第95話 黄昏の日(一) 待ちくたびれた槍
三日目の午後。俺たちは、灰の峡谷を見下ろす丘にたどり着いた。
そして、言葉を失った。
峡谷が、なかった。
いや――峡谷を埋め尽くすほどの、巨大なものが、そこにうずくまっていたのだ。
灰だ。
山のような灰の塊が、ゆっくりと、呼吸するように膨らんでは縮んでいる。その表面から、何本もの灰の腕が伸び、峡谷の崖を掴んでいる。そしてその頭部には――灰でできた、破れた王冠のようなものが載っていた。
「……灰の王」
原作の最後の敵。二万時間、何度も何度も挑んだ、あの姿。
だが、画面の向こうで見るのとは、まるで違う。大きい。あまりにも。
「まだ、完全には目を覚ましていません。黄昏時まで、あと二刻」
「……シオンは、どこだ」
「灰の王の心臓の、一番深いところ」
俺は、灰の王の胸のあたりを指差した。そこだけ、灰の隙間から、青白い光が、かすかに脈打っている。
峡谷の底の、黒い柱があった場所だ。
◇
「――来るぞ!」
ノエルが叫んだ。
灰の王の表面から、何かがこぼれ落ちた。灰の塊だ。それが地面に落ちると、狼のような、熊のような、形の定まらない獣の姿をとって、一方向に駆け出した。
俺たちのほうへ。
「灰の眷属だ……!」
原作でも、黄昏の日に現れた敵だ。一体一体は強くない。だが、数が――
灰の王の体から、次々と灰の塊がこぼれ落ちていく。十、二十、五十、百――
「……数えるの、やめていいか」
ガイが、大盾を構えながら呻いた。
「――救援隊、方陣!」
リーゼの号令が飛ぶ。五十騎が馬を降り、円陣を組む。その中心に、ドーラ婆さんと、俺が抱えた銀の燭台。
灰の獣たちが、円陣に突っ込んできた。
◇
斬っても斬っても、灰は崩れ、また形を成して立ち上がってくる。
リーゼの炎が灰を焼き、ガイの大盾が灰を弾き、ノエルの矢が灰の獣の眼を射抜く。だが、円陣は少しずつ、少しずつ、押し込まれていく。
「……きりがない……!」
「副司令、炎を温存してください! 峡谷の底まで、まだ――」
「わかっている! だが、このままでは――」
その時だった。
丘の向こうから、角笛が鳴り響いた。
帝国の角笛ではない。俺が一年半、毎朝聞き続けた音だ。
黒狼砦の、角笛。
「――待たせたねぇぇぇぇっ!!」
灰色の空の下、丘の稜線を、無数の人影が駆け下りてくる。
その先頭。両手で槍を抱え、白髪交じりの髪を振り乱して、一人の女が突っ走ってくる。
「マルタさん!!」
「第七中隊、参上だよ! 待ちくたびれたよ、この馬鹿ども!」
マルタさんの槍が、灰の獣を、一突きで三体まとめて貫いた。
腰で突く。足の裏から、全部の重さを。
その後ろから、ピートが、第七の古参たちが、新兵たちが、雪崩のように灰の群れへと殺到する。
さらにその後ろには、熊のような大男が率いる、王国軍の本隊。
「ふははは! 鐘が鳴ったら前へ出ろ、だったな! 今日もそれでいくぞ!」
バルド将軍の笑い声が、峡谷に響き渡った。
◇
「――トーマ!」
マルタさんが、灰の獣を蹴散らしながら、俺の前に立った。
「ここはあたしらが引き受けた。あんたと副司令は、さっさと谷の底に行きな」
「でも、マルタさんの肩は――」
「何度言わせるんだい。槍は腰で突くんだよ」
マルタさんは、にっと笑った。
「それにね。あんたの帳面には、もうあたしの名前はないんだろう? ――だったら、あたしは今日、死なないよ」
その言葉に、胸の奥が熱くなった。
「……はい。後を、頼みます」
「あいよ。――第七、道を開けろ! 兵士Cと副司令を、谷の底まで送り届けるんだよ!」
「おおおおおおおっ!!」
第七の雄叫びが、灰色の空を揺らした。
峡谷の底へと続く、灰の群れの中に、一本の道が、切り開かれていく。




