第97話 黄昏の日(三) 最後の写し身
「……わたしの、祈り?」
シオンが、かすれた声で繰り返した。
「わたしには、祈りなんてないよ。聖女じゃないし……こんなことしか、してこなかったし」
「ありますよ」
俺は、掴んだ手に力を込めた。
「三万二千時間。その半分を、病院のベッドの横で過ごしたんでしょう。湊くんが『この人だけは助けたい』って言うたびに、一緒に画面を覗き込んで。――この世界でも、毎晩、弟の絵を見上げて。リナちゃんに字を教えて。皇帝陛下の部屋の前で、ごめんなさいって泣いて」
シオンの唇が、震えた。
「…………」
「それが、あなたの祈りです。誰かに会いたいって思うことも。誰かに生きていてほしいって思うことも。――聖女じゃなくても、全部、祈りなんです」
エレオノーラの手帳の一節。
『祈りは、捧げるものではなく、灯すものだった。』
あの人がそう書いた意味が、今ならわかる気がした。
「……どうして、そこまでしてくれるの。わたし、君の大事な人たちを、何度も殺そうとしたのに」
「……同郷だからですよ」
俺は、少しだけ笑った。
「それに。二万時間遊んだゲームの、本当のエンディングを、同じゲームを三万二千時間遊んだ人と一緒に見られないのは――たぶん、一生後悔するので」
シオンは、引きつったように笑った。その目から、大粒の涙がこぼれ落ちた。
「……ばかだね、君。――湊も、そういうところがあった」
彼女の冷たい指が、俺の手を、そっと握り返した。
「……いいよ。写して」
◇
左腕の刻印が、燃えるように熱くなった。
写し身。
これまで写してきたのは、一度を除いて、いつも誰かの「強さ」だった。何かを守るために、誰かの剣を借りた。その一度が――大聖堂の地下で写した、セラの祈りだ。
だが、最後に写すのは、強さじゃない。
――会いたい。
――生きていてほしい。
――ごめんね。ありがとう。大好きだよ。
シオンの心の底から、そういうものが、波のように俺の中へ流れ込んできた。
病室の白い壁。消毒液の匂い。携帯ゲーム機の小さな画面。降り始めた雪を窓越しに見上げる、痩せた少年の横顔。
『姉ちゃん、この人だけは助けたいんだ』
『……うん。姉ちゃんもだよ』
――これが、この人の祈りだ。
「――副司令! 火を!」
俺は、懐から銀の燭台を取り出した。
リーゼが駆け寄り、その指先を燭台の芯に当てた。
「……私の炎でいいのか」
「あなたの炎がいいんです」
リーゼは、一瞬だけ俺の目を見て――それから、小さく頷いた。
指先から、蝋燭のような小さな火が、燭台へと移った。
灰の心臓の闇の中に、一つだけ、橙色の灯りがともった。
――そして、俺は「返した」。
写した祈りを、写した持ち主へ。そして――その灯りに繋がる、全ての人へ。
◇
【幕間 アーベント伯爵】
王都の大聖堂の前の広場は、蝋燭の火で埋め尽くされていた。
一万か、二万か。数えることもできない火の海の中心で、ミアと小さな聖女たちが手を取り合い、その前に置かれた銀の燭台を見つめていた。
その燭台に――ふっと、火が灯った。
「――灯った!」
ミアが叫んだ。その瞬間、広場を埋めた二万の火が、一斉に大きく揺らめいた。
伯爵の胸の奥に、何か温かいものが流れ込んできた。会いたい。生きていてほしい。――それは、二十一年前、大聖堂の奥で心から祈った、自分自身の祈りと、同じ形をしていた。
「……エレオノーラ」
伯爵は、自分の蝋燭を高く掲げた。
【幕間 セラ】
帝都の大広場も、同じだった。
セラの前の燭台に火が灯った瞬間、セラは、あふれる声を聞いた。
帝都の何万人もの、「会いたい」と「生きていてほしい」。帝国の言葉で、王国の言葉で、そして――聞いたことのない、不思議な言葉で。
そのどの声も、濁っていなかった。
「――皆さん。祈りを、灯しましょう」
セラは、リナの小さな手を握った。リナの反対の手をルカが、ルカの反対の手をゼノンが、握った。
何万もの灯りが、灰色の空へと掲げられた。
◇
灰の心臓の中で、燭台の火が、爆ぜるように大きくなった。
王都から、帝都から、そして峡谷の上で戦う第七と王国軍の兵士たちから。無数の祈りが、光の帯となって流れ込んでくる。
その光が、黒い柱に触れた。
柱の表面を走っていた光の筋が、色を変える。青白い光から――温かい、橙色の光へ。
シオンの体を覆っていた黒い翼の紋様が、端から、灰になって崩れていく。
そして――俺の左腕で、何かが、小さな音を立てて砕けた。
写し身の刻印が、光の粒になって、ゆっくりと、散っていった。




