第85話 皇帝の呪い
水路は、本当に狭かった。
膝までつかる冷たい水の中を、腰をかがめて進む。ルカが先頭で小さな灯りを掲げ、その後ろにセラ、ドーラ婆さん、そして最後尾に俺。
「……痛っ」
頭をぶつけた。リーゼに言われたばかりなのに。
「結界の真下を通るぞ。息を潜めてくれ」
頭上の石組みの向こうから、ブーンという低い唸りが伝わってくる。宮廷魔導師団の結界だ。だがその音は、俺たちの頭上を通り過ぎ、やがて背後へと遠ざかっていった。
ルカの読み通りだ。結界は、地下までは届いていない。
◇
古い井戸をよじ登ると、そこは皇宮の奥庭だった。
月明かりの下、手入れの行き届いた花壇が並んでいる。その一角に、小さな木の札が立てられていた。
『ルカの花壇 ―― さわるべからず』
「……父上の字だ」
ルカが、わずかに声を詰まらせた。
「幼い頃、私が植えた花だ。母が亡くなった年に。――まだ、残していてくださったのか」
俺たちは、言葉もなくその花壇を通り過ぎた。
◇
皇帝の寝所の前には、黒い衣の魔導師が二人立っていた。
ルカが剣の柄で一人を、俺がもう一人を、声を上げる間も与えずに眠らせた。第七の夜襲訓練で、マルタさんに叩き込まれた動きだ。
扉を開ける。
広い部屋の奥。天蓋つきの寝台の上に、一人の老人が横たわっていた。
髪も髭も真っ白だ。頬はこけ、呼吸は浅く、速い。そのはだけた胸元に――
黒い、巨大な片翼の鳥が、広がっていた。
「……父上」
ルカが寝台に駆け寄る。皇帝は目を開かない。
ドーラ婆さんが、皇帝の胸元に顔を近づけた。皺だらけの指が、翼の羽根の一枚一枚を、ゆっくりとたどっていく。
「……やっぱりだ。こりゃあ、名人の仕事だよ」
「解けますか」
「解けない。この翼は、帝都の地下の柱と繋がってる。皇帝の命を、少しずつ柱へ流してんだ」
ドーラ婆さんは、そこで少しだけ言いよどんだ。
「……それとね。片翼の鳥ってのは、もう片方の翼を、彫り手が自分の体に彫るんだよ。二つ揃って、初めて飛べる。――つまり、この命の流れには、彫った本人の命も混ざってる」
セラが、皇帝の手をそっと握った。目を閉じ、耳を澄ませる。
「……二つ、聞こえます」
「二つ?」
「皇帝陛下の心臓の音と――その奥に、もう一つ。とても小さくて、とても疲れた音。女の人の……」
セラは目を開け、俺を見た。
「……シオンさんの声です」
俺は、息を呑んだ。
シオンは、皇帝の命だけを柱に注いでいるのではない。自分の命も、一緒に注いでいる。
峡谷の柱が満ちなかった分を、自分で埋めようとしているのだ。
◇
「祈りで焼き切ることはできませんか」
ルカの問いに、ドーラ婆さんは首を振った。
「無理に焼き切れば、片方の翼も一緒に焼ける。彫った本人が、ただじゃ済まないよ」
「…………」
「だが、流れをゆっくりにすることならできる。川に堤を積むようにね。――セラ、手を貸しな。祈りは要らない。あんたの、その温い手が要るんだ」
ドーラ婆さんが道具袋から細い銀の針を取り出し、翼の付け根に、小さな刻印をいくつも重ねていく。セラがその上に掌を当て、まるで熱のある子どもを撫でるように、ゆっくりとさする。
長い時間が過ぎた。
やがて――皇帝の呼吸が、わずかに深くなった。
「……ルカ……か」
掠れた声が、天蓋の内側に落ちた。
「父上!」
「……峡谷のことは……聞いた。よく、やった……」
皇帝は、ゆっくりと首を向け、息子の顔を見た。それから、思いがけないことを口にした。
「……ルカ。あの魔導師を……あまり、責めるな」
「……えっ」
「あの娘は……毎晩、この部屋の前で……泣いておった。ごめんなさい、ごめんなさいと……誰にも聞こえぬように……」
部屋の中が、静まり返った。
「……余は、罪を犯す者の顔を、いやというほど見てきた……だが、あの娘の顔は……そのどれとも違う。――あれは、大切なものを失くした者の顔だ」
皇帝はそこまで言うと、再び目を閉じた。だが今度の眠りは、さっきまでよりも、ずっと穏やかだった。
――その時だった。
窓の外で、鐘が鳴った。
一つ。
二つ。
三つ。
そして――帝都の南と西と東の空が、同時に、赤く染まった。
近々、新作を投稿します!
投稿話数は少なめですが、お楽しみに!




