第90話 帝都炎上(三) 自分の言葉
考えるより先に、体が動いていた。
俺は自分の剣を放り捨て、ルカの剣の刃を、素手で掴んだ。
掌が裂ける。熱い痛みが、腕を駆け上がる。それでも、離さない。
「――その未来は、潰すって言ったはずです」
ルカの目が、わずかに揺れた。
だが、刃を押し込もうとする力は、弱まらない。まるで、ルカではない誰かが、彼の腕を引いているように。
――これだ。
峡谷の隘路で、リーゼの口から原作の台詞がこぼれた時。彼女は「口が勝手に動いた」と言っていた。
この灰の霧には、物語の記憶が宿っている。そして、物語の中で死ぬと決められた者を、その結末へと引き寄せようとするのだ。
だが、あの時のリーゼは、それを振り切った。
自分の言葉で。
「殿下! 聞こえますか!」
血が、手首を伝って床に落ちる。
「その台詞は、あなたの言葉じゃない! 誰かが書いた、物語の台詞だ!」
「…………」
「奥庭の花壇、覚えてますか! 『ルカの花壇、さわるべからず』。お父上の字だって、あなたが言ったんだ!」
ルカの瞳が、びくりと震えた。
「お父上は、あの花壇を何年も残してた。あなたが帰ってくるのを待ってたんです! その人に、『無力な息子をお許しください』なんて、言うつもりですか!」
「………………」
「自分の言葉で、喋ってください! 殿下!」
◇
ルカの唇が、震えた。
そして――そこからこぼれたのは、俺の知らない言葉だった。
「……いやだ」
小さな、子どものような声。
「いやだ……私は……」
ルカの目に、焦点が戻っていく。その奥に、火が灯る。
「――私は、生きる!」
玉座の間に、皇子の叫びが響き渡った。
「生きて、父上と、もう一度あの花壇の花を見る! 王国との調印を終えて、帝国の民に、腹いっぱいのパンを食わせる! それが――それが、私の言葉だ!」
ルカの手から、力が抜けた。
剣が、乾いた音を立てて床に落ちる。
その瞬間、床から湧き出していた灰の霧が、まるで無理やり振り払われたように、一気に後ずさった。
「……は、はっ……」
ルカが、床に手をついて崩れ落ちた。俺も、血まみれの掌を押さえて膝をついた。
「……すまない、兵士C。かなり、深く切ってしまったようだ」
「これくらい、セラに縫ってもらえば治ります」
◇
「――茶番は、そこまでだ!」
怒鳴り声が響いた。
将軍ブラントが、大剣を振り上げて突進してくる。床に膝をついた俺たちは、動けない。
――間に合わない。
そう思った瞬間。
じゃらり、という重い金属の音がして――ブラントの足が、何かに絡め取られた。
鎖だった。
段の下に繋がれていた第一皇子ゼノンが、自分の手足の鎖ごと、ブラントに飛びかかっていたのだ。
「殿下、何を――!」
「……弟に、手を出すな」
ゼノンはブラントの足にしがみついたまま、掠れた声で言った。
「俺は……一度、こいつを殺させようとした。それでもこいつは、俺を殺さなかった。――二度も、同じ間違いをするほど、俺は愚かじゃない」
「……兄上……」
ルカが、息を呑んだ。
その時。玉座の間の青銅の扉が、外から蹴り破られた。
「――第七中隊、突入!」
煙と煤にまみれた赤い髪が、真っ先に飛び込んできた。その後ろには、ヘルマンの近衛騎士たちと、第七の兵士たち。
リーゼの指先には、まだ、帝都中の火を喰らった余熱が、赤々と燃えていた。
「遅くなった。――生きているな、トーマ」
「はい……そっちこそ」
リーゼは、玉座の間を一瞥した。それから、大剣を握ったまま立ち尽くすブラントに、指先を向けた。
「帝都の火は、一つ残らず私がいただいた。――次は、貴様を喰らってやろうか」
ブラントの手から、大剣がこぼれ落ちた。




