第99話 灰に宿る声
日が沈むと、峡谷に不思議なことが起きた。
白くなった灰が、地面からふわりと浮かび上がり、空へ向かって、ゆっくりと昇り始めたのだ。
逆さまに降る雪のようだった。一粒一粒が、かすかに光っている。
第七の連中も、王国軍の兵士たちも、剣を下ろして、ただ黙ってそれを見上げていた。
「……灰には、死んだ者の記憶が宿る」
ドーラ婆さんが、かすれた声で言った。
「そして、守り手が眠りにつくその夜だけ――たった一度だけ、声が届くんだとさ」
◇
最初にそれに気づいたのは、シオンだった。
俺の腕に支えられて座っていた彼女が、ふいに顔を上げた。
その視線の先。昇っていく白い灰の中に、小さな人影が、うっすらと立っていた。
痩せた少年だった。
この世界の服ではない。青い縞の、病院の寝間着。手には、小さな携帯ゲーム機。
「…………湊……?」
シオンの声が、震えた。
少年は、照れたように笑った。
『――姉ちゃん』
その声は、耳ではなく、胸の奥に直接響いた。俺にも、聞こえた。
『もういいよ。――ずっと、見てたよ』
「……湊……湊っ……!」
シオンが、俺の腕を振りほどき、灰の中へと手を伸ばした。だがその指は、光る灰をすり抜けるだけだった。
『僕が言った真ルート、姉ちゃんが見せてくれたね。――全滅の先にあるんじゃなかったんだ。ごめん、僕、間違えてた』
「そんなこと……そんなこと、どうでもいいの……! わたし……わたしは……」
『姉ちゃん』
少年は、何もかもわかっているような顔で、穏やかに首を振った。
『僕、もう十分、姉ちゃんに会えたよ。三万二千時間も。――だから、もう待たなくていい。僕のところには、ゆっくり来て。おばあちゃんになるまで、ゆっくり』
「………………」
『生きて。姉ちゃん』
シオンは、その場に崩れ落ちて、子どものように声を上げて泣いた。
少年は、それを少しだけ困ったように見つめてから――ふと、俺のほうを見た。
『あの、トーマさん。姉ちゃんのこと、よろしくお願いします。――それと』
少年は、俺の隣に立つリーゼをちらりと見て、たまらなく嬉しそうに笑った。
『リーゼさんを助けてくれて、ありがとう』
俺は、何も言えずに、ただ深く頭を下げた。
二万時間。同じ画面の向こうで、同じ人を助けたいと願った、会ったこともない少年に。
◇
声は、一つだけではなかった。
崖の上で、マルタさんが、槍を取り落としたのが見えた。
その前に、十八ばかりの、新兵の革鎧を着た若者が立っていた。
『――母さん。新兵の言うこと、信じてくれて、ありがとう』
マルタさんは、何も言わなかった。ただ、その頭に、やさしく手を伸ばして――そして、笑った。
「……遅いんだよ、馬鹿。十年も待たせて」
――そして。
俺の隣で、リーゼが、息を止めていた。
白い灰の中に、赤い髪の女の人が立っていた。リーゼによく似た、もう少しだけ穏やかな目をした人。
「……母上……」
『――大きくなったわね、リーゼ』
エレオノーラは、娘を見つめて、微笑んだ。
『火を喰らえるようになったのね。――あの人に、伝えて。もう、笑っていいのよって』
「……はい……はい、母上……」
リーゼの頬を、涙が伝っていく。俺は、その手を、そっと握った。
エレオノーラは、俺たちの繋がれた手を見て、いたずらっぽく笑った。それから、白い灰の中に、ゆっくりと溶けていった。
◇
灰は、夜空へと昇り続けていた。
その光の川の中を、一組の影が、手をつないで歩いていくのが見えた。
腰の曲がった老人と、五つか六つばかりの小さな少女。
老人は、一度だけ立ち止まって、俺のほうを振り返った。
――ローデン卿。
幼い娘にもう一度会うために、道を誤った人。そして最後に、「また間に合わんかった」と嘆いた人。
その人が、幼い少女の手を引いて、穏やかに笑っていた。
老人は、俺に向かって、深々と頭を下げた。そして、少女と一緒に、光の中へと歩いていった。
――今度は、間に合ったんですね。
俺は、心の中でそう呼びかけた。
やがて、最後の灰の一粒が、星空の中に溶けて消えた。
峡谷には、白い守り手の岩と、生きている者たちだけが、残された。




