込むことによって、次なる一歩が踏み出しやすいのであれば、まあ割といいんじゃないかなというふうに思うんですよ。で、そのなんか可能性の世界が広がっちゃう、狭まっちゃうよねっていうなんか反論もあるんですよね、一応。その僕はこうなんだと思い続けることになって、そうでない自分を思い描くことができなくなるっていう。
で、これをよく人は良くないことだと思うんですけど、僕逆だと思うんですよね。これ多分創作やってる人からしたら、すごいわかると思うんですけど、創作って何が難しいかって言ったら、たくさん書くことよりも、遂行する方が難しいんですよ。そのね、逆の人もいるかもしれないんですけど、書きたい要素をたくさん繋げまくった脚本と、そこから本当に大事な部分を抽出して、他は省略するという脚本の過程においての大変さとかは、まるっきり後者の方がね、激しく大変なんですよ。
で、なんで大変なのって言ったら、省略する上で、あ、だからね、あれなんですよね、省略するときに、本当にそれが必要なのか、必要でないのかというものを自分で確認して、周りとの、全体との整合性を考えながら、自分が伝えたいもの、要素に対して優先順位がこれは低いんだというのを認識して削るわけで、でも増やすときって、自分がこう想像しているその世界の、なんかこういうのあったらいいなっていうのをつけるだけなので、伸ばしまくれるんです。
で、これが世界、僕の自分の生き方と同一に言えるのかどうかわかんないんですけど、可能性を広げまくることはね、別にできるんですよね。でも、自分の可能性を狭めることって結構難しいんですよね。正直、狭めているのなら、その納得した状態で狭められているのであれば、わざわざ広げる要素ないのかなと思うんですよね。だから僕がこれを思い込むことによって、最初の感情を思い込むことによって、なんか弊害はあるのかなと言われたら、そこまでないのかなというふうに思ったりもしますね。
未知の世界に出会う
長時間その世界に滞在する
能動的に感じ、見て、考え、適応する
その結果として静かな気持ちになる




