第9話 仮面の王子
銀の仮面の騎士は、手綱を握ったまま、ゆっくりと馬を前へ進めた。
「王国の補給隊が、わざわざ尾根道を這い上ってくるとはな」
若い声だった。仮面越しでも分かる、低くてよく通る声。
「谷の伏兵は、帝国の中でも知る者は少ない。それを見抜いた者がいる。……俺はそいつの顔を見に来た」
リーゼが一歩前に出て、剣の柄に手をかけた。
「私がこの隊の指揮官だ」
「いや、お前じゃない」
仮面の奥の視線が、リーゼを通り過ぎ、俺の上で止まった。
「……そこの兵だ。岩場で谷を見下ろしていたとき、お前だけが、伏兵を探す目じゃなかった。いると知っている目だった」
――この人もか。
この世界の人間は、どうしてこうも人の目ばかり見ているんだ。
「一騎打ちを申し込む。俺が負けたら道を空ける。俺が勝ったら、荷は半分もらう。……全部じゃない。半分だ」
半分。
その一言で、俺には分かってしまった。
帝国は飢饉だ。この騎士が欲しいのは勝利じゃない。麦だ。そして、王国の砦が冬を越せなくなるほどは奪わない。
こんな戦い方をする帝国の騎士を、俺は一人しか知らない。
「……受けます」
「トーマ!」
リーゼが振り返る。俺は小声で言った。
「あの騎士は、約束を守ります。ここで乱戦になれば、剣撃の音が谷の騎兵に届くかもしれない。そうなったら、四十人は守りきれません」
「……それも、夢か」
「はい」
リーゼは唇を噛んだ。それから、籠手を外して、素手を俺に差し出した。
「……借りるなら、私のを借りろ」
「え」
「あの大男の力では、あの騎士には当たらない。速さが要る。……早くしろ。後で気が変わっても知らないぞ」
その耳が、少し赤かった。
俺は、女騎士の手を握った。剣だこだらけで、思ったよりずっと小さい手だった。
「……お借りします。リーゼ様」
左腕の刻印が、熱を帯びた。
◇
尾根道の狭い平地で、俺と仮面の騎士は向かい合った。
相手は馬を降り、細身の長剣を抜いている。刻印は使わないようだ。一騎打ちの作法を守っているのか、それともそんなものは要らないのか。
たぶん、後者だ。
「――参る」
消えた。
そうとしか思えない速さで、銀の刃が喉元に迫る。
体が勝手に動いた。リーゼの速さだ。彼女の体が覚えている反応が、俺の筋肉を引きずっていく。金属が弾け、火花が散った。
二合、三合。受けるたびに腕が痺れる。速さを借りても、重さが足りない。
だが――俺は、この剣を知っている。
アシュレクの第三章。帝国軍の中ボスとして何度も立ちはだかった、仮面の剣士。プレイヤーの間で「初見殺しの筆頭」と呆れられた、あの攻撃パターン。
三連突き。その後、必ず左へ回り込んで、横薙ぎ。
二万時間のうち、こいつに何度殺されたか分からない。
だから、三つ目の突きを受けた瞬間、俺は左へ踏み込んだ。
相手が回り込もうとしたその場所に、先に。
「――なっ」
初めて、仮面の奥から動揺の声が漏れた。
俺の剣が、下から跳ね上がる。刃は喉をそれ、仮面の縁を捕えた。
かん、と高い音。
銀の仮面が宙を舞い、岩場に落ちて転がった。
その下にあったのは、俺とさほど年の変わらない、若い男の顔だった。
黒い髪。金色の瞳。頬に、一筋の浅い切り傷。
俺は、その顔を知っていた。
アシュレクの最終章。無人の玉座に座り、『もう、救うべき民もいない』と笑って、自分の剣を自分に向ける男。
帝国第三王子、ルカ・ヴァルガ。
『死亡予定リスト』の、七行目。
俺の剣先は、彼の喉元の、指一本分手前で止まっていた。
あと一歩踏み込めば、終わる。帝国は王子を一人失い、王国は手柄を一つ得る。たぶん、それが正しい兵士のやり方だ。
でも、俺は知っている。
この男が一年半後、帝都の民を最後の一人まで逃がしてから死ぬことを。
俺は、剣を下ろした。
「……なぜ止めた」
ルカが、低く言った。金色の瞳が、屈辱よりも深い困惑で揺れている。
「……あなたは、ここで死ぬ人じゃないからです」
それから、俺は自分でも止められないまま、言ってしまった。
「来年の冬、帝都の東の穀倉が燃えます。……そのとき、どうか民を見捨てないでください」
アシュレクで、帝国が滅びるきっかけになる事件だ。誰が火を放ったのかは、最後まで明かされなかった。
ルカは、長い間、何も言わなかった。
それから、岩場に転がった仮面を拾い上げ、剣を鞘に収めた。
「約束だ。道は空ける。……谷の騎兵は俺の兄の部隊だ。俺が戻って『尾根には何もなかった』と伝えれば、今夜は動かない」
そして、馬に飛び乗る前に、もう一度だけ俺を振り返った。
金色の瞳が、夕闇の中で、まっすぐに俺を射抜く。
「――お前は、何者だ」




