第79話 シオンの行方
【幕間 シオン】
帝都の北の丘に建つ館は、夜になると、窓の一つにだけ灯りがともる。
シオンはその部屋で、一枚の絵を眺めていた。
この世界の絵具で、何年もかけて自分で描いた絵だ。白い壁。白いカーテン。窓辺のベッド。そこで携帯ゲーム機を握って笑う、痩せた少年。
この世界の誰にも、これが何の絵なのかはわからない。
「……湊」
呼んでも、絵は答えない。
峡谷の柱は、満ちなかった。あの兵士Cの言うとおりだ。柱が求めていたのは、物語の中で死ぬと決められた者の死だった。
では――真ルートは、本当に、全滅の先にはないのか。
「……ううん」
シオンは首を振った。
たまたまだ。峡谷の柱は、三本のうちの一本に過ぎない。帝都の柱と大聖堂の柱が満ちれば、それでも灰の王は目を覚ます。そうでなければ――そうでなければ、自分がこの世界でやってきたことのすべてが、意味を失う。
コンコン、と扉が叩かれた。
「シオンさま。お茶、持ってきたよ」
扉の隙間から顔を覗かせたのは、赤いリボンで髪を結んだ、そばかすの少女だった。
「……リナ。まだ起きてたの」
「シオンさまが起きてるから。この部屋、いつも最後まで灯りついてるんだもん」
リナは、小さな盆にのせた茶器を、慎重に机の上に置いた。そして、壁の絵を見上げた。
「また、その絵見てる。その男の子、だれ?」
「……弟よ」
「シオンさま、弟がいるの?」
「いたの。ずっと遠くに」
リナはしばらく絵を見ていたが、やがて、ちょっとだけ得意そうに胸を張った。
「わたしにも、兄ちゃんがいるよ。いつか絶対、迎えに来てくれるんだ」
シオンの指が、わずかに震えた。
「……そう。いいお兄ちゃんなのね」
「うん。だから、兄ちゃんが来るまで、シオンさまのお茶、毎晩いれてあげるね」
リナは「おやすみなさい」と頭を下げ、扉の向こうへ消えた。
シオンは、湯気の立つ茶器を、長いこと見つめていた。
あの子を兄のもとへ帰せば、ノエルを縛るものはなくなる。帰さなければ。
帰さなければ――この部屋の灯りを、毎晩、誰かが気にかけてくれる。
「……馬鹿みたい」
シオンは笑って、それから、本当に小さくだけ、泣いた。
◇
「――皇帝陛下が、再び倒れたそうだ」
年の暮れ。黒狼砦の司令室で、リーゼが帝国からの密書を読み上げた。
俺とセラ、ドーラ婆さん、そしてノエルが、その前に並んでいた。
「『父帝の胸に、片翼の鳥のような痣が浮かんだ。宮廷医は病だと言うが、私にはそうは思えない。宮廷魔導師団は、シオンが師団長に復帰して以来、皇宮の警護を一手に引き受けている』」
「……片翼の鳥」
ドーラ婆さんが、しわがれた声で呟いた。
「そりゃあ、病じゃないよ。刻印だ。――それも、彫り手が自分の命を削って結ぶ、たちの悪い奴だね」
「解けますか」
「彫った本人が解くか、――もう一つ。祈りの力で焼き切るかだ」
皆の視線が、セラに集まった。セラは、灰色が薄くなった一房の髪に、そっと指で触れた。
「……私は、もう一人では祈らないと決めています」
「わかってる。誰も、それを頼む気はない」
俺は、自分の左腕を見下ろした。
袖の下で、写し身の刻印が、ひび割れたまま眠っている。
あと一度。たった一度だけ、誰かの力を写し、分け合うことができる。
「……原作では、帝都は春に燃えます」
俺の言葉に、部屋の空気が張り詰めた。
「皇帝が病に倒れ、帝都で反乱が起きる。ルカ殿下は玉座の間で――。その後、帝都の地下の柱が満ちて、黄昏の日が来る」
「……春といえば」
リーゼが、帝国の手紙を閉じた。
「王都で、講和会議が開かれる時期だ」
ノエルが、弓の弦の赤いリボンを、ぞっとするほど強く握りしめていた。




