第91話 シオンの手紙
反乱軍は、その夜のうちに投降した。
将軍ブラントが剣を捨て、第一皇子ゼノンが自ら「これ以上、俺の名で剣を振るな」と叫んだことが、決め手になった。帝都の各所で剣を握っていた反乱兵たちは、その知らせを聞くと、次々に武器を置いた。
帝都の火は、一つ残らず消えていた。
死者は、一人も出なかった。
「……動かないでください。縫いますから」
皇帝の寝所の隣の部屋で、セラが俺の掌を縫っていた。
「……素手で刃を掴むなんて、何を考えているんですか」
「何も考えてなかったです」
「そうでしょうね。声でわかります」
セラは呆れたように笑って、それから少しだけ声を落とした。
「……でも、よかった。ルカ殿下の声、もう、どこも濁っていません」
部屋の反対側では、リーゼが壁にもたれ、腕を組んだままこちらを睨んでいた。
「……私が『前に出すぎるな』と言われたのは、つい半日前のことだったと記憶しているが」
「……すみません」
「謝るな。――後で、たっぷり説教する」
リーゼの指先は、まだ微かに赤く光っていた。帝都中の火を喰らい尽くした代償だ。本人は平気な顔をしているが、その膝が、わずかに震えているのを俺は知っていた。
◇
「――トーマ!」
扉が開き、ガイとノエルが飛び込んできた。
「リナは!」
「無事です。ヘルマンさんの陣で、館の執事さんが付いててくれてます」
ノエルの弓の弦から、赤いリボンが消えていた。
俺がそれに気づいたのを見て、ノエルは少しだけ照れたように顔をそらした。
「……リナに、返しました。もう、俺が持ってる必要はないので」
「……そうか。よかったな」
「それより、これを」
ノエルが懐から取り出したのは、一通の封筒だった。
「シオンさんの部屋の、絵の裏にありました。『兵士Cに渡して』って」
宛名は、日本語だった。
『トーマくんへ』
俺は、包帯だらけの手で、その封を切った。
◇
『トーマくんへ。
この手紙を読んでるってことは、リナちゃんはちゃんとお兄ちゃんのところへ帰れたんだね。よかった。本当に、よかった。
ノエルくんには、ひどいことをした。謝っても許されないけど、ごめんねって、伝えておいて。
峡谷で、柱は満たせなかった。君の言うとおりだった。物語に名前のある人が死ななければ、柱は満ちない。
だから、考えたの。
わたしの名前は、物語のどこにもない。でも――この世界で、物語の結末を知っているのは、君とわたしの二人だけ。『語り手』の命なら、何人分にもなる。
皇帝陛下の命は、もう返す。代わりに、足りない分は、全部わたしが払う。三本の柱をわたしの命で繋いで、灰の王を起こす。
全滅なんて、もういらない。誰も死ななくていい。
ただ、わたしは、湊に会いたい。
それだけなの。
止めないでね。
――ううん。この一行は、書き直そうか迷ったけど、そのままにしておく。
シオン』
◇
手紙を読み終えても、俺はしばらく顔を上げられなかった。
「……トーマ。何と書いてある」
リーゼの声に、俺は手紙の内容を、そのまま訳して語った。
部屋の中が、静まり返った。
やがて――隣の寝所から、ドーラ婆さんの声がした。
「――おい、来てみな! 翼が、皇帝の胸から消えていくよ!」
駆け込むと、皇帝の胸に広がっていた黒い片翼が、羽根の一枚ずつ、灰になって風に散っていくところだった。
皇帝の頬に、みるみる血の気が戻っていく。
「……父上……!」
ルカが寝台にすがりつく。
だが、俺は喜べなかった。
皇帝の命を「返す」。手紙にはそう書いてあった。つまり――
「……始めたんだ」
その瞬間、足元の床が、地の底から大きく揺れた。
「ルカ殿下。帝都の柱は、どこにありますか」
「……皇宮の宝物庫の、さらに下だ。皇家の者しか入れぬ」
「案内してください。今すぐ」
俺は、縫ったばかりの手で、剣を握り直した。
「――止めに行きます」




