第10話 歪み
尾根道を下りる道すがら、リーゼは一度も口を開かなかった。
俺はといえば、写し身の反動で両腕が上がらず、ガイの肩を借りてようやく歩いていた。リーゼの速さは、ガイの力よりもずっと高くついた。筋肉という筋肉が、内側から石を詰め込まれたように重い。
野営地に着いて、ようやくリーゼが振り返った。
「……なぜ、見逃した」
「……あの人は、悪い人間じゃないと、夢で見たので」
「敵だぞ」
「はい」
「……お前の夢は、敵まで救うのか」
怒っているのかと思った。でも、焚き火に照らされたリーゼの顔は、怒りよりも、もっと別の何かに近かった。
「……覚えておけ。次に会うとき、あの男がお前を殺さない保証はどこにもない」
それから、彼女は小さく付け加えた。
「……それと。私の剣を、あんな風に使えるのは、私だけだと思っていた」
焚き火が、ぱちりとはぜた。
◇
翌日の昼過ぎ。補給隊は、荷馬車十二台と四十名の、一台も一人も欠けることなく黒狼砦に到着した。
『死亡予定リスト』の二行目に、俺は二重線を引いた。
正門で、補給官のハンスが俺の前に立ち、深々と頭を下げた。
「新兵の夢などと言って、申し訳なかった。……私には、南の町に娘が二人いるんです」
「……そうですか」
それ以上、何も言えなかった。ゲームの中で、この人に娘がいるなんて、一行も書かれていなかった。
その夜の第七の兵舎は、大騒ぎだった。
「聞いてくださいよ! トーマさん、崖の上から谷を指差して、『あそこです』って! そしたら本当に、帝国の騎兵がうじゃうじゃ!」
ピートが、砦中の兵士を相手に身振り手振りで語っている。
「それだけじゃないっすよ。仮面の帝国騎士と一騎打ちして、一撃で仮面を弾き飛ばして、それで『あなたはここで死ぬ人じゃない』って! 敵の運命まで読んじまうんですよ! もう、あれだ。未来を読む軍師だ!」
「おおぉっ!」
……一撃じゃない。三合打ち合った。それに俺は新兵だ。軍師じゃない。
訂正する気力もなく、俺は部屋の隅でガイと杯を合わせた。約束どおり、酒は俺の奢りだ。
「……なあトーマ」
「ん」
「二か月前の夜、お前は俺に『妹に靴を自分で渡せ』って言ったよな」
ガイは杯を見つめたまま、照れたように笑った。
「この前、給金で靴を買って、実家に送ったんだ。この冬の休暇には、履いてるところを見に帰る。……お前のおかげだ」
何か言おうとして、うまく言葉にならなかった。
だから俺は、杯の酒を一気にあおった。
二万時間、一度も変えられなかった運命を、二つ変えた。
信じてもいいのかもしれないと、思った。このまま、全部――
「伝令! 伝令だ!」
兵舎の扉が、蹴破られるように開いた。泥だらけの伝令兵が、息を切らして叫んだ。
「東のリンデ村が、帝国の騎兵に襲われた! 村は火の海だ、動ける隊はすぐに出ろ!」
杯が、手から滑り落ちた。
リンデ村。
知らない。そんな事件は、アシュレクのどこにもない。
――いや。
知らないんじゃない。ゲームの中の帝国の騎兵は、鴉の谷で補給隊から麦を奪って、そのまま帝国へ帰っていった。
今回は、彼らは何も奪えなかった。
飢えた騎兵が、手ぶらで帰る途中に、何をするか。
俺が救った四十人の代わりに、何が燃えたのか。
◇
リンデ村に着いたのは、夜が明ける頃だった。
村は、もう燃えていなかった。燃えるものが、何も残っていなかったからだ。
黒い柱だけが立ち並ぶ中を、第七は無言で歩いた。生き残った村人たちは、村の外れの狩り小屋に身を寄せ合っていた。マルタがその数を数え、何も言わずに帳簿に書きつけた。
その数字を、俺は見なかった。見られなかった。
「……おい、トーマ。こっち来い」
ガイが、村の中央の、半分だけ残った石造りの礼拝堂の前で俺を呼んだ。
「壁に、何か書いてある。……これ、お前の帳面の文字に似てねえか」
煤けた石壁に、炭で、大きく書かれた文字があった。
この世界の誰にも読めない文字。
俺にだけ読める文字。
『シナリオを壊すな』
全身の血が、足元へ落ちていく気がした。
この世界に、俺以外にもいる。
日本語を知っていて。アシュレクの「シナリオ」を知っていて。俺が運命を変えていることも、たぶん知っている。
そして――それを、止めようとしている誰かが。
俺は、懐の帳面を握りしめた。
二重線を引いた二つの行の下に、まだ五つの名前が残っている。
その全部を、そいつは、「正しく」死なせようとしているのだ。




