自己ログ倉庫142 「富野監督の考えと自分の考えを擦り合わせる。」
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一つ言いたいんですけど。
いわゆるコンピューターに対しての話で。落合陽一さんっていう方が言っていたことなんですけど。コンピューターっていうのは、いわゆる第二の農耕文化が始まってるっていうふうに言ったんですよ。それはどういうことかというと、コンピューターを、いわゆる物品化っていうんですけど、いわゆる亀さんのように扱ってると。でもそのコンピューターっていうものを実際は私たちどうのように使ってるのかというのを考えたとき、古代の農耕文化と同じようなものではないのかと。古代の人々は農作物というものを育てて、それを作種して生きてきたと。で、今の現在の人たちもコンピューターで情報というものを自分たちで作って、それを使って利用して消費して過ごしているという状況なわけで。あと何か言ってたような気もするんですけれども。実際にそのコンピューターで、そうですね。その後、古代の人々たちは神様を作り上げたわけですよ。彼らの概念の中で神様を育ったんですけど。その神様として多く登場するのが農耕の神様とか火の神様とか。いわゆる農耕文化の中での農耕をうまく活かせるための神様。いわゆる農耕における神様を自分たちで作り上げた。その農耕の神様というのは自分たちではできないことができる。今の現在も同じようなものでコンピューターというもので情報を扱えるようになった。それを作物と同じような感じで扱っていると。それを扱ってる中で、その情報の中になんか神様がいるんじゃないか。それがコンピューターなんではないかっていうふうな感じでコンピューターをいわゆる物品化し始めたっていうところではもうよくわかるのかなという。それで、なんだろう、コンピューターを神だと思う人がいるというのがなんでなのかというと、人間はそもそもそういう思考を持ってるんだっていうところが農耕文化から説明できるよねっていうふうに言ってたんですよ。なんかそれで富野由悠季監督と落合陽一さんの対談だったんですけど。そこで吉井監督が言ったのは、農耕文化における作物っていうのは人間が生まれる前からあったものなんだけれども、それを使い始めたわけなんだけれども。情報、違うな。それは言ってないか。情報は元々あったから関係ないな。うんとね。まあいいわ。でもこの話題に関して僕が思ったのは、確かに農耕というので説明できそうだなと思ったんですよ。で、情報を作り出して、それを接種して消費してますよねというところで。僕はそれで今説明できるだろうなと思ったんですけど。
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確かにわかりやすいのは農耕文化が発達したことによって人間は動くことが減った、定住文化にあった。これは身体的な変化ですけど、コンピュータの情報に関しては身体的ではなく認知的な変化だから、そのように考えると今度は考えなくなるっていうふうになるのではないかっていうのは割と自然な考えとして成立するのかなと僕は思いますね。で、言語に関して、それは言語というのもまたいわゆる、なんだろう、自分の記憶の中にある物事を外部に保存するための装置としてシステムとして生み出されて、それが今の情報コンピュータとも似ているのではないかっていうふうな話なんですけど。確かに今それは思いますね。結果的に僕が思うというか、富野さんがまた言ってたことになるんですけど、僕もそうだなと思うのは、人間というものはあれですよ、その最適化効率化っていうのを従うというものがあって、それは多分勉学を行っていく中で最適化効率化っていうものがかなりもともと目標にあったみたいな関係というか背景があって、それを元に学んできたから学ぶで研究するという行為に最適化効率化っていうものは常にまとわりついているというふうな前提を踏まえた上で聞いてほしいんですけど。人間っていうのは基本的に与えられた技術とかすでにある状態というものを最適化効率化したがる。で、それの弊害としてコンピュータが生まれた。いわゆる言語だけでは物足りない。宇宙開発とか顕著ですけど、宇宙開発をするという行為はとてつもなく果てしなく難しいことなんだけれども、資本主義は目標を立てたいから目標を作るべきであるから、それがないと目標物がないから作る。それを宇宙開発としました。宇宙開発としていろいろ頑張っていると。原子爆弾とかいわゆる原子力発電所っていうのは今で福島とかの話があったから良くないかもしれないけど、今でも全然稼働してる合法なもんなんで。海外とか世界的に見たら別にいいものなんだけども、その始まりが原子爆弾っていう存在で、人間は最初、いわゆる原子力核分裂っていうものを利用できることになったとき、最初に何をしたかというと原子力発電所を作ったんじゃなくて原子爆弾を作ったっていうことなんじゃないかと。つまり人間っていうのは何か情報を効率化されたりとか宣言化させていくっていうことに対して、すごいそういう前提を持ってるからそういうのを能動的にするんだけれども。それをした結果っていうものをあまり知らなくて、それによる影響とかもあまり考えていないと。だからこそ原爆っていうものを作ってしまうんですよねと。確かにっていうので思うところあるんですけど。ちょっと僕が思うところとしては原子爆弾を作るっていう世代、作った世代っていうのは人生の反省以上を戦時下の中で生きてきたから、そういう思想になる、そういう思考になるのは仕方ないのかなと。その後の人たちは反戦の文化を知ってるから原子力発電所に踏み切ったっていう可能性はあると思うんですよ。でも人間は愚かだから、その宣言化とか効率化っていうことを頭がいいと思ってやる。でもその結果どういうところまでは考えてない、考えられない。だからこそコンピュータが生まれる。コンピュータによって人の脳が認知が弱くなったとしてもそれは結果でしかない、弊害でしかない。それよりもコンピュータを作ったっていうのはもうすでにある前提だからこそ、それをどのように利用するかって話になってしまう。そうなるとその教訓が得られないっていうふうになる。そういう人間があるのかなというふうに僕は思ったりもします。で、何を話したかというと言語とコンピュータだっけ。まあでも多分そうですね。言語が生まれたときくらいからそれは始まってたのかなというふうに思いますけども。はい。で、一つ僕がここまで話してきた中で、多分どっか一個抜けてる論理があるんですよ。それは何かというと、コンピューターが生まれました、言語が生まれました、いわゆる認知の構造が変わりました。ってなった時に、なんでその頭悪くなるのっていうふうに僕は言ってるんですけど。いや、頭悪くなるって言ってるんですけど、それはなんでなんですかって。なんで認知の変化が起きて、コンピューター使うようになったら頭悪くなるんですかと。コンピューター使う方がより多くの情報検索できますよねと。そういうのはあると思います。で、コンピューターを使っている状態、コンピューターと自分の脳が一体化している状態だったら、多分普通の、使っていない状態よりもできると思う。いわゆる使ったことない人間よりもできると思うんです。けど、使ってしまった場合、いわゆるコンピューターの方に自分の認知を置いてしまうと、分布的に自分の脳の方の認知が減るっていうのは視覚的にわかりやすいかなと思います。で、僕はずっと前から考えてることとしては、計算の問題なんですけど。ある掛け算を暗算で解くことと、電卓で解くことと、紙に書いて解くことと、暗唱して解くことと、筆算して解くことと、人に聞いて解くことだったら、いろんな方法で最終的に同じ結論に至るんです。で、計算問題を解く間のこの処理っていうのを一つの指標としてエネルギーとして変換した場合、最も一番自分の脳での変換が必要、エネルギーが必要なのは暗算ですよねと。で、一番楽なのは人に聞くかAIに聞くか、そもそもその数字自体の答えを見るかっていう話なんですよ。で、じゃあその後者の方をやり続けていった結果、自分の脳の方であまり訓練されなかった、脳の負荷が減ると。で、その脳を鍛えた後だったら脳の負荷が低い方を大量にこなすのがいいと思うんですけど。脳を鍛えている途中の時に脳の負荷が低いものばっかり触ってると、結果的にその結果しか触らない人間になる。もしくはそういう道具っていうのを利用する人間、利用するのがうまい人間になるというふうに僕は考えるので。僕はめちゃくちゃその、なんだろう。高校生18歳ぐらいの人間ならまだあれかもしれないけど、それ以前の人たち、子どもっていうのはインターネットとかは使わない方がいいっていうふうに僕は考えてたりはします。で、僕自身がそもそもインターネット、こういう記録媒体を作ったり見たりとかは好きなんですけど。動画系のサイト、アニメは別ですけど。短期で個人でなんか思いつきで作ったような動画とかあまり見ないようにしてる。ショート動画とかは見ないようにしてるので。それはなんか結構注意として考えるべきかなというところと。あとこの考え方で多分ある程度さっき言ったそのなぜっていうところは説明できるのかなと思ったりしてます。
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僕が言いたいのは、その認知的な文法を変えましたと。それが、いわゆるコンピューター後の人間なんだけれども。えっと、それによっていわゆる穴が目立つようになったっていうところが、コンピューターによってより鮮明になってきたかなっていうふうに僕は思ってて。自分の知らないところ、いわゆる例えば僕が検索アルゴリズムで何か調べたいことを調べましたってなったときに、なんでそれが出てきたのかとか、なんだろう。僕が調べてわからないと思ったときに、まず自分でそれがどんなものなのかを予測するっていうことをせずに、その単語だけ抽出して打って正しい情報を見るってなると、その考えることがなくなるっていうのがまず一つと。コンピューターだけじゃないんですけど、便利になっていく中で自分以外のところに認知を置くというのは、自分の一つの物事を通してやるときに自分の脳だけではやれない。自分の脳だけでは穴があるような状態になっているわけです。認知的に考えると。で、その場合、すべてを見渡すことができていないから、すべてを知っていることがないから、すべてを理解していることがないから。僕たちは、なんだろう、誤解しやすいというか、そういうところがあるのかなというふうに僕は考えてて。認知な。またちょっとここはまだ次話したいと思う。でももう一個なんだけど、原子爆弾に関しては全くその通りだと思う。あれは特殊な環境だったし、最適化するだから原爆を作るっていうのは多分違う。が、原爆というのはかなり極端な例で、僕が最初の後言ったように、訂正はしてるんですよ。で、原爆だけじゃなくてもっとその、例えば、とても簡単に言うと航空機を作るっていうときに、なぜか人間は航空機をなんか300人乗れるよりも500人乗れる方がいいと思う。軽量化する方がいいと思う、燃費良くする方がいいと思う。iPhoneも同じですよね。次世代を使う方がいいと思うし、そういうものを作る方がいいと思う。技術を革新することがいいと思うっていうのが、なぜか最初からあるんですよ。僕はそれがなんでなんかなと思ったときに、人間が生まれて赤ん坊のときからそういう思いを持ってるカテゴリーなら怪しいと思うんですよ。だって人間っていうのは農耕文化が始まる昔っていうのは何万年もずっとその状態で続いてたわけじゃないですか。でも農耕文化がたちまち始まると一気に変化したわけ。これは、すごい大雑把になるけれども、多分最初から持ってるわけではない。どこかの起爆剤かどこかの軽減か、どこかの考え方が人間についたからそういうふうに考えがやった。多分それは今の人間でいうと、今の人間がなんでそういうふうな最適化を目指すのかというと、子供時代のときに今数学とか学ぶけれども、その数学とかのところにまず思想が入ってたと。その思想線は最適化とか効率化とか技術が進むことがいいことだよねっていうふうな思想があった。だからそういうふうに、なんか誰も悪びれもなく技術を革新させようとするっていうところがあるのかなと思います。でも実際に航空機じゃ300人から500人乗れるようになりましたってなったら、どういう副作用が生まれるかというと、航空会社はじゃあ500人呼び込まないといけないと。そのためにいろいろ誘致しないといけないし、いろいろやらないといけない。これは1000人になったら、これが2000人になったらどうなるんですか。もしガソリン代が安くなったり、ガソリンをたくさん使わなくてよくなったら、じゃガソリンを供給してる会社どうするんですかっていう。最適化、効率化っていうのを目指した結果、それが誰にどんな影響を与えるのか、世界にどんな影響を与えるのかっていうのをそこまで考えついていないっていうところはあるとは思います。で、それが結果的にコンピューターの方にもつながってきて、コンピューターも同じように作るだけ作って進化させるだけ進化させて、AIも進化させるだけ進化させて、シンギュラリティとか言われてるけれども。結果的にそれの後、AIが人間に何をしてかすのか、どんな影響があるのかっていうところまでは考えられてないよねと。だからつまりいつも技術を革新させようとする人間は時代を変えるんだけれども、それがいい方向に向かうはずもないし、結果として世界を変えるけれども、変えるだけであるというふうに僕は思います。で、その後急に手放すことはもうできない。農耕文化を手に入れた人間は急に狩猟文化に戻ることもないように。もっと小さなことでも全部同じですけど。多分コンピューターもさよならすることはできないんだろうなと思うと、まだか人間はかなり不可逆的な進化を遂げてるのかなと思います。この進化っていうのが正しい進化なのか、正しい意味での進化なのか、ちょっと僕はわからないんですけど。
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この話のタイトル詩つけるなら、「不可逆的な進化を遂げる人間は最後に何を見るのか」っていうふうになんかできるのかなと思ったりもします。で、まあなんか僕がちょっとこう感じたところ、後付けで考えたところとしては。言語が生まれて、でその後たくさんいろんなことがあってコンピュータが生まれましたっていうところで。じゃあそれが全部が良くないものなのかっていう話なんですよ。言語に関してはあった方が便利だよねっていうのもあるし。えっと、コンピュータもその認知を変えるけれども、別に何だろう。言語とこと同じで、結果的にその離れることはないんですよ。後戻りすることはないから。コンピュータを永遠使っていく。その世界の中であればコンピュータを使いながら生活する方がいいんじゃないかと。それは当たり前だと思います。で、僕ここで考えたいのは、進化しすぎている世界の中で、その進化しすぎるその世界の中、進化する世界の中で限度っていう、いわゆる程度っていうのが存在するのかどうかっていう話なんですよ。限度がなかったら常に進化し続けても、それがいわゆる反転して善悪が反転することはないんだけども。どこかに限度があった場合、その限度を超えるか超えないかで善悪が反転するという、そういう可能性を考えましょうと。その前に技術の革新っていうのは限度があるのかと。僕はあると思うんです。それは人間の中にある独創性的な独創性というもの、創造性というもの、もしくは作業をする処理能力、単純な処理能力とかそういったもの。そんな諸々、それらがたくさんその人間の脳にはあるんだけども。人間の脳の機能のうち、生物らしさ、もしくは生物らしさというととても語弊が生まれるので、もうちょっと正しい言い方、僕が考える言い方としては個人によって違う存在。個人によって限度がある。できるかできないかがある。考えつくか考えつかないかがある。いわゆる創造性、独創性っていうところ。ここら辺までAIに求める。AIだけでなくて、自分の認知、脳の認知、別の場所にそれらを委ねるってなると、創造性、独創性というものは個人によってのみしか保持されないものだから。という前提をもとに考えると、いわゆる限度を超えると、いわゆる悪になるというふうに僕は思います。処理能力とかっていうものは、知ってればいい。最悪その、なんだろう、機能を理解していて、で、それでその何かをもっと叶えたい目標があるから、それを叶えるためにその時だけちょっと使わせてくださいみたいになったら多分OKだと思うんだけども。創造性、独創性のところまで入っているもの、これを他の認知の方に譲渡してしまった場合、かなりそれが危うくなるっていうところがあると思うんですね。だから言語とかもすべてダメなのではなくて、どこかで限度があって、その限度を超えたとき、今回で言うとコンピュータ、AIとかかな。コンピュータ全部が悪いってわけじゃなくて、さっきも言ったようにコンピュータの中においても独創性とかを否定するようなものではないもの。例えば電卓の機能とか、そういったものであればなんとかなるのかなと思うけれども。文章を書かなければならないってときに文章を書いてもらうっていうことをするとか。例えば文体を整えるだけだったらまだマシかもしれないけれども。文章の内容全部とかっていうのになってくるとちょっと困ってくるんじゃないかなと思います。ただ、これも考え方によってなんですけど。文体を考えるってこと自体もすごい大事な能力だし。生成AIを使うこと、画像の生成AIを使うことも良くないと思われるんですけども。作家とかの中ではね。でも自分たちの描きたい世界がそこにあって、でも画力がないから書けませんっていうときに、自分でそれを手で描くのもいいけど、それだといわゆる優れたものにならないから社会的に受けませんよねと。だから自分の描いてる世界っていうものをAIで表現しました。これは独創性あるんですけれども。独創性っていうもの、いわゆる独創性もたくさん種類があって、そのうち自分が書くという行為、それも独創性なんだけれども。その書くという行為というものを別の機械に与えることになっているって話になります。結果的に一概に何がダメとか言えないけれども、そこらの危機感は持っておいた方がいいのかなと僕は思います。




