第98話 真ルート
黒い柱が、橙色に光っていた。
その光は、もう脈打ってはいなかった。ただ静かに、暖炉の火のように、内側から温かく灯っている。
そして――その表面から、光の粒が、ひとつ、またひとつと、湧き上がり始めた。
蛍のように小さな光。それが、何十、何百、何千と増えていく。
「……これは」
リーゼが、息を呑んだ。
「聖女たちの命だよ」
ドーラ婆さんが、皺だらけの手を光の中に差し伸べた。
「何百年も、この柱に捧げられてきた命だ。――食べられずに、やっと解き放たれたんだね」
光の粒は、灰の天井をすり抜けて、上へ、上へと昇っていく。
――その瞬間、心臓を囲んでいた灰の壁が、さらさらと崩れ始めた。
「崩れるぞ!」
「――いや、違う」
俺は、崩れゆく灰を見上げた。
灰は、落ちてこなかった。
崩れたところから、ゆっくりと、白く色を変えていく。灰色の灰が、雪のような白へ。
◇
灰の心臓の中から、俺たちは外へ出た。
そして――その光景を、一生忘れないだろうと思った。
峡谷を埋め尽くしていた灰の王が、動いていた。
その頭の上の、破れた王冠が、音もなく崩れ落ちる。峡谷の崖を掴んでいた何本もの灰の腕が、ゆっくりと、その手を放していく。
灰の王は、膝を折った。
まるで、長い長い旅を終えた旅人が、ようやく腰を下ろすように。
腕を組み、頭を垂れ、峡谷の底に体を丸めていく。その体が、頭の先から、肩から、背中から――白い石へと変わっていく。
やがてそこには、峡谷の底で丸くなって眠る、巨大な白い獣のような岩が、ひとつあるだけになった。
「……灰の王が……」
「眠った……んですか」
ノエルが、弓を下ろしたまま呟いた。
「――灰の守り手だよ」
ドーラ婆さんが、小さく言った。
「古い古い刻印師の言い伝えにある。灰の王は、飢えていなければ、灰の守り手になるってね。死んだ者の記憶を灰の中に抱いて、生きてる者の知らないところで、ずっと、穏やかに眠り続ける。――ただのおとぎ話だと思ってたよ」
◇
その時だった。
空が、割れた。
灰色の空に、西の端から、一筋の亀裂が走る。その割れ目から――光が差し込んだ。
赤い光だった。
橙色と、金色と、薄い紫が溶け合う、あの光。
灰色の空が、西から東へと、みるみる剥がれ落ちていく。その向こうにあったのは――三日ぶりの、本当の空だった。
西の山の端に、大きな太陽が、今まさに沈みかけていた。
「……夕日だ」
リーゼが、呆然と呟いた。
黄昏の日は――本当の黄昏で、終わったのだ。
◇
「――おいっ!」
峡谷の上から、太い声が降ってきた。
見上げると、崖の縁に、第七の連中がずらりと並んでいた。灰まみれで、傷だらけで、それでも全員が、夕日に顔を照らされて立っている。
その真ん中で、両手で槍を抱えたマルタさんが、大きく手を振っていた。
「灰の獣どもが、全部、雪みたいに崩れちまったよ! ――あんたら、やったんだね?」
「――はいっ!」
俺は、叫び返した。
「そっちは、皆無事ですか!」
「バルドの旦那が、今数えてるよ!」
その後ろから、熊のような大男が、羊皮紙を掲げて身を乗り出した。
「――王国軍、負傷者多数! そして――戦死者、ゼロだああああっ!!」
峡谷に、歓声が爆発した。
◇
俺の腕の中で、シオンが、小さく身じろぎした。
その体を覆っていた黒い翼の紋様は、もうどこにもなかった。頬には、ほんのわずかだけ、血の気が戻っている。
「……わたし……」
シオンが、かすれた声で言った。
「……生きてるの……?」
「生きてますよ」
俺は、懐から帳面を取り出して、彼女に見せた。
「だから、ここに、線を引いていいですか」
シオンは、帳面の一番下の、自分の名前を、じっと見つめた。
そして――小さく、本当に小さく、頷いた。




