第86話 シオンの館
【幕間 ノエル】
北の丘への坂道を駆け上がりながら、ノエルは背中で鐘の音を聞いた。
一つ。二つ。三つ。
振り返ると、帝都の三方から、赤い火の手が上がっていた。トーマの言った通りだ。南と、西と、東。
「立ち止まるな、ノエル!」
前を走るガイが怒鳴った。
「火は副司令に任せろ! 俺たちは、お前の妹だ!」
「……はい!」
ノエルは弓を握り直した。弦に結んだ赤いリボンが、風にはためく。
リンデ村が焼かれた夜、このリボンは、灰の中に落ちていた。リナが二つ結びにしていた、片方だけが。
もう片方は、今もリナの髪にあるはずだ。
◇
館の門は、開いていた。
「……罠か?」
第七の兵士が剣を構える。だが、門の内側に立っていたのは、粗末な燭台を手にした、腰の曲がった老人が一人だけだった。
「……赤いリボンの、お兄さまでございますね」
老人は、ノエルの弓の弦を見て、深々と頭を下げた。
「この館の執事でございます。主より、言いつかっております。――『もし赤いリボンを弓に結んだ少年が来たら、何も聞かずに通しなさい』と」
ノエルは、息を止めた。
「……あの人が?」
「はい。主は今夜、皇宮へお出かけになる前に、使用人を全員、暇を出して帰しました。残ったのは、この老いぼれと――お嬢さまだけでございます」
「リナはどこです!」
「二階の、東の端のお部屋に。――どうぞ、お急ぎください。お嬢さまは、窓から火をご覧になって、怖がっておられます」
ノエルは老人の脇をすり抜け、屋敷の中へ飛び込んだ。
「おい、ノエル! 罠かもしれんぞ!」
ガイの声が後ろから追ってくる。だが、足は止まらなかった。
罠でもいい。その先にリナがいるなら。
◇
階段を二段飛ばしに駆け上がる。
廊下は長く、どの扉も同じに見えた。だが、東の端の扉だけ、下の隙間から、かすかな灯りが漏れていた。
そして――その向こうから、小さな声が聞こえた。
「……だいじょうぶ。だいじょうぶ。兄ちゃんは、きっと来る。……だいじょうぶ……」
自分に言い聞かせるような、震える声。
一年半ぶりに聞く、その声。
ノエルは扉の前で、一瞬だけ立ち尽くした。怒っているだろうか。忘れられているだろうか。あの夜、守れなかった兄のことを。
だが、そんな迷いは、一瞬で終わった。
扉を開けた。
窓辺に、小さな背中がうずくまっていた。毛布にくるまり、自分の膝を抱えている。その髪には――赤いリボンが、片方だけ。
小さな背中が、びくりと跳ねた。
ゆっくりと、振り向く。
そばかすの散った顔。一年半前より、少しだけ大人びた顔。その大きな目が、ノエルの顔を捉え、それから――弓の弦の、赤いリボンを捉えた。
「…………兄ちゃん?」
「……リナ」
声が、うまく出なかった。
「遅くなって、ごめん。――迎えに来た」
毛布が、床に落ちた。
小さな体が、部屋を横切って飛びついてきた。ノエルはそれを、両腕で、全力で受け止めた。
「兄ちゃん……兄ちゃん、兄ちゃん、兄ちゃんっ!」
「ああ……ああ。いるよ。ここにいる」
泣き叫ぶ妹を抱きしめながら、ノエルは、自分も声を上げて泣いていることに、しばらく気づかなかった。
◇
扉の外で、ガイは壁に背を預けていた。
追いついてきた第七の兵士たちが、部屋に入ろうとするのを、太い腕で黙って制する。
「……しばらく、二人にしてやれ」
そう言って、ガイは大きな手で、自分の顔を乱暴にこすった。
「……俺も、妹に会いてえなあ」
窓の外では、帝都の火が、まだ夕焼けのように大きく揺れていた。




