第82話 帝都へ
その夜のうちに、王城の奥で緊急の議が開かれた。
「調印はまだ済んでおらぬ。王国の兵を帝国に入れることは、古い掟に反する」
古参の貴族が口を開きかけた時、王が静かに手を上げた。
大聖堂の儀のあと、病から回復した王は、もう老いた飾り物ではなかった。
「古い掟なら、もう一つある。――友が火に包まれているなら、水桶を持って駆けつけよ、だ。これは王国の掟ではない。人の掟だ」
王は、卓の端に立つリーゼを見た。
「リーゼ・アーベント。第七中隊より精鋭五十を率い、帝国第二皇子を帝都まで護衛せよ。名目は『救援隊』。剣よりも、水桶と薬草を多く持て」
「――謹んでお受けいたします」
リーゼが片膝をついた。
ルカが、卓の向こうで深く頭を下げていた。その肩が、わずかに震えているのが見えた。
◇
議が終わったあと、回廊で伯爵に呼び止められた。
「トーマ君。君の帳面には、三本の柱が書かれているのだったね」
「はい。大聖堂の地下と、帝都の地下と、灰の峡谷」
「大聖堂の柱は、私が見張る。大司教とも話をつけておこう。――それから、穀物を積んだ荷馬車を、君たちのあとから帝国へ送る。調印を待たずにだ」
「……いいんですか」
「飢えた民に、調印の日付は関係ない」
伯爵はそう言ってから、少しだけ視線をそらした。
「……それと。娘を、頼む」
「はい。必ず」
「君のこともだ」
「えっ」
「君が死ねば、娘が泣く。娘を泣かせたら、徽章は返してもらうと書いたはずだ」
伯爵はそれだけ言うと、さっさと回廊の奥へ歩き去った。その耳が、わずかに赤かったような気がした。
◇
「――なんであたしが留守番なんだいっ!」
太い怒声が、王都の客館の中庭に響いた。
マルタさんだ。講和会議の護衛として、第七と一緒に王都へ来ていたのだ。
「左肩がまだ上がらないでしょう」
セラがきっぱりと言った。灰の峡谷以来、セラはマルタさんにだけは引かなくなった。
「右手があるよ!」
「右手だけでは槍は振れません。腰で突くには、両手が要りますよね?」
「…………」
自分の口癖で切り返され、マルタさんが黙った。ガイとピートが、肩を震わせて笑いをこらえている。
「マルタさん」
俺は彼女の前に立った。
「砦に残った第七と、バルド将軍の軍を、まとめておいてください。たぶん――最後は、灰の峡谷です」
マルタさんの目が、すっと細くなった。
「……黄昏の日ってやつかい」
「はい。その時は、一人でも多く仲間が要ります」
マルタさんはしばらく俺を睨んでいたが、やがて、鼻を鳴らして笑った。
「ふん。じゃあ、その日には、両手で槍を抱えて行ってやるよ。――這ってでもね」
◇
夜明け前。王都の東門に、五十騎の救援隊が集まっていた。
先頭にリーゼとルカ。その後ろに、俺とガイとノエル。荷馬車には、セラとリタとドーラ婆さんが、薬草と包帯の山に埋もれるようにして乗っている。
「婆さんまで来ることはないんじゃ……」
「片翼の鳥の刻印を見たことがあるのは、この国じゃあ、もうあたしくらいだよ。若いもんには任せられないね」
ドーラ婆さんは、年季の入った古い道具袋を、大事そうに抱えていた。
ノエルが、馬上で弓の弦を指で弾いた。赤いリボンが、夜明け前の風に揺れる。
「ノエル」
「……わかってます。今度こそ、リナを迎えに行きます」
「ああ。俺たちも一緒だ」
リーゼが剣を掲げた。
「――救援隊、出発する!」
五十の蹄が、石畳を叩いた。
東の空が白んでいく。その地平の彼方、帝国の方角の空だけが――そこだけ、わずかに灰色に濁っていた。




