第92話 灰の王の目覚め
宝物庫の奥の石の扉は、ルカが掌を当てると、音もなく開いた。
その先には、螺旋階段がどこまでも下へ伸びていた。壁には、古い帝国の文字がびっしりと刻まれている。
俺とルカとリーゼ、ガイとノエル。五人で、その階段を駆け下りた。
下るほどに、焦げた紙の匂いが濃くなっていく。足元を、灰色の霧がゆっくりと流れていく。
「……皇家の者は、代々ここを『帝国の心臓』と呼んできた。それが、本当に何かの心臓だったとはな」
ルカの声が、石の壁に反響した。
◇
階段の底は、巨大な洞窟だった。
その中央に、黒い柱がそびえていた。
大聖堂の地下で見たものよりも、ずっと太い。峡谷の底で見たものよりも、ずっと黒い。黒曜石のような表面に、無数の光の筋が脈打つように走っている。
その柱の根元に、一人の女が立っていた。
黒い外套。肩までの黒髪。その片手を、そっと柱に当てている。
そして――その首筋から頬にかけて、黒い片翼の紋様が、じわじわと広がっていた。
皇帝の胸から消えた翼と、対になる、もう片方の翼。
「……シオンさん」
俺の声に、彼女はゆっくりと振り向いた。
その顔は、穏やかに笑っていた。
「来ちゃったんだ。――手紙に、『止めないでね』って書いたのに」
「書き直すか迷ったって、書いてありましたよ」
「……そうだったね」
シオンは、少しだけ困ったように笑った。
◇
「シオンさん。その翼は、あなたの命を吸ってる。このままじゃ――」
「うん。灰の王が完全に目を覚ますころには、わたしは、もういないと思う」
あっさりと、彼女は言った。
「でも、それでいいの。灰の王が目を覚ましたら、死んだ人が還ってくる。わたしがいなくなっても、湊が帰ってくるなら、それでいい」
「湊くんが――それを望むと思いますか」
シオンの笑顔が、ほんの少しだけ揺らいだ。
「……わからないよ。だから、会って聞くの」
「――シオンさん!」
俺の後ろから、ノエルが叫んだ。
シオンの視線が、ノエルに向いた。その弓の弦に、もうリボンがないことに、彼女は気づいたようだった。
「……リナちゃんに、会えたんだね」
「リナが言ってました。『シオンさまを助けてあげて』って。『きっと今も、一人で泣いてるから』って」
シオンの唇が、小さく震えた。
「……いい子に、育ったね」
「あんたが育てたんだろうが!」
ノエルの叫びが、洞窟に響き渡った。
「字も、絵も、お茶のいれ方も! あんたが教えたんだろうが! ――だったら、勝手にいなくなるなよ! リナが、また泣くだろうが!」
シオンは、何も言わなかった。
ただ、その頬を、一筋だけ、何かが伝った。
「……ごめんね」
彼女は、柱に当てた手に、力を込めた。
「でも――もう、始めちゃったから」
◇
柱が、光った。
無数の光の筋が、一斉に上へと駆け上がる。洞窟の天井を突き抜け、皇宮を突き抜け、そのまま天へと。
地鳴りがした。いや、地鳴りではない。
遠いどこかで、何か巨大なものが、息を吸い込んだような音。
「――大聖堂の柱と、峡谷の柱も、今、共鳴した」
シオンが、静かに言った。
「黄昏の日が、始まるよ。――今から三日、帝国にも王国にも、日は昇らない。そして三日目の黄昏時に、灰の王は完全に目を覚ます」
彼女の足元から、青い光が立ち昇った。
「待て!」
リーゼの指先から炎が走る。だがそれは、青い光の膜に弾かれて消えた。
「灰の峡谷で待ってる。灰の王の心臓の、一番深いところで」
シオンは、俺をまっすぐに見た。
「――止めたいなら、来て」
青い光が弾けた。
そこにはもう、誰もいなかった。
◇
螺旋階段を駆け上がり、皇宮の中庭へ飛び出した。
そして――俺たちは、空を見上げて立ち尽くした。
夜明けが近いはずの時刻だった。東の空は、白み始めていなければならない。
だが、空は――一面の灰色だった。
雲ではない。霧でもない。空そのものが、灰の色に染まっている。地平線の彼方まで、どこまでも。
「……これが」
リーゼが、小さく呟いた。
「はい」
二万時間、画面の向こうで見続けた空だった。
「――黄昏の日です」




