第96話 黄昏の日(二) 灰の心臓
灰の王の胸には、穴が開いていた。
いや――峡谷の底の黒い柱の周りだけ、灰が寄りついていないのだ。まるで、心臓を守る肋骨のように、灰の壁が丸く空間を囲んでいる。
俺とリーゼ、ガイ、ノエル、ドーラ婆さん。第七が切り開いた道を通って、五人でその中へと入った。
外の喚声が、嘘のように遠ざかる。
静かだった。
その中央で、黒い柱が、心臓のように脈打っていた。
そしてその前に――彼女がいた。
「……本当に、来ちゃったね」
シオンは、柱に背を預けて座っていた。
その体の半分は、もう黒い翼の紋様に覆われていた。首から頬、左の腕、左の足。その紋様から、細い光の糸が何本も柱へと伸び、彼女の命を吸い上げている。
顔色は、紙のように白かった。
「……シオンさん」
「黄昏時まで、もう少しだよ。――ここまで来たんだから、最後まで付き合ってくれる?」
彼女はゆっくりと立ち上がった。
その右手には、片翼の鳥の飾りを先端につけた、細い銀の杖が握られていた。
◇
「――止めに来たんです」
「知ってる。だから――ごめんね」
シオンが杖を振った。
周りの灰の壁から、灰の鎖が何本も飛び出してきた。それが、俺たちの手足に絡みつこうとする。
「――焼き尽くす!」
リーゼの炎が、鎖を焼き切る。だが、焼いても焼いても、壁から新しい鎖が伸びてくる。
「……殺しに来ないな」
ガイが、大盾で鎖を弾きながら呻いた。
その通りだった。灰の鎖は、俺たちを縛ろうとはするが、傷つけようとはしない。締め上げもしない。
「……あんた、本当は誰も死なせたくないんだろうが!」
ノエルが叫んだ。
「……そうだよ。だから、わたしだけで払うの」
シオンの声が、わずかに震えた。
「峡谷で、兵士Cに教えてもらったから。他人の命を賭けるのは、違うって。――だから、今度は自分の命だけを賭けた。それなら、文句はないでしょう?」
「――ありますよ」
俺は、灰の鎖を振り払いながら、懐に手を入れた。
取り出したのは、あの帳面だった。
「……それは」
「帝都からここへ来る途中で、一行だけ書き足しました」
俺は、帳面の最後のページを開いて、彼女に向けた。
『帝都陥落 ―― ルカ(玉座の間にて)』
『黄昏の日 ―― セラ(最後の聖女として)』
『同 ―― 王都の人々』
そしてその下に、新しい字。
『同 ―― シオン(灰の王の心臓にて)』
シオンの目が、大きく見開かれた。
「この帳面に名前を書いた人は、一人も死なせない。俺はそう決めて、ここまで来たんです。――あなたも、もう、この帳面の中の一人です」
「…………ずるいよ、そんなの」
「ずるくていいんです。俺は主人公じゃない。兵士Cですから」
◇
シオンの杖を握る手が、震えた。
その瞬間だった。
「――ガイ! 鎖を押さえろ!」
「おうよぉっ!」
ガイが大盾を捨て、灰の鎖を両腕で一度に五本も抱え込んだ。全身の筋肉が軋み、鎖が引きちぎられんばかりに張り詰める。
「――ノエル!」
「わかってます!」
ノエルの矢が、一直線に飛んだ。
狙いは、シオンではない。彼女の杖の先の、片翼の鳥の飾り。
澄んだ音がして――飾りが砕け散った。
灰の鎖が、一斉に力を失って床に落ちる。
「――副司令!」
「任せろ!」
リーゼの炎が、シオンと柱の間を結ぶ光の糸を、一本ずつ、細い針のように焼き切っていく。帝都の火を喰らった、あの精密さで。
「全部は切るなよ! 細いのを三本だけ残しな! いきなり全部切ったら、この娘の体がもたない!」
ドーラ婆さんの声が飛ぶ。
「――今だ、トーマ!」
俺は、走った。
灰の床を蹴り、崩れかけたシオンの前に飛び込む。
そして――その手を、掴んだ。
冷たい手だった。
「……トーマくん」
「黄昏時まで、あとどれくらいですか」
シオンは、灰の天井の向こうを見上げた。
「……もう、すぐ」
俺は、左腕の袖をまくり上げた。
ひび割れた写し身の刻印が、灰の闇の中で、白く光り始めていた。
「――シオンさん。あなたの祈りを、写させてください」




