第100話 灰の守り手
翌朝。峡谷に、朝日が昇った。
四日ぶりの、本当の朝だ。
野営の天幕から顔を出した兵士たちが、一人、また一人と、東の空を見上げて立ち尽くす。泣き出す者。拝む者。ただ口を開けて、眺め続ける者。
「……太陽って、こんなに眩しかったんだなぁ」
ピートが、しみじみと呟いた。
「当たり前だろうが」
ガイがその頭を小突き、それから、自分も眩しそうに目を細めた。
峡谷の底では、丸くなって眠る巨大な白い岩が、朝日を浴びて、うっすらと桃色に染まっていた。
灰の守り手。
もう、峡谷のどこにも、灰色の霧はなかった。
◇
俺は、自分の左腕を眺めていた。
袖をまくっても、そこには何もない。ひび割れた刻印も、火傷のような痕も。ただの、日に焼けた兵士の腕だ。
「……寂しいかい」
ドーラ婆さんが、隣に腰を下ろした。
「……少しだけ。でも、これでよかったんだと思います」
「そうかい」
ドーラ婆さんは、俺の左腕を、皺だらけの指でそっと撫でた。
「二十一年前、あたしがユリウスに写し身を彫った時、あの子は『これで誰かの代わりに死ねる』って笑ったんだ。――あたしはそれから二十一年、この技を彫ったことを後悔してたよ」
「…………」
「でも、あんたは違った。あんたはこれで、誰も死なせなかった。――最後の最後に、いい仕事をしてくれたねぇ」
婆さんは、空を見上げた。その目の端が、少しだけ光っていた。
「――ユリウス。あんたの後輩は、立派にやったよ」
◇
昼前、伝令鳥が二羽、野営地に舞い降りた。
一羽は、帝都から。
『トーマさん、リーゼさん、皆さんへ。
燭台の火が灯った時、帝都の大広場で、何万人もの声が、一つになるのを聞きました。あんなに美しい声を、私は今まで一度も聞いたことがありません。
それと――朝、顔を洗ったら、私の髪の灰色が、全部消えていました。
一房も残らず、生まれた時と同じ白い髪に戻っています。リタが大声で泣いて、皇宮じゅうが大騒ぎになりました。
リナちゃんが、絵を描いてくれたので、同封します。――セラ』
封筒の中には、もう一枚、小さな絵が入っていた。
ふたつ結びの女の子と、弓を持った男の子。その周りを、たくさんの人の顔が囲んでいる。大きい人、赤い髪の人、槍を持った人。そして端のほうに、黒い髪の、少し泣いているような女の人。
絵の下には、たどたどしい字で、こう書いてあった。
『みんなで、かえろうね。』
ノエルが、その絵を見て、黙って顔をそむけた。
もう一羽は、王都から。伯爵の生真面目な字だった。
『――大聖堂の柱から、無数の光が昇っていった。そのあと、王都じゅうの老いた元聖女たちが、口々に「体が軽い」と言い出している。大司教によれば、儀で削られた命が、少しずつ戻っているのだそうだ。ミアたち小さな聖女も、皆、元気だ。
王国の死者、なし。
娘よ。帰りを待つ。――父』
リーゼは、その手紙を何度も読み返してから、大事そうに懐にしまった。
「……母上の言伝を、伝えなければならないな」
「はい」
「……あの父上が、笑えるとは思えないがな」
リーゼは、そう言って、少しだけ笑った。
◇
シオンは、峡谷の縁に座って、灰の守り手を見下ろしていた。
鎖は、つけていない。バルド将軍が「逃げる気があるなら、昨夜のうちに逃げとるだろう」と言って、そのままにさせたのだ。
「……隣、いいですか」
「……うん」
俺は、彼女の隣に腰を下ろした。
しばらく、二人とも黙っていた。
「……あの子、『おばあちゃんになるまで』って言ったね」
やがて、シオンが口を開いた。
「はい」
「……長いなぁ。あと何十年あるんだろう」
その声は、泣きはらしたあとのように掠れていたが、崖の上で聞いたどの声よりも、ずっと、この世界に足をつけているように聞こえた。
「……わたしは、たくさんの人を傷つけた。リンデ村も、ローデンさんも、ノエルくんも、皇帝陛下も。――裁かれるのは、当然だと思う。どんな罰でも、受けるよ」
「……はい」
「でも、もし――もし選べるなら」
シオンは、峡谷の底の、白い守り手を見つめた。
「この子のそばに、いたいな。――湊の声が、届いた場所だから」
朝日の中で、灰の守り手は、何も言わずに眠り続けていた。
もうすぐ完結です!




