第87話 兄妹
【幕間 ノエル】
リナが泣き止むまでには、少し時間がかかった。
やがて妹は、ノエルの胸に顔をうずめたまま、くぐもった声で言った。
「……兄ちゃん、絶対来るって、信じてた」
「……ああ」
「シオンさまも、そう言ってた。『あなたのお兄ちゃんは、きっと来るよ。いいお兄ちゃんだから』って」
ノエルは、何も言えなかった。
あの人は、ノエルに嘘を植えつけた。トーマが村を焼いたのだと。妹を人質にして、弓を引かせようとした。
その同じ人が、妹には「お兄ちゃんはきっと来る」と言い続けていた。
「……リナ。あの人は、お前にひどいこと、しなかったか」
「ひどいこと?」
リナは顔を上げ、きょとんと首を傾げた。
「しないよ。シオンさまは、字を教えてくれたよ。絵も。お茶のいれ方も。――ほら、見て」
リナは寝台の下から、小さな木の箱を引っ張り出した。
蓋を開けると、そこには、折りたたまれた紙が、何十枚も入っていた。
「兄ちゃんへのお手紙。字を覚えてから、まいにち書いたの。シオンさまが『お兄ちゃんが来たら、全部いっぺんに渡そうね』って」
ノエルは、一番上の一枚を開いた。
たどたどしい、大きな字。
『にいちゃんへ。きょうは、おにわのおはなに、みずをあげました。にいちゃんも、おなかすいてないですか。りなは、げんきです。』
紙の上に、ぽたりと、雫が落ちた。
◇
「……どうして、今夜は一人だったんだ」
ノエルが尋ねると、リナは少しだけうつむいた。
「……シオンさまが、『今夜でお別れ』って言ったの」
「お別れ?」
「『お兄ちゃんが来たら、一緒に帰りなさい。もう、ここに戻ってきちゃだめよ』って。――それで、わたしのこと、ぎゅってして……泣いてた」
リナは、壁に掛けられた絵を見上げた。
白い壁。白いカーテン。窓辺のベッド。そこで、小さな箱のようなものを握って笑う、痩せた少年。
「シオンさま、泣く時はいつも、あの絵の男の子の名前を呼ぶの。『みなと』って」
「…………」
「『みなと、ごめんね。もう少しだけ待ってて』って。――兄ちゃん、『みなと』って、だれ?」
ノエルは、すぐには答えられなかった。
やがて、彼は絵の前に立ち、それを壁からそっと外した。
「……シオンさんの、弟だよ」
「弟?」
「ああ。ずっと遠くで、死んじゃった弟だ」
そう口にした瞬間、ノエルは、ようやくわかった気がした。
あの人が、なぜリナを「預かった」のか。なぜ、一年半も手放さなかったのか。
兄と引き裂かれた妹。弟と引き裂かれた姉。
あの人は――リナの中に、自分を見ていたのだ。
◇
絵の裏には、一通の封筒が貼りつけられていた。
宛名は、ノエルには読めない、不思議な形の文字。だが、その下に、この世界の文字で、小さく書き添えられていた。
『兵士Cに渡して。――ノエルくん、ごめんね。』
ノエルはその封筒を、そっと懐にしまった。
そして、妹の前に膝をついた。
「リナ。兄ちゃん、もう一つだけ、やらなきゃいけないことがある」
「……また、どこか行っちゃうの?」
「すぐ戻る。今度は、約束する」
ノエルは、弓の弦から赤いリボンをほどいた。そして――妹の髪の、リボンのないほうの房に、それを不器用に結んだ。
一年半ぶりに、二つ結びが揃った。
「…………うん」
リナは、両方のリボンにそっと触れて、それから、ちょっとだけ笑った。
「じゃあ、兄ちゃん。シオンさまのことも、助けてあげてね。シオンさま、きっと今も、一人で泣いてるから」
ノエルは、強く頷いた。
「――ああ。約束する」
窓の外。帝都の東の空で、渦を巻く巨大な炎が、周りの火をすべて飲み込みながら、天へと昇っていくのが見えた。




