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自分史  作者: 暮葉畏啓
遊戯ろうろうとして時にむきあえばひね
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自己ログ倉庫169 「考え方のステージ」

最近ふと思うことがある。

周りの連中の話している内容や、その話のもとになる考え方の傾向についてだ。


まず、前提を共有しておきたいが、僕は高校三年間の間ずっとクラスでぼっちだった。まあ、ボッチを貫いたわけである。


だからこそ、僕が一人で考える時間に彼らは友達と話し、彼らが友達と遊んでいる放課後に僕はこれを書いている。

また、高校生活をどのように過ごし方で、ある程度性格やものの見方は変わると思われるが、それは僕と彼らにおいても適用できる内容だと思う。


そう考えると、僕と彼らの間には、ものの見方や実際の行動などの微妙な違いの積み重ねが、全く違う高校生活を形成させたと言える。


そして僕は思うのだ。


彼らの考え方や話の内容が少し今の自分とはずれてしまっている、と。


高校1年生の文化祭。僕は「闇堕ち」した。これは過去の自己ログ倉庫でも記録していることだが、ここで僕のボッチ生活は始まった。

初めは辛いものだった。


なぜなら、ボッチなりたての頃というのは、言い換えるとそれまではぼっちではなかったという意味であり、であれば周りの人間と共有している考え方やものの見方が少なからず似ているからだ。


彼らが僕を見てくることに強く反応するのも、彼らが僕に話しかけないことや、かげでせせら笑っているのだろうと怯えることも全ては彼らのことを意識していたからだ。

もしも彼らが他の動物だったならそんなことは考えなかっただろう。

彼らが自分と同じような存在だということを当たり前のように思っていたから苦しんだのだろう。


だからなのか、いちばんボッチであることに苦しんだのは最初の頃で、それからはそのストレス度は低下していったように思っている。


それはなぜなのか?

さっきの説明がそのままいきるだろう。


ぼっちとして生活する時間が長くなればなるほど、周りとのものの見方や実際の行動が変化していき、だんだんとずれていく。そのずれが大きくなればなるほど、自分と同じ存在として彼らを認識する度合いが低下し、意識さえしなくなっていく。


「麻痺する」


「僕は麻痺したから、なんかもう辛くなくなったわ。」


これは当時、高校2年生の夏くらいから僕が幼馴染(別の高校)の吉田と会話していた時によく使った言葉である。

当時は麻痺した、つまり痛みに慣れたから痛みを感じなくなったという説明を自身にしていたが、先ほど話した説明でも説明できるように思う。


実際、僕は今、彼らと自分をかなり切り離して考えている。この考え方自体は高校三年生の比較的早い頃から思っていたことではあるが。


そして最近驚くのだ。


彼らの考え方や行動がいちいち自分の常識の行動の外にあるという事実に。


彼らは10月31日の土日に何をしたか。


その日はちょうど模試だったから土日だったけれど学校で一日中模試を受けることになっていた。とはいえ、最初は点呼もあるので教室待機だ。その時、彼らは何をしたか。


文化祭の劇で用いた衣装を着ていたのだ。


もちろん全員ではない。一部は嘲笑さえしていた。けれど、そんな行動を真面目にとる、そんな考え方が当たり前のように思いついた人が自分と同じ同級生にいるという事実は僕を戦慄させた。


その行為が恐ろしいほどに愚かだったからではない。そもそもそれは主観的な思いだ。彼らからすればぼっちの僕に対して、「なんでそんな面白くない生き方してんだろ。愚か。」と考えている可能性だって大いにある。


誰が何を思うか自体に論理の正確性などはあっても、考えること自体に間違いや正しさはないのだ。


だから僕は彼らに対してただドン引きをした。


もちろん彼らは模試会場ではそれを脱いでいた。



大切なのは、彼らの行動を私が糾弾したいということではなく、私の当たり前と彼らの当たり前がずれているといいうことだ。

そしてこれは別に特異な事情ではない。


幼稚園と小学生。小学生低学年と高学年。中学生と中学3年生。高校生と大学生。大学生と社会人。

その社会のステージによって、人の考え方や何を大事に思うかなどの多くは違う。


そのどれか一つが正しく、他の考え方は間違っているなどを言いたいのではない。

その違いというものが存在することを強く意識したいのだ。


先ほどの僕のボッチの話を用いて説明するとするならば、これらも同じように経験や実際に何を行動したかなどの積み重ねが考え方の根本を形成していると説明できるかもしれない。


小学生は中学生で行われる定期テストを受けないし、中学1、2二年生は中学3年生の受験をまだ経験していないように。


そしてこれは大きな区切り、つまり社会全体を見る際の一つの区切り方であり、より精密に分けるとすればその中身の行動を考える必要がある。


例えば中学で文化部に入ったのか運動部に入ったのか。先ほどの話で行けばどんな友達と触れ合ったのか、ぼっちだったのかなど。


もちろんそれだけが当人の考え方やものの見方をある一つの要素に導くものではないが、

おおよそ、それらが違えばものの見方などもわりかし違っている傾向にあるということは言えると思う。


そしてこんなことを考えることはそんなに一般的ではないだろう。


ずっとぼっちでこういう文章をただただ三年間書いてきた僕のような行動を経験した人間の方がこういうのは思いつきやすいだろう。

実際に、考え方やものの見方の傾向の違いが確認できていることに喜びを感じつつ、

連帯感というものに少し憧れつつ、

静かに筆を置きたいとおもう。


言いたかったのは、

人は過去の行動や経験の積み重ねがものの見方に影響する。だから、人生のステージが違う人間同士だと顕著だが、それだけでなく同じステージでも違う行動をしていたのならものの見方などは違っていたりする傾向がある。



そしてここでもう一つ深める文章を書く。


ものの見方の違いが同年代にも世代間にもあるのだから、

だからちゃんと話さないと、前提を共有しないと、

ちゃんと話したい時などはうまくいかない。

ちゃんと相手の本心を知りたくて、

ちゃんと自分の本心を伝えたいのならば、

相手と自分のものの見方や考え方という会話の前提そのものに、違いがあるかもしれないという思いを抱えて、


より丁寧に、熱心に、慎重に向き合うべきではないだろうか。


そして、地道に論理を導き出しても相手が「何を言っているのかわからない。」と言ってきたときは、その論理の裏に蔓延っている前提を相手に伝えてみるのはどうだろうか。



最後に。


こんなだから

人間は

簡単にわかり合うことなんか難しい。


うまくいかないことだってたくさんある

相手を馬鹿にしたいことだってたまにはあるだろう


でも、

覚えていてほしいのは、


違う考え方

自分とは違うものの見方をしている他者だからこそ


会話の中で新しい発見があって面白いのだということを


覚えておいてほしい

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